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| 平成19年10月10日 第479号 P1 |
| ○座談会 | P1 | 古写真でみる 文明開化期の横浜・東京 (1) (2) (3) 石黒敬章/斎藤多喜夫/青木祐介/松信裕 |
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| ○特集 | P4 | 裁判員制度開始前に思うこと 長嶺超輝 | |
| ○人と作品 | P5 | 藤原智美[ふじわらともみ]と『暴走老人!』 | |
| ○有鄰らいぶらりい | P5 | 金城一紀 著 『映画篇』/今さら聞けない常識研究会 編 『死ぬほど聞くのが恥ずかしい!超常識』/北村薫 著 『1950年のバックトス』/別所真紀子 著 『数ならぬ身とな思ひそ 寿貞と芭蕉』 | |
| ○類書紹介 | P6 | セカンドライフ・・・リタイアして時間にゆとりができた今だからこそ……。 |
| 座談会 古写真でみる 文明開化期の横浜・東京 (1)
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| 横浜町会所(中央左手)と横浜郵便局(右) 横浜開港資料館蔵 |

| 左から、青木祐介氏・石黒敬章氏・斎藤多喜夫氏と松信裕 |
| <画像の無断転用を禁じます。 画像の著作権は所蔵者・提供者あるいは撮影者にあります。 > |
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はじめに |
| 松信 | 鎖国が解かれてから5年後の安政6年(1859年)に横浜が開港され、西洋文明が数多く日本に伝えられました。 その一つに写真があります。 当初は外国人カメラマンによるものが中心だった写真は、日本人の中にも次第に技術を習得する者が生まれ、江戸から明治へと移り変わる時代の風景や人々の生活が写し撮られていきました。 横浜都市発展記念館では、平成20年1月14日まで、「写された文明開化」の展示が開催されていますが、これに伴い、当社は『文明開化期の横浜・東京−古写真でみる風景』を、同館と横浜開港資料館の共編で刊行いたしました。 本日は、この展覧会や本におさめられた写真について、お話をお聞かせいただきたいと思います。 ご出席いただきました石黒敬章さんは、幕末・明治期の写真を収集され、昭和41年には石黒コレクション保存会を設立されました。 ご自身が収集・編集された『明治・大正・昭和 東京写真大集成』(新潮社)を出版していらっしゃいます。 斎藤多喜夫さんと青木祐介さんは、横浜都市発展記念館調査研究員で、今回の展示を担当され、本の出版にもご指導をいただきました。 斎藤さんは横浜開港資料館に勤務され、都市発展記念館の開館に伴い同館に移られました。 横浜居留地や幕末の写真家ベアト、明治中期の横浜写真も研究されています。 青木さんは近代建築史がご専門で横浜や東京の建築や土木遺産について造詣が深いと伺っております。 |
◇写真の発明から約10年後に日本人が被写体に |
| 松信 | 写真はいつごろ発明され、どうやって日本に伝えられたのでしょうか。 |
| 斎藤 | 実用的な写真の最初と言われているのは1839年です。 ダゲレオタイプ、いわゆる銀板写真で、銀板と言っても銀ではなくて、銅の板に銀メッキをして、そこに感光膜をこしらえて撮影をします。 日本には、開国とともに入ってきますが、その前に、最初に被写体になった日本人がいます。 栄力丸の漂流民で、全員撮影されているようです。 一番有名なのは、アメリカ彦三(ジョセフ・ヒコ)ですが、その写真もある。 今、日本にあるのは6枚です。 それが1851年ですから、ダゲレオタイプが発表されてから10年ちょっとの頃に撮影されていたんです。 次は、ペリー艦隊に随行していたエリファレット・ブラウン・ジュニアがカメラを携えていて、横浜や下田で撮影している。 写真が発明されて普及するのと、日本が開国する時期は、ほぼ重なり合っているわけです。 ペリーが来たときは銀板写真の時代だったんですが、横浜が開港した5年後には、写真の方法が湿板写真に変わってきます。 銀板写真と一番違う点は、ガラスの上に感光膜をつくって、鶏卵紙という印画紙に焼きつけるんですが、薬品と暗箱を一式持ち歩いて、ネガをその場でこしらえる。 しかも濡れているうちに撮影から現像から定着までするので、湿板写真といいます。 これが開港後すぐ入ってきます。 |
