Web版 有鄰

  『有鄰』最新号(P1) 『有鄰』バックナンバーインデックス 『有鄰』のご紹介(有隣堂出版目録)


有鄰
(題字は、武者小路実篤)
有鄰の由来・論語里仁篇の中の「徳不孤、必有隣」から。 「鄰」は「隣」と同字、仲間の意味。

平成19年5月10日  第474号  P1

○座談会 P1   鎌倉の廃寺を語る −中世都市の栄枯盛衰− (1) (2) (3)
岩橋春樹/西岡芳文/福田誠
○特集 P4   昭和二十年五月二十九日の鬼門山 佐藤さとる
○人と作品 P5   荒井千暁と『職場はなぜ壊れるのか』
○有鄰らいぶらりい P5   藤井青銅 著 『略語天国』五木寛之 著 『わが人生の歌がたり』飯倉晴武 編著 『日本人のしきたり』太田忠司 著 『落下する花 月読』
○類書紹介 P6   イタリア・ルネサンス・・・「日本におけるイタリア2007・春」の開催で日伊の交流が深まっている。


仏法寺跡(手前)と鎌倉市街 鎌倉市教育委員会提供
座談会

鎌倉の廃寺を語る
−中世都市の栄枯盛衰−
(1)


鶴見大学文学部教授 岩橋春樹
神奈川県立金沢文庫学芸課長   西岡芳文
鎌倉市教育委員会・史跡永福寺跡調査研究員   福田誠
仏法寺跡(手前)と鎌倉市街
鎌倉市教育委員会提供
 

左から、福田誠氏・岩橋春樹氏・西岡芳文氏
左から、福田誠氏・岩橋春樹氏・西岡芳文氏
<画像の無断転用を禁じます。 画像の著作権は所蔵者・提供者あるいは撮影者にあります。 >


    はじめに
 
編集部  

12世紀後半、源頼朝によって幕府が開かれた鎌倉には、数多くの寺院が建立されました。 しかし、頼朝が創建した勝長寿院[しょうちょうじゅいん]や永福寺[ようふくじ]などの壮麗な寺院も、長い年月を経て、次第に衰微し、滅亡していきました。 廃寺となった鎌倉の寺の数は、250を超えると言われています。

本日は、鎌倉に本拠を置いた源氏や北条氏、あるいは足利氏などによって創建され、滅んでいった寺院について、その歴史や寺のあった場所、発掘調査による考古学的な成果、さらに、わずかに残されている遺品をご紹介いただきたいと存じます。 また、古文書調査から廃寺の新しい例も見つかっているようですので、それらについてもお教えいただきたいと存じます。

ご出席いただきました岩橋春樹さんは、鶴見大学文学部教授で、日本美術史をご専攻でいらっしゃいます。 鎌倉国宝館副館長などを歴任され、鎌倉の廃寺に関する展覧会を開催されたご経験もお持ちです。

西岡芳文さんは、神奈川県立金沢文庫学芸課長でいらっしゃいます。 中世史がご専攻で、金沢文庫には鎌倉北条氏ゆかりの古文書が多数残されており、それらの調査も担当しておられます。

福田誠さんは、鎌倉市教育委員会が永福寺跡でおこなっている発掘調査の調査研究員でいらっしゃいます。 近年の鎌倉の考古学的成果は大変興味深いものがあり、それらをご紹介いただきたいと思います。
 


  ◇源氏の菩提所・勝長寿院と鎮魂の寺・永福寺
 
編集部  

源頼朝が、鎌倉で一番最初に開創した寺は勝長寿院ですね。
 

岩橋  

勝長寿院は、元暦元年(1184年)に頼朝が父の義朝の菩提を弔うという趣旨で建てた寺で、源氏の菩提所的な性格を持っている。

永福寺はちょっと違って、義経とか奥州藤原氏の鎮魂という形で、文治5年(1189年)に数万の怨霊をなだめるために建てられる。 そうした性格の違いがあります。
 

福田  

永福寺は『保暦間記[ほうりゃくかんき]』には、池禅尼の追善のためと出てきます。 池禅尼は平治の乱のとき、幼かった頼朝の命を助けていますので、なかなか意味のあることかなという気がします。
 

