Web版 有鄰

  『有鄰』最新号(P1) 『有鄰』バックナンバーインデックス 『有鄰』のご紹介(有隣堂出版物)


有鄰

平成19年11月10日  第480号  P4

○座談会 P1   世界文学をどう読むか
—河出書房新社『世界文学全集』刊行にちなんで— (1)
(2) (3)
池澤夏樹/永江朗/木村由美子/松信裕
○特集 P4   富士山の宝永大噴火 古宮雅明
○人と作品 P5   佐江衆一[さえしゅういち]と『長きこの夜』
○有鄰らいぶらりい P5   E・エイブラハムソン他 著 『だらしない人ほどうまくいく』荻野アンナ 著 『蟹と彼と私』中村うさぎ 著 『セックス放浪記』佐藤嘉尚 編 『面白半分 BEST随舌選』
○類書紹介 P6   ワインを味わう・・・香りや色だけでなく、もっと奥深く楽しむために……。


富士山の宝永大噴火

古宮雅明
  古宮雅明氏
<画像の無断転用を禁じます。 画像の著作権は所蔵者・提供者あるいは撮影者にあります。 >

溶岩の流出はなく、膨大な量のテフラを噴出
 
  
宝永の富士山噴火の様子を
宝永の富士山噴火の様子を
記した伊東志摩守日記
(写本)
 
宮崎県立日南高等学校蔵
(宮崎県立図書館寄託)
 
   

宝永4年(1707年)11月23日、富士山が突如大噴火を始めた。 宝永の噴火である。 テフラ(火山噴出物の総称)の大量降下で周辺地域は大きな被害を受け、その復興には膨大な労力と時間が必要であった。

富士山は活火山である。 9世紀には噴火を繰り返していたが、永保3年(1083年)の噴火以降は活動静穏期が続いていた。 しかし、この間に地下に大量のマグマが蓄積されたために宝永噴火は大規模な爆発的噴火となった。

宝永噴火の直前には元禄地震、宝永地震と、噴火と密接な関連があるとされるM8クラスの巨大地震が相次いだ。 宝永地震後は富士山周辺で小地震が続き、23日午前10時過ぎ、大音響とともに南東中腹から大噴火が始まった。

この噴火では溶岩が流出せず、膨大な量のテフラのみを噴出した。 テフラは上空の偏西風で東方に運ばれて大量に降下した。 人々は雨のように降り注ぐテフラを「砂降[すなふ]り」とよんだ。 軽量の火山灰は江戸や、さらに、160キロ以上離れた下総[しもうさ]佐原(現千葉県香取市)あたりにまで達した。 噴火は最初の数日が最も激しく、その後緩急を繰り返しながら12月8日に終息した。 わずか16日間の噴火であった。 跡には富士山最大の火口が形成された。

江戸では噴火が始まった時刻に戸や障子が突然ガタガタ鳴り響いた。 爆発的噴火の衝撃波による空振現象である。 やがて雷鳴・轟き・震動などが続き、黒雲が空を覆い、灯火が必要なほど暗くなった。 昼過ぎからネズミ色の灰が降り始め、夕刻からは黒色の砂に変わった。 どこかの山の噴火であろうと推測されたが、富士山噴火と確認されるのは駿河吉原宿(現静岡県富士市)からの急報が届いた25日であった。

降灰や地響きなどの異変はその後も断続的に続いたが、富士山噴火と判明したことで江戸の人心は落ち着き、富士山が望める日には、江戸橋や日本橋に噴火する富士山を見物する群衆があふれた。


砂で埋め尽くされ、生産・生活の基盤が破壊される

 
  

駿河国駿東郡(現静岡県御殿場市~小山町)から神奈川県域にかけては、大量のテフラ降下に見舞われ大被害となった。 足柄上郡篠窪村(現大井町)の名主はその様子を、激しい震動と地響きに気を失うほど驚愕しているうちに、数グラム~10数グラム、中には190グラムもある石が降り始め、夕刻からは黒砂に変わって大雨のように降り続いた。 隣家との行き来もできず昼間でも火を灯して食事をした、と記録している。

