Web版 有鄰

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有鄰
(題字は、武者小路実篤)
有鄰の由来・論語里仁篇の中の「徳不孤、必有隣」から。 「鄰」は「隣」と同字、仲間の意味。

平成18年8月10日  第465号  P1

○座談会 P1   東海道保土ヶ谷宿・軽部本陣  (1) (2) (3)
軽部紘一/西川武臣/斉藤司
○特集 P4   横浜、カッパが似合う町 横山泰子
○人と作品 P5   乙一と『銃とチョコレート』
○有鄰らいぶらりい P5   安岡正泰監修 『安岡正篤一日一言』平井隆太郎著 『うつし世の乱歩 父・江戸川乱歩の憶い出』広川純著 『一応の推定』筆坂秀世著 『日本共産党』
○類書紹介 P6   「強制収容所」・・・ホロコースト、戦争捕虜、政治犯罪などを理由に数多くの人が収監された。



座談会


東海道保土ヶ谷宿・軽部本陣[かるべほんじん] (1)

保土ヶ谷宿元本陣・軽部家当主 軽部紘一
横浜開港資料館調査研究員   西川武臣
横浜市歴史博物館学芸員   斉藤 司

 

斉藤司氏 軽部紘一氏 西川武臣氏
保土ヶ谷宿絵図
左から斉藤司氏、軽部紘一氏、西川武臣氏
保土ヶ谷宿絵図 (東海道往還町並絵図)
左右に伸びるのが東海道、図の左の角が保土ヶ谷宿本陣

≪資料写真はいずれも元本陣・軽部家蔵≫
<画像の無断転用を禁じます。 画像の著作権は所蔵者・提供者あるいは撮影者にあります。>


    はじめに
 
編集部  

江戸時代、東海道五十三次の名で親しまれているように、街道の各地に宿場がつくられ、そこには参勤交代で江戸と領国を行き来する大名などが宿泊する施設として本陣が設けられました。 江戸・日本橋から数えて4番目の保土ヶ谷宿の本陣は、江戸時代を通じて、軽部家によって受け継がれてきました。

また、幕末に横浜が開港されると、開港場の建設などに軽部家の方々が大変活躍されております。

ご出席いただきました軽部紘一様は、軽部家のご当主でいらっしゃいます。 本日は、代々伝えられてきた貴重な資料の一部も、格別のご配慮によりご持参いただきました。

西川武臣様は、横浜開港資料館調査研究員で、幕末開港期を担当していらっしゃいます。

斉藤司様は、横浜市歴史博物館学芸員で、近世前期を担当していらっしゃいます。

軽部家ご所蔵の資料をご紹介いただきながら、江戸時代の保土ヶ谷宿、あるいは近世から幕末開港期の横浜などにおける軽部家の歴代のご当主の足跡をご紹介いただきたいと存じます。
 


  ◇代々清兵衛を名乗り、本陣・問屋・名主を務める
 
編集部  

軽部様のお宅の歴史はいつごろから始まるんでしょうか。
 

軽部  

家伝によりますと、軽部家の先祖は戦国時代の苅部豊前守康則[やすのり]と言われております。 豊前守は当時、関東地方に勢力を持っていた小田原の北条家に仕えておりまして、武蔵の鉢形城[はちがたじょう](今の埼玉県)の城代家老を務めていたそうです。

その子供の出羽守吉里[よしさと]の時代、天正18年(1590年)に北条家は豊臣秀吉に敗れまして、出羽守も戦死し、出羽守の孫の初代清兵衛のとき、幕府から保土ヶ谷宿の本陣・名主・問屋[といや]の役を命ぜられました。 慶長6年(1601年)のことです。

その後、明治初年までの約270年の長い間、11代にわたり、代々の当主が清兵衛を名乗りまして、その職を務めてまいりました。

本陣は経済的な負担が大きく、経営は非常に苦しかったようで、宝永2年(1705年)には、6代清兵衛の娘に豪商の紀伊国屋文左衛門の二男を入り婿に迎えまして、その持参金で借財の返済に充てたと言われています。

この7代目清兵衛吉一は、婿入りの後に養家の復興に励みましたけれども、養父に先立って亡くなっております。

その子の8代清兵衛悦相[えつそう]は10歳で父に死別しましたので、若くして三役を引き継ぎ、天明8年(1788年)には、幕府から60年余りの勤続を表彰され、苗字帯刀を許されました。 士農工商の差別が厳しかったときに、武士並みの待遇をされたわけでございます。 81歳で亡くなりました。
 


