Web版 有鄰

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有鄰

平成19年6月10日  第475号  P3

○座談会 P1   横浜港ものがたり−開港から現在まで− (1) (2) (3)
田中祥夫/宮浦修司/青木祐介
○特集 P4   石井桃子さんと子どもの本 斎藤惇夫
○人と作品 P5   最相葉月と『星新一 一〇〇一話をつくった人』
○有鄰らいぶらりい P5   樋口進 写真・文 『輝ける文士たち』奥田英朗 著 『家日和』水谷修 著 『夜回り先生のねがい』経沢香保子 著 『白いスーツで内定を』
○類書紹介 P6   メジャーリーグ・・・日本人選手の活躍と本場の野球の楽しみ方など。


座談会

横浜港ものがたり
−開港から現在まで−
(3)

 

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  ◇関東大震災で第3次工事が中断
 
編集部  

大正12年(1923年)の関東大震災では、港もかなり大きな被害を受け、その後、復興していきますね。
 

青木  

大桟橋は、新港埠頭の埋め立てのときに合わせて拡幅をしています。 最初の大桟橋は鉄製のパイルを打ち込んだものでしたが、今度は、コンクリート柱を使った。 そうしたら、震災のときには初代の桟橋の部分だけが見事に陥没してしまった。 復旧工事では、強度を大きくして、もう1回スクリューパイルを打ち込んでいます。
 

宮浦  

震災後、象の鼻防波堤は、旧来よりもやや直線的な形で復旧されています。 戦後、先端部分が30メートルほど短くなり、現在は、象の鼻とはちょっといえないような形になっています。
 

被災した大桟橋
被災した大桟橋
大正12年(1923年)
左の建物は税関監視部
横浜開港資料館蔵
 
青木  

新港埠頭も岸壁部分は総崩れを起こした。 上屋もほとんどが倒壊しましたが、赤レンガ倉庫だけはもともとの1号部分を半分にして修復しただけで、2棟はそのまま残って現在に至っています。

また、赤レンガ倉庫の北側にあったレンガ造の税関の事務所の基礎が赤レンガパークの整備のときに発見され、現在、遺跡として整備されています。
 

宮浦  

震災前は大桟橋と新港埠頭しかなくて、やはり港の整備が求められていました。

当時、計画または着工されていたのは瑞穂埠頭と高島埠頭、山内埠頭で、それが第3次拡張工事だったのですが、震災のために、中断してしまった。 それで横浜の港の機能が神戸に移ってしまったと言われています。 震災の被害は物理的な面だけではなく、経済の面でのダメージも大きかったと思います。
 


    昭和26年に港湾管理者が国から横浜市に
 
編集部  

昭和に入ると、子安・生麦地先をはじめとする臨海工業地帯の埋め立ても行なわれて、港湾施設が拡大していきますね。
 

宮浦  

震災からの復興が契機になって、横浜は、港湾都市から、工業都市の性格をあわせ持つような、大都市への脱皮が図られました。 特に、本格的に工業地帯が整備されて、鉄鋼とか造船といった重工業が立地され、京浜工業地帯としての整備がなされてきた時期です。
 

青木  

いわゆる「大横浜」の建設ですね。 第4期の築港計画として、今も残っている外防波堤の建設と市営の埋立工事が進められます。

昭和2年(1927年)につくられた、10年後の横浜港という絵はがきがありまして、それを見ると、すでに外防波堤もでき上がっていて、絵ですから、外洋の波が外防波堤を境に、ピタッとおさまっているんです(笑)。 そこには、すでに根岸湾の埋め立ても描かれていますが、これは戦後になって実現しましたね。
 

編集部  

当初の、生糸やお茶などを輸出していた貿易港から、昭和に入って工業港に変わっていったということですね。
 

宮浦  

そうですね。 実際に横浜市が港湾管理者になったのは戦後の昭和26年で、それまでは国が管理していたんです。

  終戦直後
  終戦直後の大桟橋と新港埠頭
  米国防総省蔵
   

横浜市が港湾管理者となった後には、戦後の接収との絡みなど、いろいろないきさつがあります。

瑞穂埠頭は今も米軍に接収されていますが、昭和20年に瑞穂埠頭ができたと同時に接収され、しかも無期限使用ということになったので、その代替の施設整備が必要になってきた。 高島埠頭3号桟橋や出田町[でたまち]埠頭、山下埠頭は、まさに接収との代替でつくったんです。

