Web版 有鄰

  『有鄰』最新号(P1) 『有鄰』バックナンバーインデックス 『有鄰』のご紹介(有隣堂出版物)


有鄰
(題字は、武者小路実篤)
有鄰の由来・論語里仁篇の中の「徳不孤、必有隣」から。 「鄰」は「隣」と同字、仲間の意味。

平成19年12月10日  第481号  P1

○座談会 P1   翻訳家が語る 古典「新訳ブーム」 (1) (2) (3)
野崎歓/鴻巣友季子/青木千恵
○特集 P4   谷内六郎と海、そして観音崎 立浪佐和子
○人と作品 P5   井上荒野[いのうえあれの]と『ベーコン』
○有鄰らいぶらりい P5   出久根達郎 著 『萩のしずく』柳沢有紀夫 著 『日本語でどづぞ』あんの秀子 著 『日本語へんてこてん』渡辺淳一 著 『あじさい日記』
○類書紹介 P6   昭和ノスタルジー・・・得たもの、失ったもの、懐かしさだけでは語れない。


座談会

翻訳家が語る 古典「新訳ブーム」 (1)

東京大学文学部准教授・翻訳家 野崎歓
翻訳家・エッセイスト   鴻巣友季子
ライター・本誌編集委員 青木千恵


右から、鴻巣友季子氏・野崎歓氏・青木千恵氏
右から、鴻巣友季子氏・野崎歓氏・青木千恵氏
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    はじめに
 
青木  

去年あたりから「新訳ブーム」と言われています。 村上春樹さんの新訳でサリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』が2003年に白水社から、今年、チャンドラー『ロング・グッドバイ』の新訳が早川書房から刊行され、話題になりました。 また「いま、息をしている言葉で、もう一度古典を」をキャッチフレーズに昨年9月から刊行が始まった光文社古典新訳文庫が多くの読者の手にとられ、亀山郁夫東京外国語大学学長が新訳した『カラマーゾフの兄弟』は、全5巻(※12345)で30万部超の売れ行きだそうです。

本日は、フランス文学研究・翻訳のほか、映画・文学評論、エッセイなどを幅広く手がけていらっしゃる東京大学准教授の野崎歓さん、英米文学翻訳家でエッセイストの鴻巣友季子さんにご出席いただきました。

野崎さんはサン=テグジュペリの『ちいさな王子』などを新訳され、今年9月、スタンダール『赤と黒』の上巻を光文社古典新訳文庫から刊行されました。 (※『赤と黒 下巻』)

鴻巣さんは、2003年にE・ブロンテ『嵐が丘』(新潮文庫)の新訳を手がけて話題を呼び、今秋刊行が始まった河出書房新社の『世界文学全集』では、ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』の新訳に取り組まれているそうです。

エッセイストとしても、野崎さんは『赤ちゃん教育』(青土社)で2006年に講談社エッセイ賞を受賞され、鴻巣さんは『翻訳のココロ』(ポプラ社)、『明治大正 翻訳ワンダーランド』(新潮新書)、12月には『やみくも』(筑摩書房)刊行と活躍中です。

海外の作家の文章を訳す翻訳家の仕事と、ご自分の文章を書き起こすエッセイストの仕事とでは、どんな違いがあるのか、新訳ブームについて、翻訳、エッセイの仕事とは、文学の面白さ……など、ざっくばらんにお話いただければ幸いです。
 


   ◇時代が古典を新たに求める動きが
 
青木  

今の新訳ブームについて、どのように思っていらっしゃいますか。
 

鴻巣  

私の中での新訳ブームは、去年からというよりは、もうちょっとさかのぼって、私の『嵐が丘』の新訳と『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の村上春樹さんの新訳が同じ2003年に出たんですが、それよりも前にヘミングウェイの短編新訳とか、メルヴィルの『白鯨』の千石英世さんの新訳 (※)とか、布石がたくさんあったんです。 全体的には20世紀から21世紀の変わり目あたりに、『ユリシーズ』の新訳が出たり、プルーストもかなり原典を意識した改訳が出たりして、原点回帰の潮流があったと思います。

今、現代作家の翻訳は超スピードで、翻訳家の方は、へたをすると作家のタイプ原稿で翻訳を始めて、アメリカで原著が出るころには世界同時発売されるような、先へ先へと行くものすごく早い潮の流れがあるんですが、同時にゆっくり、古典の名作に改めて目が向くような、戻り潮みたいなものを私はこの10年ぐらい感じていたんです。

だから新訳ブームは私にとってはものすごく自然だし、光文社の古典新訳文庫は、そのブームの大きなエネルギーの最後の起爆剤というか、それで火がついたというようなイメージがありますね。
 

野崎  

潮というのはすばらしいイメージです。 僕も、特に現代作家の翻訳をするときは、これが今一番新しいんだという勢いで、つまり、潮の一番先だと思っているけれども、確かに引き潮というのもあって、もう一度、足元を見直すということなのかもしれない。