   明治天皇東幸のおりに「苅部」から「軽部」に改姓
 
軽部  
  明治初期の軽部本陣
  明治初期の軽部本陣
 

10代清兵衛悦甫[えつほ]が65歳の安政6年(1859年)に横浜が開港場となり、保土ヶ谷宿の職務のほかに、横浜町(今の中区本町、南仲通、北仲通、弁天通、海岸通)の総年寄を命ぜられまして、初期の横浜の町の建設、発展のために尽力いたしました。

町の財政の苦しい折に、貿易歩合金制度(貿易商人から売上金の一部を徴収)を導入して、町の財政の基礎をつくったと言われております。 また、氾濫の多かった今井川(帷子[かたびら]川の支流)の改修等も行ったと言われております。

11代清兵衛悦巽[えっせん]も、保土ヶ谷宿の三役と横浜町の総年寄を務めましたが、明治3年(1870年)に本陣は廃止となりました。

明治元年の明治天皇のご東幸のときを始め、明治20年代にかけて、天皇、皇后、皇族方のご休憩もたびたびございました。 名字の「苅部」を「軽部」に改めましたのも悦巽のときで、明治天皇ご東幸のおりのことでした。

本陣の建物は、建坪約270坪ございましたけれども、大正12年(1923年)の関東大震災で倒壊しまして、今は一般の民家となっております。 昔の格式の玄関ですとか、書院、門構えの面影は残念ながら残っておりません。

私は、苅部豊前守康則より数えますと19代目に当たります。
 


  ◇東海道が成立した慶長6年の伝馬朱印状
 
編集部  

軽部家の最も古い資料は、慶長年間のものですか。
 

軽部  

昭和8年に祖父の軽部三郎がつくりました文書目録によりますと、慶長6年(1601年)の東海道の伝馬[てんま]朱印状がございます。
 

斉藤  
伝馬朱印状  
伝馬朱印状
慶長6年 (1601年)
 
 

徳川家康は、後の東海道五十三次になる宿場を慶長6年に設定しますが、最初から五十三の宿場が成立したわけではありません。

小田原北条氏が滅びた後、徳川氏が関東に入りますが、徳川氏の領国である江戸から三島までは、文禄2年(1593年)までには伝馬制度ができていました。

この段階で品川、神奈川、保土ヶ谷、藤沢、平塚、大磯、小田原、三島の宿場の原型が成立しており、これを慶長6年に、改めて京都までつないだということになります。

慶長6年の正月に、伝馬朱印状と言われる朱印状を家康が発給しています。 これにはこの朱印状を持っていない者には伝馬を出すな、人足を出すなと記されています。 逆に言えば、これを持っている者には人足を出しなさいということになります。

慶長6年に成立した宿場数は、40幾つだと思うんですが、慶長6年の朱印状が今、残っているものは、ごく少数でしょう。 おそらく東京都、神奈川県でも残っているのは保土ヶ谷だけだと思います。 三島は、たしか三島大社に残っています。 そういう意味では非常に貴重な資料ですね。
 


   保土ヶ谷宿の権太坂は箱根の手前の難所
 
編集部  

保土ヶ谷宿の次の戸塚宿ができるのは少し遅れるわけですか。
 

斉藤  
  芝生村境より戸塚宿迄往還絵図
  芝生村境より戸塚宿境迄往還絵図
 宝暦6年 (1756年)
 

戸塚宿は、慶長9年(1604年)にできます。 ふつうの人が歩く距離は、10里(40キロ)というのが1日の行程ですので、江戸から歩くと、保土ヶ谷から戸塚のあたりが限界です。

江戸から保土ヶ谷までは東京湾に沿う形で、基本的には平坦な地形ですが、保土ヶ谷から藤沢の間では、権太坂[ごんたざか]を上って、品濃坂[しなのざか]を降りて、また戸塚の大坂で上りになる。 藤沢まで降り切ってしまえば今度は相模湾に沿う形で平坦になりますが、保土ヶ谷から藤沢までは4里(16キロ)ぐらいありますので、かなり遠い。 箱根までの行程で一番長距離で難所なのがこの場所になります。 それで、戸塚で人足を供給したり、あるいは泊まったりしたようです。 結局、戸塚を宿場にしたほうが便利ということで、保土ヶ谷に3年おくれて成立します。

戸塚を宿駅にしようと、戸塚の澤邊[さわべ]本陣のご当主が願書を提出しますが、そのときに隣になる保土ヶ谷宿と藤沢宿の両方の合意を得ようとします。 保土ヶ谷宿のほうは、距離が短くなるので、了承ということになりますが、藤沢のほうは反対する。 最終的にはどうも幕府の上まで行って、決まるようです。
 

