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有鄰

平成18年8月10日  第465号  P3

○座談会 P1   東海道保土ヶ谷宿・軽部本陣  (1) (2) (3)
軽部紘一/西川武臣/斉藤司
○特集 P4   横浜、カッパが似合う町 横山泰子
○人と作品 P5   乙一と『銃とチョコレート』
○有鄰らいぶらりい P5   安岡正泰監修 『安岡正篤一日一言』平井隆太郎著 『うつし世の乱歩 父・江戸川乱歩の憶い出』広川純著 『一応の推定』筆坂秀世著 『日本共産党』
○類書紹介 P6   「強制収容所」・・・ホロコースト、戦争捕虜、政治犯罪などを理由に数多くの人が収監された。




座談会


東海道保土ヶ谷宿・軽部本陣[かるべほんじん] (3)
 


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  ◇10代目悦甫が横浜開港の際に総年寄に就任
 
編集部  

幕末に横浜が注目を浴びるようになると、10代目悦甫さんが関係を持つんですね。
 

西川  
刈部精兵衛悦甫  
刈部精兵衛悦甫
 
 

横浜が開港したのは安政6年(1859年)です。 それ以前の横浜はご存じのとおり半農半漁の村で、そこに幕府が都市計画をして街を造るわけですから、行政組織がないのです。 神奈川奉行所ができますが、これも急遽つくった組織で、当初は外国奉行の兼任で、開港の翌年まで専任の神奈川奉行はいなかったんです。

横浜関係の事務も、開港までは仮会所という仮の役所みたいなものを神奈川宿に置いてやっていた。 開港と同時に町行政をやる役所が必要になり、初代の総年寄に軽部家が任命される。

軽部家が選ばれた理由はいくつかあるんでしょうが、保土ヶ谷で名主・問屋・本陣という重要な三役を担って、行政手腕を発揮していた人物を任命することで、でき上がったばかりの横浜の町の行政がうまくいくように、幕府が仕組んだんだと思うんです。

軽部家は、それ以前から今井川の改修をしていますね。 川を浚って、掘った土砂を品川台場をつくるときに幕府に献納する。 外国船の渡来に備え、海防政策をしている部署の役人たちが、やがて横浜が開港すると、外交にもかかわるようになる。

そういうお役人と、軽部家はつながりを持っていたんでしょう。 横浜の町の行政は軽部家に負うところが非常に大きいと、私は思っているんです。 今とはかなり違いますけれども、現在の市長みたいに政府と横浜の町、あるいは地域と横浜の町をつなぐ、非常に大きな役割を果たされた。
 


   保土ヶ谷宿から横浜町へ25軒が移住
 
西川  

軽部さんを指名することで、保土ヶ谷全体の協力を得られるという発想があったと思うんですね。

『横浜市史』2巻の巻末の商人録で数えると、安政6年段階で、保土ヶ谷から25軒が集団で横浜町に移住しているんです。 その中心が、総年寄の軽部家であり、ご養子に入った庫次郎さんがその中の一人として、東屋の屋号で錦絵を売る店を出します。 それと、手代と思われる東屋新吉が、横浜の絵図の出版もしていますね。

開港場には、安政6年段階で、横浜の周辺地域から6、70人移住してくるんですが、一つの宿場から25軒というのは神奈川宿に次いで多い。 住民自体が来るということですから、神奈川宿と保土ヶ谷宿によって横浜の町が支えられる。

その商人たちが貿易そのものに参加するのではないにしろ、例えば日常的な消費物資を周辺地域から開港したばかりの横浜に運び込まないと、町が成り立たないということもあったでしょうね。
 


   横浜村の絵図や帷子川河口の埋め立て図など
 
編集部  

拝見させていただいた絵図には、非常に珍しいものがありましたね。
 

西川  

開港以前の横浜村の絵図がいくつもあるとは思いませんでしたね。 何のためにつくったのかというのがわからないんだけれども。
 

斉藤  

横浜新田が埋め立てられているので寛政8年(1796年)以降の絵図でしょうね。 川崎市市民ミュージアムに所蔵されている池上家文書にも横浜村の絵図が4、5枚あったと思います。 池上家は、埋め立てや砂糖の製造などを行った旧家で、横浜周辺の埋め立ても願い出たからでしょうか。
 