  皆瀬川村絵図
皆瀬川村絵図
井上安司氏蔵
(神奈川県立公文書館寄託)
  「砂地」「山畑砂」が各所に見られる。 享保13年(1728年)か。
   

砂降りによる直接的死者は確認されていないが、砂の深さは、駿東郡では1メートルをこえた。 神奈川県域では、西部の足柄上郡の山沿い地域で60センチ以上、平野部で3~40センチ、中部の大住・愛甲・高座郡等で2~30センチ、東部の武蔵三郡でも10センチ前後あった。 県域の大部分が砂で埋め尽くされ、生産・生活の基盤は完全に破壊された。

11月23日は太陽暦では12月16日になる。 稲の収穫は終わっていたが、麦が全滅し、菜・大根も枯れてしまった。 野・山からは秣[まぐさ]が採取できなくなって馬の飼育が困難となり、薪炭の生産も不可能となった。 また、水路は直接降り積もった砂に加え、降雨などで周辺からも大量に砂が流れ込んで閉塞され、農業用水はもちろん、飲み水にも困るところもあった。

生産・生活基盤の復旧・復興は困難を極めた。 足柄上郡千津嶋村(現南足柄市)は、砂の深さが57センチ程であったが、田畑67町余の半分を砂退[すなの]け(農地復旧)するだけで、延べ45万人余の労力を必要とした。 村人口530余人全員が休まず復旧作業に従事しても850日を要する計算である。 ここには、水路・道路・屋敷地・山野・山畑などは含まれていない。 地域全体の復興には膨大な労力と時間が必要であった。

食糧不足も深刻であった。 当時、多くの農民は、麦の収穫を担保とした前借や農間稼[のうまかせ]ぎで得た現金で麦収穫までを食いつなぐという生活状態であった。 しかし、麦の全滅で前借はできなくなった。 砂退け作業に専念すれば、農間稼ぎによる現金収入も得られない。 多少の蓄えも底を尽くのは必至で、蓄えのない小百姓は、すでにその日の食料もなく、餓死者も出かねない事態となった。 こうした状況は、砂が10センチ前後であった武蔵三郡でも生じており、砂が深くなる県西部に行くほど事態は深刻だった。
 


複雑な支配の枠をこえ、地域一体となって救援を求める

 
  

当時の神奈川県域は、西部は小田原藩領がまとまっているが、その他の地域は幕府直轄領・旗本領・寺社領・大名領が入り組んで、村ごとに領主が異なり、一村が複数の領主に分割してあてがわれている相給[あいきゅう]村も少なくなかった。

被災農民は当面の生活維持と耕地復旧の援助を領主に求めたが、小田原藩の財政事情は苦しく、まして小規模な旗本領などでは満足な救援は期待できなかった。 また、所領入り組み地域では個別領主が広域災害時に必要な、被災地全体に対する系統的統一的対応ができないという特有の問題点もあった。

こうした事情は農民側も認識しており、それぞれの領主に「御救[おすくい]」を求める一方で、領主支配の枠を超えて、幕府による救援を求める動きが広範にみられた。

小田原藩領では年明け早々足柄上・下郡104ヶ村が藩から幕府に援助を求めるよう要求、所領入り組み地域では大住郡秦野地域の28ヶ村、高座郡の相模川東岸沿いの28ヶ村、久良岐郡本牧・金沢の21ヶ村が、それぞれ連名で幕府勘定奉行中山出雲守に救援実施を求める訴状を12月18日に提出している。

この訴願に加わった村々は旗本領・寺社領・大名領などであり、相給村も多数含まれている。 個別領主の枠をこえ地域一体となって直接、幕府に統一的対策を求めたのである。 他の村でも同じ時期に訴願を行ったことがうかがえる史料があり、このような訴願行動が広範囲で行われたことが推測される。
 