編集部  

戸塚宿ができるときの文書が澤邊本陣のほうに残されていますね。
 

斉藤  

慶長9年2月のものと思われる文書で、軽部家から澤邊家に宛てたもので、戸塚を宿場にすることについて保土ヶ谷宿としては合意しています、という内容です。
 


   東海道と金沢道が分岐する重要な地点
 
編集部  

保土ヶ谷宿は、本陣を中心に旅籠[はたご]があったんですね。
 

斉藤  

本陣が軽部家で、脇本陣が藤屋、水屋、大金子屋の3軒で、旅籠は全部で5、60軒です。

天保14年(1843年)ころに幕府が調査した『東海道宿村大概帳』では、人口が、保土ヶ谷も戸塚も3千人ぐらい、神奈川が6千人ほどなので、人口に比べると、保土ヶ谷と戸塚は旅籠が多い。

保土ヶ谷や戸塚は、江戸から来たときの一泊目の宿場ですね。 大人の男性は戸塚まで歩けますが、年配の方や女性、子供を連れた旅だと、戸塚までは少々きつい。 それに保土ヶ谷と戸塚の間は武蔵と相模の国境で、坂道もあるので、その手前の保土ヶ谷に旅籠屋が多いということになります。 弥次さん喜多さんの『東海道中膝栗毛』にも「おとまりは よい程が谷と とめ女 戸塚前でははなさざりけり」と書かれていて、留め女が袖を放さず、保土ヶ谷で泊まりなさいという話があります。

もう一つの大きなポイントは金沢道でしょう。 三浦半島の浦賀は東京湾の入り口の関門です。 そこへ陸上のルートで行くとすると、東海道の保土ヶ谷宿から金沢横丁を通って浦賀に出る。 その途中には杉田の梅林や金沢八景という景勝地があります。 東海道と金沢道を分岐する、非常に重要な地点だと思います。
 


   中世から領地があった可能性も
 
西川  
  保土ヶ谷宿および周辺村々の図
  保土ヶ谷宿および周辺村々の図
 

古くから神奈川、芝生[しぼう](今の西区浅間町付近)、保土ヶ谷の三地域は一つの町場として機能し、北部の小机から神奈川に出てくる道があり、東西に伸びる東海道があり、さらに保土ヶ谷から南の金沢、浦賀へつながる道があるという形で、この一帯は、南北、東西のターミナルだった。

しかも、海があって、陸路と海とのターミナルという立地でもあった。 そのなかに大きな二つの町があり、一つが神奈川の宿場であり、もう一つは保土ヶ谷の宿場だったというとらえ方ができる。 その構造はずうっと幕末まで続きます。

流通の拠点であり、交通の要衝であり、観光的な意味でもそこに人が集まってくる。 そういう場所だったんだろうと思うんです。

軽部さんのご先祖は、中世から保土ヶ谷あたりにいらしたと考えていいんじゃないでしょうか。 初代のお墓は今の菩提寺にあるんですか。
 

軽部家歴代の墓所
軽部家歴代の墓所
保土ヶ谷区・大仙寺
 
軽部  

初代の清兵衛から保土ヶ谷の大仙寺にあります。 初代の母の墓は、自ら開基したと言われる保土ヶ谷の樹源寺にあります。

初代の父の吉重[よししげ]は長野の善光寺に父祖の菩提を弔うために止まっていますから、信州にも関係があったのかと思いますが、吉重の二男の初代清兵衛が保土ヶ谷に戻されたのも先祖の領地があった縁でこういう役を命ぜられたということですから、中世から住んでいた可能性はあると思います。
 

斉藤  

最近出版された『戦国人名事典』という本に「苅部備前守」というのが出てきまして、小机衆なんです。 軽部さんのご先祖は「豊前守」と伝えられていますが、小机から海のほうに出てくると保土ヶ谷あたりになりますから、あの辺に領地があってもおかしくないと思います。
 


   宿場の中で一番見通しがきく場所につくられる
 
編集部  

軽部さんのお宅は東海道と金沢道との分岐点にあたる重要な場所に位置していますが、それには何か意図があるのでしょうか。
 

斉藤  

天保年間に編纂された『新編武蔵風土記稿』には慶長6年の段階では、今、元町と呼ばれている権太坂から降りたところが保土ヶ谷の集落だったと書いてあります。

つまり、元町橋のところにあった保土ヶ谷の町と、帷子川河口の帷子の町が二つ合わさって宿場になっています。 これは大体1650年まで続きます。

東海道の保土ヶ谷宿の今の道路景観を見ますと、相鉄線の天王町駅の前にあった帷子橋からまっすぐ来た道が、軽部さんのところでほぼ90度に曲がっている。 これは明らかに、計画的・人工的につくられたラインだと考えられます。

つまり、宿場の中で、一番見通しのきくところに本陣を構えた。 先に本陣の場所を設定して、それに合わせて道を通したと考えたほうが合理的ですね。
 

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