銀板写真のほうが湿板写真より簡単に撮れる |
| 石黒 | 銀板も湿板も、薬品をそろえて私は撮ったことがあるんです。 銀板のほうがやさしいんですよ。 ダゲールが1839年に書いた『ダゲレオチープ』という写真の解説書があるんです。 それを訳してもらって銀板で撮ったんですが、初めてにしては結構簡単に、まあまあうまく撮れました。 湿板は、あるときはうまくいくんですが、別のときはフレアが入ったりして、あまりうまくない。 なぜそうなるのかわからないんです。 なかなか難しいものだなと思いました。 |
| 斎藤 | 湿板写真は、下岡蓮杖[しもおかれんじょう]も、上野彦馬も、撮影に成功するまでにものすごく苦労したと言っている。 一方、鵜飼玉川[うかいぎょくせん]という、フリーマンの仕事を継承して江戸で写真館を開いた人には苦労したという話が全然ない。 湿板写真は、ある人はスッとマスターしてほとんど苦労談が伝わらない。 もう一方ではものすごく苦労した話が伝わっている。 ちょっと不思議な感じがします。 |
| 石黒 | ほんのちょっとした薬品の調合の違いなどで狂ってくるようですね。 |
横浜市域の最古の写真を撮ったのはロシエ |
| 斎藤 | 数年前、『幕末明治 横浜写真館物語』という本を書いたときに、横浜写真については、今後は外国人が書いたものを翻訳するようになるだろうと思ったのですが、そのとおりになって、その後、外国人の研究家が次々と新事実を発表しています。
その中で大きいのはロシエという人です。 ロシエは名前は知られていたのですが、氏[うじ]素性とか実態がほとんどわからなかった。 それを徹底的に追求したのがイギリスのテリー・ベネットさんという人です。 彼は研究家でもありディーラーでもあって、自分で研究して価値を高め、それを売る。 僕らは逆で、研究して価値が高まると、値が高くなったものを買わなければならない。 あるいは買えないという立場なんですが。 (笑) それまでフランス人だと思われていたロシエはフランス語圏のスイス人で、しかもネグレッティ&ザンブラというロンドンのイタリア系の企業から派遣されて中国にいて、日本の開港と同時にイギリス総領事のオールコックと一緒に来ていることがわかりました。 横浜まで足は延ばしていたんです。 そこで撮影したのがステレオ写真だったということも判明しました。 すると、これもロシエだったというものが続々と発見されて、今や何10枚にものぼります。 横浜開港資料館では、前から持っていた神奈川宿と神奈川港の写真がロシエだということがわかりました。 横浜市域最古の写真です。 |
下岡蓮杖にカメラを譲ったのはウィルソン |
| 斎藤 | ロシエが来たのが1859年で、1860年、開港の翌年には、フリーマンというアメリカ人が写真館を開いています。 これは営業写真館としては日本最初です。 このフリーマンのことも少しずつ明らかになってきまして、僕は雑貨屋さんが副業でやっていると書いたんですが、そうではなくて、日本に来る前に上海で写真館を開いていて、写真が本業だったらしいんです。 彼の作品はまだあまり明らかになっていません。 その次がジョン・ウィルソンというアメリカ人で、横浜で主に活躍したのが1861年です。 昔は日本最初の日本人職業写真家、今は横浜最初の日本人職業写真家と言われる下岡蓮杖にカメラを譲った「ウンシン」がウィルソンだった。 彼のこともいろいろわかってきました。 昔は、ジョン・ウィルソンの写真は、ヒュースケンの死体写真だけだと言われていたんですが、ベネットさんの後輩筋のドブソンさんという人が、ウィルソンの写真をもとにした版画がドイツの英字新聞に載っているのを見つけたんです。 最近、そのもととなった写真も発見されました。 こんなふうに、続々と新事実が出てきています。 |
| 松信 | 有名なベアトが日本に来たのはいつですか。 |
| 斎藤 | インドや中国で仕事をしたのち、1863年の春頃に来日します。 その年の7月に、スイスの特派使節団に随行して江戸に入り、撮影の仕事をしています。 |
| つづく |