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有鄰

平成18年11月10日  第468号  P2

○座談会 P1   吉田新田と横浜の埋立て (1) (2) (3)
角井光/編集部直助/斉藤司
○特集 P4   ダニ学者のつぶやき 青木淳一
○人と作品 P5   篠田節子と『夜のジンファンデル』
○有鄰らいぶらりい P5   吉村昭著 『わたしの普段着』遠藤周作著 『十頁だけ読んでごらんなさい。 十頁たって飽いたらこの本を捨てて下さって宜しい。 』藤本ひとみ著 『殺人の四重奏』北芝健著 『警察裏物語』
○類書紹介 P6   「奈良・大和路」・・・古寺散策のための古典から、観光文化検定のテキストまで。


 
座談会

 
吉田新田と横浜の埋立て (2)
 

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  ◇日枝神社を土地の守り神として勧請
 
編集部  

日枝神社は、吉田勘兵衛が勧請したといわれていますね。
 

角井   新しい土地に神様をお祭りして、五穀豊穣とか、そこに住む人々の安全を祈願するために神様をお祭りするということで、勘兵衛さん自身も摂津国歌垣村にいたときに日枝神社を信仰していた。 江戸に出てきてからは材木商・石材商で巨万の富を得て財産をつくりますが、江戸・赤坂の日枝神社の氏子だったんです。 それで、信仰していた日枝神社の神様を、ご自分がつくった土地の守り神として勧請した。 日枝神社は寛文13年(1973年)9月10日に創建されたということで、今でも9月にご祭礼をしております。
  
編集部   比叡山の日吉[ひえ]神社が江戸に勧請されて、それで赤坂から来ているということですか。
 
角井   正確には、赤坂の日枝神社は近江からではなく、川越の日枝神社を勧請したと言われてます。 江戸城をつくったとき、江戸城の守護神として祭られたわけです。
 
高村   今でも創建当初のものが残されているんですね。
 
角井  

寛文13年の獅子狗が今でもお社にございます。 これは、たまたま大正10年に社殿の改築をするときに、吉田さんのお宅に運んであったんです。 大正12年の関東大震災で吉田家も焼けたのですが、そのとき福富町の福島喜八という鳶職の頭が獅子狗を担いで逃げて、残ったんです。 当初のものは獅子狗だけだと思いますね。
 


   工事が難航しおさんが人柱に立ったという伝説
 
編集部   難工事だったということから、「おさん(お三)さま」が人柱になったという伝説ができてきた。
 
角井  

明暦3年の大雨で堤防が崩れてしまったということに、おさんという伝説が付会されてくるわけです。

日枝神社が「お三の宮」と呼ばれるようになったのにはいくつか説があります。 一番妥当なのは、今でも、赤坂の日枝神社は山王様と言いますが、それに「お」をつけて、「お山王宮」、「おさんの宮」と転訛して「お三の宮」となったという説です。
 

編集部   山王権現ですね。
 
角井  

そうです。 それから日枝神社でお祭りしている大宮、二の宮、三の宮、その三社をお祭りしたので三の宮という説もありますね。

難航した工事で人柱が立つという話は、日本全国にありますね。 お城の石垣をつくるときに人柱を立てて完成したとか、神話にも日本武尊[やまとたけるのみこと]が上総国へ渡ろうとしたとき、荒れた海を鎮めるために弟橘比売命[おとたちばなひめのみこと]が海中に身を投じた話がある。 そういった日本人の民俗的な思想がありますね。

「おさんさま」の話は、勘兵衛さんが埋立てを始めたけれども、大雨のために堤防が壊れた。 そのとき吉田家の女中さんだったおさんという女性が、自分が人柱に立って海の神様を鎮めますと言った。 勘兵衛さんはそんなことはしなくていいと言ったけれど、おさんは強く主張して、人柱に立ったという伝説です。