輸出入貨物への対応や、第2の黒船といわれたコンテナ船への対応など、時代の要請に合わせて埠頭の整備などが進められてきました。 本牧埠頭とか大黒埠頭、根岸湾や金沢地先の埋め立てなど、間断なく整備を進めて、今に至っているわけです。

港の整備と合わせて工業地帯の整備も進められてきたということでしょうか。
 


  ◇なぜ日本人が横浜船渠のドックを設計したのか
 
編集部  

港にかかわる遺産としてドックがありますね。
 

青木  
第1号ドック  
旧横浜船渠株式会社
第1号ドック
 
1980年頃  
   

ドックは、もともとパーマーの計画の中に入っていたものですね。 そのパーマーの計画をもとに、明治24年に横浜船渠会社が設立されます。 このときに、技術者として日本人の恒川[つねかわ]柳作が抜擢されました。 彼は横須賀造船所でヴェルニーに学んだ人物で、彼が手がけたドライ(乾)ドックは、明治29年に2号、31年に1号が竣工し、それぞれ翌年に開渠します。 明治40年代には、同じ恒川の設計でさらに2つ、全部で4つのドックができました。 現在、最初の2つが残っていて、片方には日本丸が係留されていて、もう片方はドックヤードガーデンという形で商業施設として整備されています。
 

田中  

横浜船渠は最初は修理専門でしたが、大正6年から新造船事業をはじめて、昭和5年には、ここで秩父丸、氷川丸、日枝丸が建造されました。

ドック築造の先駆者はフランスのヴェルニーが率いる技術陣です。 それまでの日本のドックはほとんどフランス系の技術者がつくっていて、普通なら外国人技術者に設計を頼むところですが、日本人の技術者が抜擢されたのはどういうわけか。

神奈川県史の資料編を読み返しましたら、横浜船渠会社をつくったころは、不況の真っ最中で、会社の出資金も集まらないんです。 最初に予定していた資本金も4分の1ぐらいに減らす。 ドックを計画したパーマーは、もう亡くなっている。 技術者を決めなきゃいけないんだけれども、会社としてはもう高給な外国人は雇えない。
 


    呉の第一船渠での実績が買われた恒川柳作
 
田中  

横浜船渠会社が操業をはじめたころ、主任以上は全部イギリス人なんです。 印ばんてんを着て働いている職工は日本人ですが、ドック築造を頼める日本人技術者を探すのは容易じゃない。

恒川柳作は、横須賀で築造経験があるから設計を任されたと、三菱重工の社史をはじめ、いろいろな資料にありますが、恒川の名前が上がったのは、横須賀のドック工事に彼がかかわってから10年も後なんです。 どうも横須賀の経験だけじゃない。 その10年の間に何かがあって、その実績で選ばれたんじゃないか。

日本海軍の『各海軍建築部沿革概要』にありますが、日本人が外国の技術者の力を借りずに初めてつくったドックは、呉の第一船渠で、この最大の功労者が恒川なんです。 恒川が横須賀鎮守府から呉に移って、第一船渠の地質調査から始まって、竣工まで全工程を見た。 その実績がかわれたのではないか、今のところはそう考えています。
 


  ◇開港150年にあわせて「象の鼻地区」を再整備
 
編集部  

横浜開港150周年に向けた「象の鼻地区」の再整備事業はどんなものですか。
 

宮浦  
  「象の鼻地区」再整備基本計画図
  「象の鼻地区」
再整備基本計画図
  横浜市港湾局提供
   

そもそも象の鼻地区については、みなとみらい21の計画の中で、港湾緑地として再整備していこうという計画があったのですが、なかなか再整備には至りませんでした。

ワールドカップサッカーの決勝戦が横浜で開かれた平成14年には、大桟橋の国際客船ターミナル、そして赤レンガ倉庫も1号、2号倉庫を合わせてリニューアルオープンし、日本大通りも再整備されました。 残るは象の鼻地区ということで、平成21年(2009年)の開港150周年記念事業として再整備していくことになったわけです。

象の鼻地区は、横浜港発祥の地であるとともに、みなとみらい21地区から山下公園へとつながる水際線と、関内地区の都市軸である横浜公園から日本大通りや、さらには、その先の大桟橋への結節点に当たる重要な場所です。