編集部  

勝長寿院は今はどうなっているんですか。
 

  勝長寿院の碑
勝長寿院の碑
福田  

滑川[なめりかわ]を大御堂橋[おおみどうばし]で渡ったところに大御堂ヶ谷という谷戸があり、その中だろうということはわかっているんですけれども、住宅地で家が込み合っていますので、細かい建物の配置とかは、今の段階では無理だと思います。
 

 
岩橋  

石碑が立っていますね。 平場があって、お寺の跡は確認できるんですが、具体的にどこにどういう伽藍配置であったかというのは正確にはわからないですね。
 


    永福寺跡からは3つの建物跡と浄土庭園が出土
 
岩橋  

それに対して永福寺はある程度把握されつつあるというか。
 

福田   ほとんど掘り尽くしたというか(笑)。 永福寺の跡は、幸い史跡指定が早かったおかげで、勝長寿院のように宅地化の波にのみ込まれなかったのが一番の大きなことかなという気がします。

たしか昭和56年から確認調査が始まって、本格的には昭和58年から平成8年まで、14年間ほど調査が継続され、指定地内の12,000平方メートルぐらいの調査が大体終わっております。

頼朝ゆかりの大寺院とされていて、記録はたくさんあるけれども実態がわからない、幻の寺などと言われていたんです。 調査によって、頼朝のつくったころから始めて、寺の中の移り変わりをかなりとらえられたことが一番大きな成果だと思います。
 

編集部  

確認されたのは、お堂の跡が3つですか。
 

  永福寺の伽藍配置図 鎌倉市教育委員会提供
永福寺の伽藍配置図
鎌倉市教育委員会提供
福田
 

二階堂、阿弥陀堂、薬師堂の3つのお堂が中心になっていて、それが廊下でつながり、さらに前面の大きな池に向かってまた廊下が延びていく。 池の真ん中に橋がかかっていた、浄土庭園と言ったりしますが、今までの鎌倉にはちょっとないお寺の形態ですね。
 


    漆工芸品や鎌倉初期の仏像は平泉との関係が強い
 
岩橋  

永福寺は、美術工芸の面で、平泉との関係を考慮したほうがいいという考え方があります。 先日、中尊寺の金色堂の修復にかかわってこられた漆工芸の中里壽克[としかつ]先生の講演があって、金色堂の四天柱の蒔絵様式から、恐らく4つの工房が存在しただろうといったお話がありました。 藤原氏の滅亡後、その工房はどうなったのだろうというところまで触れられた。

中尊寺の漆工芸品と永福寺で出土した漆工芸品はどこか脈絡を感じさせる。 そうした関係も問うべき課題だと思います。

成城大学の清水眞澄先生も鎌倉初期の仏像について、京都から真っすぐ鎌倉に来たというよりも、平泉経由という考え方を提唱されている。 永福寺は、鎌倉の初期の美術工芸、文化万般の成立を考えるうえで重要な存在です。

勝長寿院は、文献でしかわかりませんが、南都仏師の成朝[せいちょう]が鎌倉に来たとか、京都直輸入みたいな形でいろいろな調度を整えている。 それに対して永福寺は、中尊寺を相当意識しているような気がしますね。 その辺に永福寺の特色があるのかなと思いますが、まだ推定の段階です。
 

福田  

今確認されているのは、焼け残ったようなものを池の中に投げ込んだみたいな形で出ているんです。 弘安の火災のときの焼け残ったものかなという気がします。
 

岩橋  

螺鈿[らでん]製品は、当初のものでいいわけですね。
 

福田  

多分当初のもので、弘安3年(1280年)までは火災がないので、そのときにいろんなものが焼けてしまったのではないでしょうか。
 


    山の上から出土した永福寺経筒は独特の造形感覚
 
編集部  

永福寺の一画から経筒が発見されましたね。
 

  永福寺跡出土の経筒 鎌倉市教育委員会提供
永福寺跡出土の経筒
鎌倉市教育委員会提供
岩橋
 

山の上から経筒が出るとは思わなかった。 私も出たときに行ったんです。 スラリと長い、経筒一般の形姿を想像していたら、すごくずんどうで、造形感覚が独特だなという気がしました。 ドラム缶を縦につぶしたような感じですね。 頭の宝珠も重厚だった。
 

