Web版 有鄰

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有鄰

平成19年4月10日  第473号  P3

○特集 P1   第三の故郷 佐藤多佳子
○座談会 P2   横浜開港と五雲亭貞秀 (1) (2) (3)
横田洋一/木下直之/桑山童奈/松信裕
○人と作品 P5   小沢章友と『三島転生』
○有鄰らいぶらりい P5   パオロ・マッツァリーノ 著 『つっこみ力』渡辺淳一 著 『鈍感力』なかにし礼 著 『戦場のニーナ』夏樹静子 著 『四文字の殺意』
○類書紹介 P6   「いじめ」に関する本・・・深刻化する社会問題を映し出した小説・児童文学・絵本。


 
座談会

横浜開港と五雲亭貞秀 (2)

 

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  ◇大作の絵図や一覧表を集中的に描く
 
松信  

絵図や一覧図というのはいかがでしょうか。
 

桑山  

万延元年ごろといわれる「御開港横浜之全図」が一番大きくて、一枚で1.8メートルぐらいあります。 これはもう浮世絵という枠を超えている感じです。 万延元年には、「横浜本町并ニ港崎町細見全図」など、鳥瞰図的なものが数枚ありますが、一方からだけではなくて、あらゆる方向から横浜を見下ろしているという感じです。
 

木下  

いずれも同じ時期ですか。
 

桑山  

万延元年に集中的にかいていますね。
 

木下  

それぞれ、見ている角度が違うわけですね。

貞秀は、大坂も数点かいているんです。 大坂の町を一望できる絵はあまりないんですが、大坂城、商人たちの町、港という、やはり三つの視点からかいている。 それは大坂という町を見事にとらえていると思うんです。 そんなふうに都市をとらえる視点はとてもすぐれていると思います。
 

横田  

「大坂名所一覧」ですね。 「海陸道中画譜」という版本は、大坂・下関をへて長崎までかいてあります。
 

松信  

街道絵みたいなものもありますね。
 

横田  

「東海道五十三駅勝景」という、東海道を鳥のように上からずっと眺望した相当に長い図もあります。 長崎、京都、日光、利根川、箱館などもあります。
 

木下   私は、鳥瞰図には、権力性と言うとちょっと語弊があるかもしれませんが、見る者が、その都市を自分のものにしてしまうような力があると思うんです。 一望に見渡すことができる位置を手に入れるわけです。
 
   

江戸でも鳥瞰図は描かれてきましたが、ここまで繰り返し、しかも、低空からとらえられた町は、この時期の横浜だからこそという気がするんです。 現実に町を見下ろす視点はなかなか与えられるものではあません。 江戸で言うと、せいぜい愛宕山ぐらいです。 見晴らしのいい名所ですが、一般の建物は低く抑えられていて、特に将軍のいる町ですから、庶民が江戸の中心部を見下ろすことはできない。
  

  「江戸名所独案内」
  貞秀「江戸名所独案内」
慶応元年
東京大学史料編纂所 蔵
   
横田  

「江戸名所独案内」では、江戸城が意識的に隠してありますね。
 

木下  

江戸城が表現されないことは普通ですが、この江戸図は類例のない異様な感じを受けます。 一方、横浜がこれだけ好き放題に眺められるのは、それだけ横浜に大きな関心が集まっていて、それを見たいという人々の要求に応える形でかいていると思います。 横浜という新しい世界を本当にとらえている。
 


    定住の証拠はないが横浜に来ていたことは確実
 
木下  

貞秀は横浜が開港する以前は、江戸のどこに住んでいたかわかるんですか。
 

横田  

嘉永年間は亀戸にいた。 漢字者で、明治には演劇人になる依田学海が、そこに貞秀を訪ねた『貞秀訪問記』というものがあります。 その後、深川の御蔵前町というところに移ったらしいです。
 

松信  

横浜に住んだという説もあるようですね。
 

横田  

証拠は見つかっていないんです。 来てはいたでしょうが、定住していたかどうかはわからない。
 

木下  

『横浜開港見聞誌』の中で、自分が見たことと違うとか、確実に体験している記述がありますから、住んでいたかどうかは別として、当然横浜には来ていた。
 

横田  

例えば水兵が昼間から酔っぱらって、グデングデンになって同僚に肩をかりている図とか。
 

「横浜開港見聞誌」から  

貞秀「横浜開港見聞誌」から

 
   
桑山  

『横浜開港見聞誌』の「本町一丁目大通り異国船頭酒に醉たる図」ですね。

それから「横浜渡来の異人集りて港崎町にて七月盆踊を初む。 大に見物人込ける時、異人走り行て是を見る。 其次月八日貞秀本町に用事あつて此日行し時、波止場に広き処、異人数多よりつどひ…」という絵もあります。 今日は「どんたく」、つまり日曜日だから、外国人たちが広場に集まって太鼓を打ち、輪になって踊っていると、実際に見聞したことを書いているんです。
 