おさんの父は昔は駿河の某藩の武士だった。 それが何かの理由で浪人となり、江戸に出てきて寺小屋を開いていたけれども、大火で両親が死んでしまった。 おさんには関谷陽之進という許婚がいたと、生前に父から聞いていて、その藩に行くと、関谷は種田五郎三郎という人に殺されたという。 それで仇をうちたいと種田を探して身延山に行く。

勘兵衛さんは工事の完成を祈願して、身延山に7年間続けてお参りに行ったそうで、そこでおさんと出会い、それなら江戸に来なさい。 自分はいろんな大名のところに出入りしているから情報も入るだろうということで、勘兵衛さんのところにいた。 ついに種田五郎三郎を探し出して仇をうったおさんは、非常に恩を感じていたという話です。

横浜が開港して賑わい、明治になると芝居小屋も建ち、江戸から役者が来て芝居をするようになったときに、横浜に関係のある芝居をしたらどうかということで、おさんの人柱の伝説を題材にしたらしいんですね。 それで広まったという説もあります。

今でも、日枝神社と言うより、「お三の宮」と言ったほうがわかるという人も多いようです。
 


   元禄13年から300年以上続く日枝神社の神職
 
編集部  

勘兵衛はお寺もつくっているんですね。
 

斉藤  

延宝4年(1676年)の創建の常清寺です。
 

高村   神社とセットだったんじゃないですか。 非常に熱心な信者だった。
 
角井   常清寺は昔は、伊勢佐木町の隣の福富町にあったんですが、戦後、久保山に移りました。
 
編集部   常清寺は日蓮宗ですね。
 
斉藤   近世初頭の新田開発をしたり、地方巧者[じかたこうしゃ]といわれる人には日蓮宗が多い。 川崎の二ヶ領用水を開削した小泉次太夫なんかもそうです。
 
角井   昔のお宮とお寺の関係から、最初は常清寺の住職が別当として奉仕していたそうです。 30年ぐらいたったとき、私の祖先の角井識部尉藤原重勝が、初代の神職として奉仕するようになったんです。
 
高村   元禄時代ですか。
 
角井   元禄13年です。
 
斉藤   それから300年以上続いている。
 
角井   私は12代目です。
 
編集部   今の社殿はいつごろのものですか。
 
角井  

今は日枝神社1つですが、昔は稲荷神社というお宮と2つでした。 向かって左側に今も建物はあります。

大正12年の関東大震災のときには、稲荷神社が焼けて日枝神社は残ったんです。 第2次大戦のときには日枝神社が焼けて、稲荷神社は焼けなかったんですが、今は一緒にお祭りしてあります。 日枝神社は戦後、昭和26年に建て直したんです。

大正10年に改築のためにお社の床を掘ったところ大乗経が2巻出てきた。 勘兵衛さんが身延山にお参りして、祈念して大乗経2巻を埋納したということで、それがおさんの人柱の話になったという説もあります。 その大乗経は、関東大震災のときに吉田さんのお宅で焼けてしまいました。
 

編集部   残念ですね。
 
斉藤   お三の宮に残っているものとしては延宝2年(1674年)に奉納された水鉢があります。
 

  ◇堤で囲んで干拓し、埋め立てて耕地化
 
編集部   今回の展覧会では、吉田家のいろいろな文書などが戦後初めて公開されているそうですね。
 
斉藤  

新田開発前と開発後の図面の原図を見せていただきました。 結構大きいんです。

図を見ると、海に面する箇所に潮除堤[しおよけづつみ]を築いて、大岡川の旧河口で川を左右に分流させ、中央に用水路(中川)を設けています。 そして全体を北と南に分けて地割りし、潮除堤に近いほうから一つ目、日枝神社に近いほうを七つ目と呼んでいました。

編集部   具体的にはいつごろ描かれたものですか。
 
斉藤  

開発後の図の右下、北一つ目のところに普請小屋が描かれています。 これは、吉田新田全体のための普請小屋だとすると、ちょっと外れ過ぎている。 一つ目の南側は遊水池として残されていますが、北は埋め立てている。 寛文10年(1670年)から11年ごろの文書を見ると、1つ目の北側を埋め立てたようです。 ここを埋め立てるための普請小屋なら、この絵図の右下にあってもおかしくない。