西川  

開港直後の絵図はいろいろあるんです。 それ以前の景観が、地元の軽部家に残った資料でわかるというのは貴重ですね。
 

斉藤  

現在の横浜駅のあるあたり、帷子川の河口の埋め立ての絵図もありますね。 神奈川湊の袖ヶ浦が埋め立てられ、尾張屋新田、藤江新田、岡野新田、平沼新田などができてきますが、それらの開発絵図は珍しいですね。
 

帷子川口寄州新開場図
帷子川口寄州新開場図
西川  

埋め立ては、帷子川上流を主にかなりやられていますが、東海道のほうの広がりでは、戸塚宿の手前までの絵図がいくつかありますね。
 

斉藤  

それが保土ヶ谷という場所と、軽部家が担っている地域性的な広がりだと考えても、大きな間違いはないのでしょう。 このようにたくさんの絵図が残されているような多様性、地域的な役割があるから、横浜へ呼ばれることになったのだと思います。
 


   横浜道の築造や町の行政に必要な歩合金制度をつくる
 
編集部  

開港場までの横浜道の開削にも軽部さんのお宅は関わっていらっしゃる。
 

西川  

横浜道は、横浜が開港場に決まった段階で、幕府が現在の浅間町のところで、東海道から分岐する新しい道をつくります。 軽部家は今井川の改修や、問屋役をやっていて、労働者の束ね方は手なれておられたでしょうし、人の動かし方はよくご存じなので、横浜道の築造、普請にも関わられたのでしょう。

それから、一番大きな業績としては、先ほどもお話にありましたが、町の行政の運営費を貿易商たちから取り立てる歩合金制度を軽部悦甫さんがつくっておられる。 道がちょっと傷んだとか、どこかの橋が壊れたというと、修繕費を町の予算から支出しないといけない。 その金がないと町の行政が成り立たなくなることがあって、貿易額に応じた歩合金と呼ばれる金を徴収する制度をつくって、当初は輸出商から、しばらくしてからは輸入商からも取り立てる。 それが明治時代までの町財政の基礎になった。 インフラの整備、人々を集めて横浜の町を支える構造、それから行政そのものの運営費みたいなものもつくり上げた。 功績としては非常に大きいんです。
 

横浜村絵図
浜村絵図
 
 
軽部  

本陣などの役はもうかる商売でもありませんし、ある意味、社会奉仕といいますか、名誉職的なもので、本当はやめたいようなところもあったと思うんですが(笑)、総年寄役に指名されまして、期待をされ、それにこたえてみんなでわっと横浜の発展のために出ていったわけです。
 


   明治30年以降宿場町は横浜に吸収されていく
 
軽部  

保土ヶ谷宿の大勢の商人の方ですとか、埋め立てでも保土ヶ谷宿の人たちが立派に成果を上げられて、大変活躍されたのですが、残念なことに、いつの間にか多くの人が横浜から引き揚げてしまったようですね。
 

西川  

明治30年ぐらいから、横浜の町が、周辺部の町をそれほど当てにしなくても成り立つようになってくるんです。 インフラの整備も、単なる横浜道が通っていればいい段階から、汽車が通り、船が通り、さまざまな交通手段が出てくる。 横浜で使う消費物資を周辺部から集めなくてもいいといった構造の中で、近隣地域の地盤が低下して、明治20年代までは独立していた横浜周辺の宿場町が、それ以降むしろ横浜に吸収される形になっていく。

軽部家自体も総年寄をずっとやっておられたけれども、明治6年に、戸長という名前に変わる。 官選戸長が送り込まれて、政府直轄地域みたいな形に変わるんです。
 


  ◇地域の歴史を考える上で不可欠な資料
 
編集部  

軽部家の資料は古くから注目され、大正時代にも調査が行われていますね。
 

西川  

おじいさまに当たる軽部三郎様が、歴史に非常に興味を持たれて、自分のお宅だけでなく、地域のいろんなことも研究された方で、大正年間にご自分で文書目録をつくられた。 それが現在も伝わっていて、我々もずいぶん利用させていただいています。

横浜市では、大正の震災の前ぐらいから『横浜市史稿』という本を出版する計画があり、その重要な資料の一つとして、軽部家の資料をお借りして写本をつくった。 大正13年の日付がありますから、関東大震災直後ですね。