福田  

高さは鎌倉で出ているほかの経筒と大差はないんです。 口径が大きいので、たくさんものが入る。 あれは出たときから倒れている。 埋まったときに倒れたんじゃないかとよく言われるんですが、もともと寝かして甕の中に入っていて、宝珠の位置が二階堂のほうを向いている。 それが何か意味があるのかなという気がします。
 

 

    応永のころまでは存続し、火災でダメージを受ける
 
編集部  

永福寺はいつごろまで続いていたんですか。
 

福田  

よくわからないんですが、だんだん寺としての経営が傾いていく。 最後は火災が大きなダメージを与えていると思うんです。 それも、お寺が大きければ大きいほどダメージも大きい。

永福寺は応永12年(1405年)に炎上という記録があって、その後は再建の記録が出てこなくなる。 ここで大打撃というか、致命傷を受けたと言えると思います。
 

西岡  

廃寺を考えるとき、伽藍とか建物とか、そういう見かけの「お寺」というハードの部分と、お寺という組織、要するにソフトウエアを分けて考えないと、いつまで続いているという議論はすれ違いになることがある。

例えば京都に、摂関時代から院政期にかけて、法勝寺とか六勝寺とか、いろんな御願寺[ごがんじ]ができます。 京都の町の真ん中にものすごいお寺が建ち並んでいた。 それらは伽藍は立派なんですが、お寺としての体をなしていない。 上皇とか摂関が大規模な法会[ほうえ]をやるとき、その中の坊さんでは賄えないので、比叡山とか東寺とかから頭数をそろえて儀式をやる。 お寺は建物だけで一種のパビリオンなんです。

鎌倉でも永福寺とか勝長寿院は、それに近かったんじゃないか。 お寺としてがっちりした組織があって、トップの坊さんの号令一下で全山が動く、現在の大本山のようなものではない。 建物としては『海道記』に描写があったと思いますが、鎌倉時代の終わりまで、あるいは室町時代も、鎌倉公方の時期はそこそこ立派な伽藍の寺があった。

その後は、見聞記などはないので、具体的な状態はわかりませんが、醍醐寺では永福寺別当職[べっとうしき]とか、勝長寿院別当職という名跡が坊さんの一種の利権とか格式として伝わっていく。 ただ、そういう人たちが鎌倉で宗教活動をしていたかというと、非常にあいまいです。
 


    頼朝の法華堂と、神仏分離で廃絶した鶴岡の二十五坊
 
編集部  

頼朝関連では、法華堂もありますね。
 

福田  

今掘っても岩盤が出るので、よくわからないんですよ。
 

岩橋  

法華堂は頼朝の持仏堂で、亡くなった後、寺になったんです。
 

福田  

そういう意味では墳墓堂ですね。 中尊寺の金色堂も墳墓堂です。 ある意味で同じようなものなのかもしれません。

一昨年、右隣の北条義時の法華堂の調査をしました。 大分荒らされていましたが、何とかお堂の大きさや位置は確認ができて、測量してみるとおもしろいんですが、建っている場所が頼朝の墓よりも1メートルぐらい低い。 主人よりも高いところにはつくっていないのでしょうかね。

多少瓦が出ましたので、一応屋根をふいていたことがわかりました。 全体の土が火災で焼けていた跡が出て、1回は再建したようです。
 

岩橋  

それから今の鶴岡八幡宮は元は「鶴岡八幡宮寺」という寺だった。 明治初年の神仏分離で仏教関係の建物やお坊さんが一掃されますが、お宮の北西側にあった二十五坊も廃寺になります。 八幡宮寺のお坊さんのいた場所で、供僧坊のなかでは、等覚院にあった弘法大師像が手広の青蓮寺に移されています。 供僧坊の敷地は、一部ですが、保存されています。
 

つづく次のページへ


ページの先頭に戻る

Copyright © Yurindo All rights reserved.