Web版 有鄰

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有鄰
(題字は、武者小路実篤)
有鄰の由来・論語里仁篇の中の「徳不孤、必有隣」から。 「鄰」は「隣」と同字、仲間の意味。

平成18年10月10日  第467号  P1

○座談会 P1   京浜工業地帯の父 浅野総一郎の軌跡 (1) (2) (3)
齋藤憲/渡邉恵一/松本洋幸/松信裕
○特集 P4   山口蓬春と葉山 橋秀文
○人と作品 P5   貫井徳郎と『空白の叫び』
○有鄰らいぶらりい P5   富岡幸一郎著 『新大東亜戦争肯定論』火坂雅志著 『沢彦[たくげん]』遠藤展子著 『藤沢周平 父の周辺』安倍晋三著 『美しい国へ』
○類書紹介 P6   「星と天体」・・・夜空に光り輝く星。 宇宙の謎は少しずつ解き明かされている。


座談会

京浜工業地帯の父
浅野総一郎の軌跡 (1)


専修大学教授 齋藤憲
駒澤大学助教授   渡邉恵一
横浜開港資料館 調査研究員   松本洋幸
 有隣堂社長    松信裕
 
安善町
(昭和初期)
東亜建設工業株式会社 蔵

右から渡邉恵一氏、齋藤憲氏、松本洋幸氏と松信裕
右から渡邉恵一氏、齋藤憲氏、松本洋幸氏と松信裕

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    はじめに
 
松信  

横浜、川崎、東京に広がる京浜工業地帯には、浅野総一郎を中心とした実業家たちが、明治、大正、昭和にかけておこなった臨海部の大規模な埋立事業によって、重化学工業などの企業が次々と進出し、日本屈指の工業地帯を形成しました。

浅野総一郎は嘉永元年(1848年)現在の富山県に生まれ、上京し、若くして石炭・海運業を始め、セメント事業の設立など、数多くの事業を立ち上げて、「京浜工業地帯の父」とも言われました。

本日は、浅野の生涯をたどりながら、彼の実績と幅広い人脈などをご紹介いただき、京浜工業地帯の成立期の様子についてもお話しいただきたいと思っております。

ご出席いただきました齋藤憲先生は、日本経営史がご専門で、専修大学経営学部教授でいらっしゃいます。 ご著書に浅野総一郎の生涯を描いた『稼ぐに追いつく貧乏なし』(東洋経済新報社刊)がございます。

渡邉恵一先生は、近代日本経済史・交通史をご専攻で、駒澤大学経済学部助教授でいらっしゃいます。 ご著書に、『浅野セメントの物流史』(立教大学出版会刊)がございます。

松本洋幸先生は、横浜開港資料館調査研究員で、横浜周辺の地域史を研究されていらっしゃいます。 『横浜近郊の近代史』(共著・日本経済評論社刊)に論文がございます。
 


  
◇富山県で医者の子として生まれる
 
松信  

浅野総一郎はどんな家に生まれたんですか。
 

齋藤  

1848年に、現在の富山県氷見市の医者の長男として生まれます。 別の町医に養子に出されたり、その家を出たりと、いろいろあったようですけれども、とにかく子供のころから事業活動が非常に好きだったようです。
 

松信  

17歳で商売を始めますね。
 

齋藤  

当時は事業をすること自体、商人階級でないところから出てくるのは非常に少ない。 そういう才覚を持っていたんだと思うんです。

でも、それも全部失敗するんです。 「三つ子の魂」といいますが、そのころのプロセスが、一生にわたっての彼の事業活動の性格みたいなものを表現している。 彼は、大きな財産をつくりたいというよりは、事業をすること自体が非常に好きで、逆に困難というものに直面したときに、それをどう乗り越えるか。 実際は乗り越えられなくて、年中、失敗してしまうんですが、それが彼にとっての一番楽しみだったのではないか。

その姿が、子供時代にすでにあらわれていて、事業をどんどん広げては、資金が不足してつぶれてしまう。 その繰り返しで、やがて夜逃げ同然に、今の東京の御茶ノ水のあたりへ出てくる。
 


  失敗から学ばずに先駆性を持って事業活動を展開
 
齋藤  
  浅野総一郎
  浅野総一郎
   

経営学でいう、経営財務論みたいな考えはないんです。 お金は後からついて回ってくる。 あるいは事業をやって成功したら、いかに相手を説き伏せて金を集めるかという発想が一生涯続く。

ただ、セメント業界などで常に先頭を突っ走っていけるのは、新しい時代のセメントはどういうものになるかという考え方みたいなのが、常に同業他社の先を行っていたわけです。 そういう意味では先駆性みたいなものを持っていて、それがうまく出れば事業活動として成功するけれど、悪く出ればマイナスになってしまう。