『保土ヶ谷区郷土史』が昭和13年に出ていますが、ここにも軽部家の文書がかなり大量に入っています。 保土ヶ谷区役所に郷土史刊行委員会ができて、磯貝正さんが軽部三郎さんに協力を求めて収録したという形だと思います。

横浜市域を考えるとき、保土ヶ谷は、幕末から明治にかけて市域の中心なんです。 今日は絵図を中心に見せていただきましたが、絵図だけでなく、写本類を見ても、地域の歴史を考える上で、どうしても必要な資料であることは間違いない。

資料が増えてくるのは、恐らく江戸時代中期以降でしょうけれども、横浜のことを考える上での東海道という一番の拠点のところと、横浜の開港場の関係の資料が一番たくさん残っている。 横浜で重要ということは、神奈川県でも最重要の資料群の一つです。
 


   断片的なものを組み立てる基軸となる資料群
 
編集部  

今、拝見した資料だけでも、たいへん素晴らしいですね。
 

西川  

絵図類の色もきれいに残っていますしね。 こういうものは昔はカラー写真で紹介されませんでしたから、絵図は本当に驚きました。
 

斉藤  

保土ヶ谷宿の資料はもちろんなんですが、横浜市内の河川の体系でも、帷子川や今井川の絵図がまとまってあるのは初めて拝見しましたし、さらに言えば、吉田新田と、現在の横浜駅があるところの袖ヶ浦を埋め立ててできた新田の開発などは、本来セットの入り江のはずなので、そういう意味で考えると、非常に広がりがあって興味深いですね。

断片的なものは今までもありましたが、基軸になるものが必要なんです。 それが出てきて、全体の組み立てがわかってくる。 慶長6年から始まって、横浜開港、明治期と移る資料群として非常にいいですね。
 

西川  

横浜には吉田橋などに関所が設けられていましたが、その関所を通るための手形とか、「プロシャ・フランス公使館前道路図」なども珍しい資料ですね。
 

   

横浜関門切手

プロシャ・フランス公使館前道路
    横浜関門切手 プロシャ・フランス公使館前道路図
(現在の中区本町5丁目辺り)

   研究を進めて近い将来博物館などで公開
 
編集部  

横浜市は2009年に開港150年を迎えますので、その辺で何か計画などございますか。
 

軽部  

私のほうといたしましても、そういう節目の時期でもありますので、協力は当然しないといけないと思います。 何かあれば、できることはやりたいと思っております。
 

斉藤  

横浜市歴史博物館で保土ヶ谷の宿場の展示は、是非やらせていただきたいと思います。
 

西川  

開港150年を迎えるに当たって申し上げたいこととして、『横浜市史』が、開港100年を記念して出版されています。 ところが、そこでは、近代横浜は幕府が都市計画によってつくった都市であり、周辺地域の近世までの歴史とは隔絶した世界であるというような形でまとめられています。 けれども、軽部さんのお宅の資料を見れば、必ずしもそうではなくて、むしろ江戸時代以来の伝統と、地域の協力によって横浜という町ができ上がったんだということが証明できる。 横浜のアイデンティティを考えいく上で非常に重要な資料群であると強く思いますね。
 

編集部  

横浜の開港場を支えたバックグラウンドが軽部家の資料によって浮かび上がってくるということですね。
 

軽部  

何代にもわたって、本陣ほかの諸役を無事務められたのも、町の皆様のご協力をいただいたことが大変大きいと思います。 今後、西川先生、斉藤先生はじめ研究される方々のお力によって、当時の様子が解明されていくことを楽しみにしております。
 

編集部  

近い将来、一般の方々にも博物館や資料館でご披露いただけようになるといいですね。
 

西川  

ぜひ、お願いしたいと思います。
 

編集部  

貴重なお話をありがとうございました。
 



 
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軽部紘一 (かるべ こういち)
1944年横浜生れ。

西川武臣 (にしかわ たけおみ)
1955年愛知県生れ。

著書『横浜開港と交通の近代化』 日本経済評論社 2625円(5%税込)、共著『開国日本と横浜中華街』 大修館書店 1785円(5%税込)、ほか。


斉藤 司 (さいとうつかさ)
1960年横須賀市生れ。
共著『江戸時代の神奈川』有隣堂(品切)





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