幕府や藩の対応は農民自力での復興が基本

 
  

農民は御救金と砂退金の支給を求めた。 砂退金とは耕地復旧に必要な経費のことで、被災地農民が復旧作業に専念する間の生活保障として、作業労賃の支給を求めたものである。 1月中旬、幕府はようやく対応策を出したが、耕地復旧はまず農民自力で行うよう、食料は備蓄があるはずだから援助はしない、ただし今後検討はする、との内容で、被災農民の要望からはほど遠いものであった。

しかし、幕府も深刻な被災状況を認識しており、閏1月7日、被災地救済その他の諸経費を集めるとして全国に100石2両の高役金を賦課し、救済資金を調達した(ただし、被災地救済に使われたのはその一部にすぎなかった)。

被害甚大な小田原藩領(駿東郡、足柄上・下郡)は幕府主導で復旧を進めるため、幕府直轄領に組み入れられた。 小田原藩領以外の所領入り組み地域では被災状況が調査され、2月中旬から御救金・麦種代・馬飼料の支給が始まった。 御救金は村高100石につき砂の深さに応じて2~4両、麦種代は種麦の購入資金の名目で畑1反につき永50文(永1,000文=金1両)、馬飼料は馬1匹につき銭300文であった。 しかし、農民が強く求めていた砂退金の支給はなく、この程度の御救金では一時凌ぎにしかならなかった。

3月下旬、幕府役人が復旧状況調査のため再び村々を廻ると、食糧は底をつき、先の食糧確保のめどもまったく立たないという切迫した状況で、再度の御救実施を求める訴願が殺到、幕府も2度目の救援金支給に踏み切った。

御救金は増額されて100石2~9両、馬飼料も1匹永300文または永500文と前回の4~7倍以上であったが、砂退金はとうとう支給されず、所領入り組み地域への幕府の救援金支給はこれが最後となった。

直轄領となった小田原藩領では、この後も幕府の支援が続くが、酒匂川治水と飢人援助が中心で耕地復旧への支援はほとんどなかった。

いずれも被災農民は十分な支援を受けられないまま、自力での耕地復旧に取り組まねばならなかった。
 


「うないくるみ」や「砂置場」、「天地返し」で田畑を復旧

 
  

畑の場合、砂が多くなければ元の耕作土に混ぜ込む「うないくるみ」という方法が採られた。 現在でも宝永テフラを多量に含む耕作土が見出されるのは、この結果である。 しかし、砂が多量だったり、田の場合は、砂を取り除かねばならない。 砂の捨場所がなければ田の一部を「砂置場」とするほかなかった。

山北町では60センチ以上の砂と元の耕作土を全部入れ替える「天地返し」という方法で復旧された畑跡が、開成町では砂の上に新たな耕作土を40センチ以上も客土した水田址が発掘されている。 人力と畜力のみの時代に、様々に工夫して耕地復旧に取り組んだ様子がうかがわれる。 復旧は年貢確保のために上田上畑が優先され、農民が生活の多くを依存する下畑や山畑は後回しになった。 農民生活の再建には耕地復旧以上に長い年月が必要であった。

農民の努力によって復旧は徐々に進んだ。 砂が浅い地域では翌年中には8~9割が復旧している。 しかし、足柄地方では3~40年後でも未復旧地が少なからず残り、県中部の水田地帯では幕末期になっても砂置場が広範囲で残っている。 そしてついに復旧しなかった田畑もある。 酒匂川は、集中的な治水工事にもかかわらず、砂による川床上昇で氾濫を繰り返す暴れ川と化し、長く流域住民を苦しめた。 宝永噴火は地域に深い傷跡を残した。
 




古宮雅明 (こみや まさあきき)
1954年神奈川県生れ。 神奈川県立歴史博物館主任研究員。



ページの先頭に戻る

Copyright © Yurindo All rights reserved.