同時に作品自体も絶えず発見されずにはいない性格というか、それぞれの時代が古典を新たに求めるという動きが明らかになってきているんだろうなと思います。 「古典には読んでもらいたがっている部分がある」というのは、まさにそうですね。
 

鴻巣  

ええ、『翻訳のココロ』にも書いたのですが『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の村上さんの訳を読んだときに、時代が求めるというより、何か本のほうで読まれたがっている部分がグーッと出てくるイメージがあったんです。 それがこの新訳の場合は、ちょっと神経症っぽい語り手のトーンだったということだと思います。
 


    読みやすさや親しみやすさを求める今の翻訳
 
野崎  

前の世代は、古典に対する非常な愛情と尊敬に基づいて、学問的に精密に追求した、研究者たちのライフワークの一本の柱として翻訳というものがあったわけです。 日本の翻訳はかなりのレベルだったと思いますが、それプラス読みやすさとか、言葉の親しみやすさを求める姿勢があるんじゃないか。 それがどんどん強まってきているんじゃないかと思う。 もう一度我々も、真っさらな読者とつながる回路を探さなきゃならないという意識はあるんです。 読者が、従来の学識ある人たちの権威ある訳からもう一歩進んで、自分たちのほうに近づいてくれる訳を求めるのは当然なことだと思います。
 

鴻巣  

「本当の姿を見たい」という欲求じゃないかと思うんです。 堀口大学の翻訳は、難しいけれど、そこにギューッと凝縮された文学観があって、みんなそれに惹かれて読んだ。 でも、本当は何を言っているんだろう。 読者が、もっと明快に見たいという素直な欲求をぶつけてくるようになったんじゃないですかね。
 

野崎  

そういう欲望が新訳を支えているんだと思いますね。 もともと古典というのは意外にシンプルに書かれているもので、それが長い命の秘密でもあると思うんです。

ただ、外国文学の場合は、そこにある種のオーラを付加することによって、ありがたみを増した形で読んでいた。 そういう時代が結構あった。
 

鴻巣  

「翻訳書は3割増し」という言い方があるそうで、原文で読むより3割ぐらいありがたく聞こえる。 もう一つ言語を通しているので、ある意味、回りくどいということなんですけど。 (笑)
 

野崎  

なるほどね。 僕のやっているのは3割を戻しちゃう作業みたいなのが多い。 王様を裸にしちゃうみたいな側面もないわけではなくて。
 


    新訳によってその時代の語り口をつくっていく
 
青木  

それまではちょっと上から教わるみたいな、いかめしい訳だったものが、新訳は読みやすく、エンターテインメントとして面白く読めるようになっていますね。
 

野崎  

ある意味でそれは健全なことです。 近代小説は要するに娯楽ですから、面白く読めなかったものは生き残っていないはずなので、まずは、それが一番大事ですね。 誰に言われなくても手が伸びるとか、小学生でも夢中で読んで記憶に残るとか、それが大事なのであって、そのための後押しをしたいなという意識は、我々みんな共通に持っていると思います。

  『嵐が丘』
  嵐が丘
  E・ブロンテ/鴻巣友季子訳
  新潮文庫
   

そもそも、日本語というものが、翻訳とは切り離せないものだし、日本の文化もそうで、外国的なものとの触れ合いの中で、これだけ生き生きとした文化が生まれたわけだから、そのことは誰しも、多少なりともきっと意識しているんだと思うんです。

だからこれだけ新訳がブームになるということは、逆にそれがまた日本語への刺激にならないと意味がないということになるんだろうけど、鴻巣さんの『嵐が丘』がそういう意味では非常に先駆的だったと思う。 最近は、語りという意識を非常に強く持っている訳が多いと思うんですよ。

単なる勉強のテキストで一文一句を写していくというのではなくて、何かそれを活気づけている息というか、声がある。 そこに鴻巣さんは着目して『嵐が丘』を生き返らせたわけだし、その時代の語り口をそれでつくっていく。 こういう新しい訳によって文学の面白さが伝わるということは、同時に文学というのは語りかけてくるものなんだと、そこのところがリアルに感じられるといいんだろうなとい う気がします。
 

鴻巣  

今、18世紀、とくに19世紀の古典が好まれるのは、このころの文学には声があったんじゃないかと思うんです。 20世紀の英文学は、例えばウルフにしても、ジョイスにしても、語り手の声というものが失われた時代だったようなんですね。 実はみんな、そろそろ語りの声をもっと生々しく欲し始めていて、それが翻訳を通して出ている感じがします。 沼野恭子さんの『初恋』の新訳はすごく新鮮でしたよね。
 

野崎  

どきどきするような訳になっていましたね。
 

鴻巣  

「です」「ます」の語りかけ調で訳すというのはコロンブスの卵みたいな発想の転換で、『初恋』という作品があれだけ生き生きとよみがえる。 何かまた語りの時代が戻ってきつつあるのかなと思いました。
 

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