全体がひと通り完成した後に、普請小屋に近い部分を埋め立てる。 1670年から71年ぐらいの図面だと思います。
 

編集部   潮除堤に近い横の通りが長者町の通りですか。  
 
斉藤   はい。 吉田家の旧邸宅は、今の吉田興産ビルがある場所です。
 
高村   日ノ出町駅に近い、長者町9丁目ですね。
 
斉藤   絵図の真ん中の水路である中川が今の大通公園です。 吉田家のあった辺りは野毛山から地続きですので、地盤が強固だそうです。 ですから、大井戸を掘って真水が出るということになります。
 
角井  

今でもありますね。


   埋立ての土は野毛や石川町辺りから運び出す
 
編集部  

埋立ての土は、どこから運んでくるんですか。 。
 

角井  

野毛の天神山と大丸山の2か所から取っている。
 

編集部  

大丸山というのは石川町の駅に近い大丸谷のところですか。
 

斉藤  

そうだと思うんですが、昭和の初年に書かれた石野瑛さんの本の図面では、もっと北なんです。 地名的には大丸山は、今の石川町の近くのところしかない。 その辺がちょっとわからないんです。 ただ、全部を埋め立てたというわけではなく、とりあえず堤で囲んで、基本的には干拓だと思うんです。

海に新田をつくるということは海が浅いことが前提です。 恐らく干潟になっている部分もかなりあると思うんですね。 大岡川から流れ込んでくる土砂が堆積していってだんだん埋まってきているのでしょう。
 

角井   最初から浅かったんでしょう。
 
高村  

だから明治になってからも地上げと言っていますね。 陸地のはずだけれども低いということですね。
 


   中央の中川は土を小舟で運ぶ際にも役立つ
 
斉藤  

堤の部分は海面よりも高くなければならないんですけれども、内側は低くないと、そこから水がとれませんので、干拓で済ませる。 干上がって済むところは干上がらせて、中央に中川を掘る。 その掘った土は畦とか、道をつくるのに使えばいいわけですから、それで大枠をつくり、足りないところは運んでくるという形ではないかと思うんです。

堤をつくるのは、大岡川沿いには天神山から、中村川沿いには大丸山から持ってくればいい。 海に面した潮除堤の土手は、洲乾の州の砂洲から持ってくればいい。

いずれにしても、その3か所から削って運んで、それが1番うまく運搬できる小舟を運用したんでしょう。 場合によると、中川も小舟で土を運搬するために使用したのかもしれない。
 

編集部   洲乾湊は、象の鼻と呼ばれていた横浜村の砂嘴の先端、現在の桜木町駅に近い位置ですね。
 

   新田を十口に分け、勘兵衛は五口、残りは惣仲間が出資
 
編集部   これだけの広い面積ですから、何人かのグループでやったんでしょうね。
 
斉藤  

石野さんの本にも出ていますが、万治2年(1659年)に金銭の受領の史料があります。 金沢領野毛村新田堤の入用金50両を受け取ったもので、坂本七兵衛が柚川作之丞宛に出している。 この史料から、工事が始まった万治2年の2月11日から半年後の段階で堤をつくっているということがわかる。

そのときに新田は十口に割り、五口は惣仲間で、残りの五口は金元で取ると言っているんです。 新田ができ上がったら地割りをして、支出金額に応じて耕地を分配割にするという内容になっている。

吉田勘兵衛は50%、五口を出資していて1番大きい。 残りの五口は、1人で一口出せる人は出していたと思います。

砂村新左衛門の弟と思われる砂村三郎兵衛は13町ぐらい勘兵衛に売っています。 吉田新田の面積全体は116町で、その10分の1に相当するので、砂村は一口分の出資だろうという推定です。

ただ、1人で一口出せない人もいる。 形としては1人で一口でも、実際には数人で出しているものもあって、最後に吉田勘兵衛が全部買い集めていったようです。
 

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