再整備の考え方としては、日本大通りから港への通景空間の確保、憩いの場であるとともに賑わいや交流を創出する広場、緑地の整備を基本としています。 また、船のある風景も大事にしていきたい、あるいは歴史的な建築物など街並みを継承していきたいということで、まず基本計画の試案をつくりまして、平成17年に、市民はもちろん港湾関係やいろいろな方々から意見をお伺いしました。
 


    居ながらにして先人たちの業績や歴史を振り返る場に
 
宮浦  

基本理念として、時間の重なり、空間の広がり、人間の繋がり、この三つの要素を大切にし、「『時の港』〜横浜の歴史と未来をつなぐ象徴的な空間〜」としました。

「時間の重なり」で言えば、横浜港発祥の地としての歴史性を象徴していく、「空間の広がり」としては、港と街との結節点としての重要性を大切にする、「人間の繋がり」で言えば、港にはいろいろな人たちがかかわってきたということで、居ながらにして歴史を振り返る。

つまり、先人たちの業績の息吹も感じられるような場にしようと考えたわけです。

その基本計画をもとに、基本設計と実施設計を行なっていくため、設計者をプロポーサル方式で選びました。 元気な横浜を創造する人材育成に向けた取り組みとして、開港100周年以降に生まれた若手設計者に託すこととし、その結果、横浜在住の小泉雅生さんにお願いすることになりました。 現在、基本設計がまとまり、今後実施設計を進めていきます。
 


    象の鼻の曲線をのばして大きな空間をつくる
 
宮浦  

基本設計における特徴を一言で申し上げますと、市民の意見も踏まえて、防波堤も復元することにしましたが、象の鼻の防波堤の円弧の曲線をのばして、地区の中にサークル状の大きな空間を創り出そうというプランニングです。

その大きな空間に、それを際立たせるスクリーンパネルを並べていってエッジをつくる。 夜間はそれが照明になって、遠くからでもそこが開港の場所だとわかるようになるというものです。

また、再整備にあたって、時間がかなり限られていますので、護岸の部分などは先行して工事に入っています。 特に護岸整備も歴史性を重視して、明治中期の面影が見られるような石積み形式の護岸に変えていきます。
 

編集部  

工事の際に、昔の遺構などは出てきているのですか。
 

宮浦  

第1次築港工事のときに西波止場の裏が埋められた後に、その先端部分に税関の2階建てのレンガ造の倉庫があったんです。 その基礎が出てきまして、それをうまく工夫できないかと、今、検討しています。
 


    横浜港はいろいろな試みが実現した場所
 
田中  

戦前の横浜は、町の中からも船が見えるような街だった。 横浜へ行けば、港が見え、汽笛の音が聞こえた。 日本大通りの突き当たりが開けると、ずいぶん違うでしょうね。 今から胸をふくらませています。
 

青木  

東西上屋が移転するとのことですが、関東大震災前にあそこに建っていたレンガ造の税関庁舎の基礎が、ひょっとして護岸工事のときに見つかるかもしれません。
 

宮浦  

象の鼻地区は今の横浜の原点ですが、もし、岩瀬忠震がいなかったら横浜開港はなかったかもしれない。 そうしたら恐らく今の横浜市もなく、単なる一地方都市にすぎなかったかもしれない。 開港場を神奈川にするか横浜にするかという問題もあったなかで、既成事実化して横浜を開港場にしていった。 当時の幕府もすごいことをやったと思いますね。
 

青木  

横浜は、半農半漁の村から、突如として港湾都市に変貌させられた。 そういう場所だったからこそ、技術的にもいろいろな試みが実現したんですね。 それが積み重なって、今の横浜港の姿ができ上がったと思います。
 

編集部  

ありがとうございました。
 



 
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田中祥夫 (たなか よしお)
1931年 東京生れ。
著書『ヨコハマ公園物語』中公新書(品切)ほか。

宮浦修司 (みやうら しゅうじ)
1950年 横浜生れ。

青木祐介 (あおき ゆうすけ)
1972年 大阪府生れ。
共著『地中に眠る都市の記憶 地下遺構が語る明治・大正の横浜』 横浜都市発展記念館 1,000円(5%税込)、『学芸員の仕事』岩田書院 1,995円(5%税込)、ほか。




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