Web版 有鄰

  『有鄰』最新号(P1) 『有鄰』バックナンバーインデックス 『有鄰』のご紹介(有隣堂出版物)


有鄰
(題字は、武者小路実篤)
有鄰の由来・論語里仁篇の中の「徳不孤、必有隣」から。 「鄰」は「隣」と同字、仲間の意味。

平成20年10月10日  第491号  P1

○座談会 P1   野澤屋と伊勢佐木町 (1) (2) (3)
鎌仲友二/津田武司/平野正裕/松信裕
○特集 1 P4   三崎と三崎の物語 いしい しんじ
○特集 2 P4   横浜開港150年・有隣堂創業100年
「横浜を築いた建築家たち (4)」 コンドル
 吉田鋼市
○人と作品 P5   乾くるみと『カラット探偵事務所の事件簿 1』
○有鄰らいぶらりい P5   日本エッセイスト・クラブ 編 『美女という災難』津村節子 著 『ふたり旅』ヒキタクニオ 著 『上を向いて歩こう』北原亞以子 著 『父の戦地』
○類書紹介 P6   内閣総理大臣…歴代宰相のリーダー・シップとその時代を読み解く。



座談会


野澤屋と伊勢佐木町 (1)

横浜松坂屋松友会幹事長 鎌仲友二
株式会社むさしや津田商店代表取締役・
伊勢佐木町の歴史書をつくる会会長
津田武司
横浜開港資料館主任調査研究員 平野正裕
 有隣堂社長  松信裕

 
 

津田武司氏 鎌仲友二氏 平野正裕氏 松信裕
左から、津田武司氏・鎌仲友二氏・平野正裕氏・松信裕

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    はじめに
 
松信  

野澤屋呉服店伊勢佐木町支店
  野澤屋呉服店
伊勢佐木町支店
  明治43年
『実業之横濱』8巻24号から
  横浜開港資料館蔵
   

横浜が開港して間もなくの元治元年(1864年)、初代茂木惣兵衛[もぎそうべい]が横浜の弁天通で創業した野澤屋呉服店は、明治43年(1910年)に伊勢佐木町に支店を開設しました。 のちの野澤屋、現在の横浜松坂屋の前身です。 その後、関東大震災や戦争などの苦難を乗り越え、ほぼ1世紀、横浜を代表する店舗の一つであり続けました。 百貨店という、従来の小売店とは異なる販売形態は、地域に根づき、市民に親しまれてきましたが、10月26日をもって営業を終了し、長い歴史に幕をおろすことになりました。

本日は、伊勢佐木町の核とも言える野澤屋・現横浜松坂屋の歴史を振り返り、それを取り巻く地域とのかかわりなどについて、お話をお聞かせいただきたいと思っております。

ご出席いただきました鎌仲友二様は昭和28年(1953年)に野澤屋に入社され、30年間にわたり多くの部署でお仕事をなさいました。 現在はOB会である横浜松坂屋松友会幹事長でいらっしゃいます。

津田武司様は伊勢佐木町で四代続くお店を経営されるかたわら、伊勢佐木町の歴史をつくる会会長として地域の歴史を掘り起こし、記録していく活動に取り組んでおられます。

平野正裕様は横浜開港資料館主任調査研究員で、平成13年(2001年)の同館の企画展「横浜商人・繁栄の60年—野澤屋茂木商店とその人びと」を担当されました。


  ◇元治元年、茂木惣兵衛が弁天通に呉服店創業
 

松信

 

創業者の茂木惣兵衛はどういう方だったのですか。

平野

 
初代茂木惣兵衛
初代茂木惣兵衛
横浜開港資料館蔵
 

茂木惣兵衛は文政10年(1827年)上州の高崎に生まれます。 大黒屋という質屋の息子で、長男でありながら奉公に出され、さらには桐生の絹物商の新井家に養子に入る。 しかし嘉永7年(1854年)、結局は養子先の新井家とも別れて高崎に戻り、独立します。

安政5年(1858年)に日米修好通商条約が結ばれ、翌年の安政6年に横浜が開港します。 そのころ、現在の埼玉県児玉町出身の野澤屋庄三郎が、横浜に野澤屋という店を開きます。