松信  

具体的ですね。
 


  ◇「生写[いきうつし]異国人物」のオリジナルは長崎版画
 
松信  

貞秀は外国人の風俗もかいていますね。
 

横田  

外国人は、日本人と容姿その他服装も、いろいろな部分が違う。 日本人も今はいっぱい金髪はいますが(笑)、当時はいなかったわけだし、青い目を見たことがない。 それを多分、版元が貞秀に命じたんだと思うんですが、彼は困ってしまう。 「生写[いきうつし]異国人物」シリーズというもので、作品としてはすばらしいんですが、生き写しですから、「私はアメリカ人やロシア人をちゃんとスケッチしてかいたんですよ」とうそをついています。 (笑)
 

木下  

そうそう。
 

横田  

ネタがばれるのに、すごく時間がかかるんです。 「清朝南京人感賞皇州扇之図」は実は長崎版画がオリジナルで、貞秀はわからないように工夫するわけです。 人物画も最初は版元に言われて仕方なくつくりますが、なかなかできはいいんです。
 

木下  

この二人は、元別々の長崎絵を貞秀がイメージして組み合わせたものですか。
 

横田  

これは元の絵を扇子の形を変えたりいろいろとアレンジしてあるんです。
 

  「生写異国人物 清朝南京人感賞皇州扇之図」
  貞秀「生写異国人物 清朝南京人感賞皇州扇之図」
万延元年11月
神奈川県立歴史博物館 蔵
   

    家族や男女が団らんする絵は日本にはなかった
 
木下  
  「外国人夜学之図」
  芳員「外国人夜学之図」
万延元年10月
神奈川県立歴史博物館 蔵
   

黒船が来たとき、摺り物や浮世絵が爆発的に出回わりますね。 それが下敷きになっている。 黒船のときは船の絵と外国人、つまり乗組員ですが、アメリカ人はこういう顔でどのぐらいの身長で、何を着ているとか、それが1853年のことですね。 それから7、8年後、今度は現実に外国人たちが横浜で生活を始めるので、読者の次の関心は、彼らがどんな暮らしをしているのかを知りたい。 そうした需要に応えるわけです。

面白いと思ったのは、多くは男女が描かれているのですが何をしている場面かを説明するタイトルにかなり無理がある。 単に普通の男と女が、あるいは家族が団らんしている絵は、在来の日本の絵画の中ではないというか、少ないんです。 芸者と遊んでいる絵は幾らでもあります。 (笑)

だから、新しい文化としてそれがストレートに紹介できなかったんでしょう。 典型的なのは一川[いっせん]芳員の「外国人夜学之図」で、実際は、夜、夫婦で、男はくつろいで本を読んでいるという場面ですね。 タイトルがすごくおかしいわけで、この時期の外国人の風俗を描くときには、そうした問題がきっとあったと思うんです。
 


    異国人は違うけれど親子の情愛などは変わらない
 
横田  

夫婦が、望遠鏡を持って子供を連れて横浜の海岸を散歩して、戯れている「横浜休日 魯西亜人遊行[おろしやじんゆうこう]」という絵があるんですが、絵師の目指したところは、親子の愛情などは基本的には変わらない。 しかし、生活や習慣は全く違う。 文化はこんなに違うんだということを人々に本当によく知らせてくれたんだと思います。
 

木下  

私もそう思います。 だから、タイトルに無理が生じてしまう。
 

横田  

それは言えますね。
 

木下  

『横浜開港見聞誌』を改めて読んで思ったのは、貞秀は、もちろん異国人は我々と違う。 違うけれども、人間として同じ部分がある。 生活するのは一緒なんだというのが何か所か出てくるんですね。 そういう目線といいますか、実際に自分が見た生活をかくという姿勢をはっきり持っていた人じゃないかなと思います。

それに対して、芳虎だとかが外国人のイメージを使って描いた絵は、生活臭がないというか、パタパタと役者が舞台の上に並んでいるような感じがするんですね。
 

横田  

依田学海との対談の中で、演劇論みたいな話で、貞秀が、舞台で役者がやるようなものは絵じゃない。 生活感を出さなければいけないと述べている。 それに通じるところがあると思います。
 

木下  

『見聞誌』でも外国の風景は紹介されていますけれども、それは横浜で貞秀が実際に見た絵を通して紹介するという形ですね。 横浜で見た石版画や、あるいはガラス絵ですか、玉板油絵を、もう一回貞秀が絵にするという方法で、自分で見たものにすごくこだわった人だなという気がしますね。
 