ふつうは、これ以上やったら失敗すると思えば、恐らくもう事業活動は続けないでしょう。 彼は子供のときに、常にお金が不足して失敗していますから、そこで学ぶんだろうと思うんです。 ところが、この人は学ばなかったんですね。 そこが逆に言うと、総一郎が巨大な人間になった一つの理由なのではないだろうかという気もいたします。

例えば京浜工業地帯などはインフラですから、本来は国家とか地方財政などが担当する分野ですね。 それを私企業として財界から金を集めてつくってしまうというのは、利益の出る可能性が薄いから、普通の人は手がけない。 このような取りとめのないというか、むちゃくちゃなことをやってしまう性格が、逆に現在の神奈川県なり、あるいは川崎とか、横浜にとっては決定的な意味を持っていたのかなという感じがいたします。
 


  
◇元手のいらない「水売り」で事業を再スタート
 
松信  

夜逃げ同然で上京してきて、元手のないところから商売を始める。
 

齋藤  

それが明治4年(1871年)ですね。 お母さんが持たせてくれたわずかなお金だけで逃げてきますから、資本金がない。 それで「冷っこい冷っこい」と言って、茶わん一杯いくらで砂糖水を売っていた。 下宿屋の主人の大熊良平に、「金がないんだったら、水売りをやったら」と言われ、彼の事業活動が再スタートします。

この商売は、砂糖のかたまりと、御茶ノ水付近の神田川から水を汲んでくる桶とか、売るための茶わんとか、そういうものしか資本はかからない。 あとは冷たい水を汲んでくる自分の労力だけでいいわけです。

一銭ぐらいの値段で、水を売る。 これがかなりの利益を出しまして、一日に40杯ぐらい売れたというんです。 そのお金で賄いつきの下宿屋の下宿代を支払って、なおかつお金が何円か残った。 それを蓄えて次のステップへ向けようと考えるわけです。

ところが、冷たい水が売れるのは夏だけですから、冬になると今度は竹の皮を売るんです。 当時は竹林があっちこっちにあったでしょうから、元手はかからないうえに、当時は味噌などを包むために需要があった。

男の子を一人雇いまして、満足に寝もしないで竹の皮を延ばして、それをまとめて売ったところでたかが知れていたと思います。

総一郎は、最底辺のところまで落ち込んだわけですね。 その結果、自分は何をやっても、そこからはい出すことができるということを学んだのではないでしょうか。
 


  公衆便所をつくりくみ取り料でもうけ社会問題も解決
 
松信  

それから横浜に移ってくる。
 

齋藤  
  渋沢栄一
  渋沢栄一

横浜で、薪炭や石炭の店を開くんですね。 その中で、何でも売れると言ったら神奈川県の野村靖県令が「じゃ、人間の残骸は売れるか」と言った。 売ってみせるといって、人糞を売るわけです。

2,000円を神奈川県から借りて、公衆便所を63か所つくるんです。 当時のお百姓はそれが肥料ですから、汲み取り料を月に200円ないしは350円で下請に任せる。 1年で2,400円になって、神奈川県から借りたお金が返せて、利息がつく。 10年間の契約ですから、24,000円を最低でももうけた。 実際には需要がふえて値上げもしていますから、もう少しもうけたと思いますが、これによって、道端で平気で用をたすという社会的に見苦しい問題を解決した、と総一郎自身が言っています。 そのうえ、利益を出した。 何でも売れないものはない。 商売はものの見方さえ変えれば、何でもできるということなんですね。

それを別の面から見れば、これは渋沢栄一の影響だろうと思いますが、国家のために事業をすることになったときに、人ができないことでも自分なりの算段を用いれば、それを事業化して黒字にできるだろう。 それを自分はやるんだという考えになったのではないでしょうか。
 


   廃物のコークスやコールタールを転売して利益を出す
 
松信  

そのほかにも、廃物利用の商売をいくつもやっていますね。
 

齋藤  

はい。 例えばコークスなどは、横浜の瓦斯[ガス]局に、石炭からガスをとった残りのコークスを処分できずに置いてある。 そのコークスは本当に使えないのか、深川のセメント工場にいた知人の技師に確かめてもらったら、役に立つと言われ、それを転売して利益を出した。

コールタールも、同じように廃物として出るんですが、当時はコレラがはやって、たくさんの人が死んでいた。 その消毒にコールタールからとった石炭酸が必要だということがわかって、大蔵省衛生試験所が探していることを聞いて、これも転売して、利益を上げた。

総一郎は、恐らく彼のことですから、「お国のためになるなら」と言いながら、買い値の二倍か三倍で売って、利益も出したのだろうと思いますよ。
 

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