野澤屋庄三郎は開港後、数年で亡くなります。 そして、その野澤屋の暖簾を引き継いだのが茂木惣兵衛でした。 茂木惣兵衛はそれ以前に、信州の呉服商の中山浜次郎という人物を介して野澤屋に入っており、主に生糸輸出などの事業をやっていたと言われています。


野澤屋茂木惣兵衛
  野澤屋茂木惣兵衛
  明治中期
『横浜諸会社諸商店之図』から
  横浜開港資料館蔵
   

野澤屋呉服店は、元治元年(1864年)の創業となっていますが、いろいろと調べていきますと、明治元年と書いてあるのもあります。 また、明治14年に発行の『横浜商人録』という本の広告には、茂木惣兵衛(「入九」)が弁天通野澤屋、その支店が隣に野澤屋として明治7年開業、呉服織物木綿唐洋織物類賣買云々と書いてあります。 旧い資料で、かつ創業年が明記されているのは、この『横浜商人録』だけですが、はっきりとした答えは出せません。

茂木惣兵衛は事業でたいへん成功して、野毛山に立派な邸宅があったんです。 初代惣兵衛の時代から、ここは秋に菊を市民に公開することで有名でした。 また、熱海梅園も初代の茂木惣兵衛が造成し、寄贈しています。 熱海梅園には「茂木氏梅園記」という石碑があります。


    商号「入九」は野澤屋庄三郎の墓にも
 

津田

 

「入九[いりく]」という商号は、初代のおうちの何かなんでしょうか。

平野

 

「入九」の由来は、茂木惣兵衛が九文しかお金を持たずに横浜に出てきたからという逸話が昔はあったようですが、おそらくそうではなくて、武州児玉郡の商人に野沢九平という人がいて、その娘の佐和と結婚した桜沢正三郎が野澤屋を創業した野澤屋庄三郎なんです。 その家の時代から「入九」という商号はあったと思われます。 野澤屋庄三郎の墓は今でも残っていまして、そこには「入九」が刻まれています。 ですから、野沢九平の「九」かもしれませんが、今、確認できるのは庄三郎のお墓に彫られている「入九」が最も旧いですね。


    二代目茂木保平が進めた六大事業
 

平野

 

茂木家の家系はややこしいところがあって、初代惣兵衛は晩年に茂木保平と名乗り、別家を興します。 初代茂木惣兵衛であり、初代茂木保平でもあるわけです。

惣兵衛の奥さんは哲子といい、娘・操子がいた。 この娘の婿養子にしたのが自分の甥である保次郎です。 これが二代目茂木惣兵衛です。

ところが、哲子は比較的早く亡くなって、後妻として蝶子という方を迎えて栄子という娘が生まれる。 栄子は名古屋の瀧定助商店というところから泰次郎という人を迎え、二代目保平になります。 茂木家には「惣兵衛家」と「保平家」の二軒があった。

二代目惣兵衛となる保次郎は病弱だったようで、店をあまり見ることができず、結局二代目保平が実質的に茂木惣兵衛の次の世代を担うことになります。

松信

 

二代目保平はどういう方だったのですか。

平野

 

婿養子になった二代目保平の実家は、今でも名古屋に瀧定という会社がありまして、服地の卸では国内でもトップの商店です。 その瀧定の次男です。 瀧定に、保平から兄の瀧定助に宛てた手紙が残っているんです。

自分が養子に入った茂木商店はどんな家か、特に呉服店については「呉服店のごときは流通資本四万円前後(資金積立金合計)本年度の収金一万五、六千円のこと、いかんとも驚きいり候……」と、明治20年代にこれだけの大きな事業をやっているということで、非常にびっくりしている。 生糸貿易で生糸の問屋としてももちろん大きな取引をやっていたんですけれども、呉服商としても大きな取引をやっていたということがわかるんです。

二代目保平は生糸売込商の事業だけではなく、より多角経営を進めます。 特に「茂木の六大事業」と言われる事業を彼はやるんです。

まず、生糸輸出の茂木商店、金融の茂木銀行、これは、後に七十四銀行になります。 そして、不動産管理会社の茂木土地部、羽二重などの輸出をおこなう野澤屋輸出店、次には野澤屋絹商店という、洋服などのシルク製品をつくって商売するお店もつくる。 最後は呉服店。 これが茂木の六大事業です。 さらには高崎に茂木製糸場という生糸工場も直営し、また羽二重の工場を福井市につくるという形で多角経営を進めていくんです。



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