桑山  

実際は確認のしようもないですが、『見聞誌』の後のほうには、これは銅板絵を写しましたと、割と律儀に書いています。 自分が見たというものは、外国人もどういうところが違うとか、目は浅黄[あさぎ]色でと書いてあったりして、非常に具体的なんですね。 背の高さとか。

その中で、アメリカ人は眼の色や鼻の形まで日本人に似ている、あとの外国人は違うということが書いてあって、それがちょっと疑問なんです。 二か所繰り返されていたと思います。
 

木下  

面白いなと思ったのは、荒海を越えて、わざわざ日本までやってきた商人たちへの共感みたいなものを示しているんですね。 それは、日本はすばらしい国だから、たいへんな苦労してでも海を越えて人と物が集まってくるんだという論理ではあるんだけれど、人間への共感をはっきりと持っている人だなと思いますね。
 

横田  

そのとおりですね。
 


  ◇国芳系は外国の新聞を参考に制作
 
横田  

横浜浮世絵の絵師は、最初は長崎のオランダ人をかいたものをまねしていたんですが、出島は基本的に男性社会で、男女の組み合わせはなかった。

「異国人酒宴遊楽之図  
芳員「異国人酒宴遊楽之図」
万延元年12月
神奈川県立歴史博物館 蔵
 
(「フランクレズリー・イラストレイテッド」の挿絵をもとに制作)
 
   

これでは限界があるので、「フランクレズリー・イラストレイテッド」、これは万延元年、日米修好通商条約の批准に行った遣米使節の一行を取材したアメリカの新聞で、挿絵が入っているんです。 これを国芳系の版元か誰かがうまいこと手に入れて、それを参考にして浮世絵にした。

それは「イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ」も一緒で、当時、横浜に一番多くいたイギリス人によく読まれていた。 これも国芳系の連中が手に入れて使う。 日本人と外国人の生活の差や、使っている持ち物も、建物もひっくるめて、その違いをあらわそうとしたんです。
 

松信  

その後、描く対象が変わっていきますね。
 

横田  

文久2年(1862年)になると、横浜に来た外国人のルーツを探るという浮世絵になっていきます。 日本人は非常に熱しやすく冷めやすいという部分があって、横浜浮世絵はだんだん売れ行きが悪くなる。 そこでアメリカやフランスはどういう国なのか、これは国芳系の絵師たちがやるんですが、結構みんないいかげんなんです。

  「亜墨利加賑之図」
  二代広重「亜墨利加賑之図」
文久元年9月
神奈川県立歴史博物館 蔵
  (背景は「イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ」に掲載されたスウェーデンのフレデリックスボルグ宮)
   

戯作者として有名な仮名垣魯文[かながきろぶん]は、国芳系の絵師と協力して、例えば、ロンドンやワシントン、パリという都市はこうだ、気候はどうで、人口はどのぐらいで云々という文章と、絵は「フランクレズリー・イラストレイデッド」と、「イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ」を利用してつくる。

貞秀はそういう作品は残していないんです。 あるとすれば、グレイト・イースタン号という元治元年の1枚だけだと思います。 船を描いた大作「墨利堅国[あめりかこく]大船之図」で、ちゃんと文献に基づいてきちんと調べてかいている。 海外のいろいろな知識は、貞秀は豊富だと思います。
 


    外国船を描く大作は小舟に乗ってスケッチしたものか
 
松信  

地図の大作や一枚ものの人物画のほかに、有名な「横浜交易西洋人荷物運送之図」がありますね。
 

「横浜交易西洋人荷物運送之図」
貞秀「横浜交易西洋人荷物運送之図」
文久元年4月
神奈川県立歴史博物館 蔵
 

横田  

五雲亭貞秀の最高傑作の一つであり、横浜浮世絵全体を象徴した作品でもあります。 浮世絵の大判を横に5枚続けた、長さ120センチを越す大作で、アメリカなど5カ国の外国船がいて交易の盛んなさまを表現している。

構図は黒船来航の当事者であったアメリカの船を左側に大きく描き、船上での活発な交易の様子を詳細に表現している。 良く見れば船には多くの大砲が備え付けられているのも目を引く。 他にロシア、イギリス、フランス、オランダの船も描かれ、それらは何れも大形の帆船で、外装はまさに黒船であり、当時の和船から見ればかなり異形で、この作品を見た人々は驚きの目をもって迎えたに違いないと思います。 また、ある意味では、それが貞秀のねらいだったのかもしれない。
 

桑山  

実際に、横浜の港でこういう情景を見てかいたのでしょうか。
 

横田  

本当かどうかわかりませんが、貞秀は小舟に乗ってスケッチに出て、絵筆を誤って海に落としてしまい、異人から鉛筆をもらってかいたともいわれています。
 

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