Web版 有鄰

  『有鄰』最新号(P1) 『有鄰』バックナンバーインデックス 『有鄰』のご紹介(有隣堂出版物)


有鄰
(題字は、武者小路実篤)
有鄰の由来・論語里仁篇の中の「徳不孤、必有隣」から。 「鄰」は「隣」と同字、仲間の意味。

平成21年6月10日  第499号  P1

○座談会 P1   原始・古代から現代まで 『開港150周年記念 横浜 歴史と文化』 (1) (2) (3)
高村直助/斉藤司/西川武臣/平野卓治/松信裕
○特集 1 P4   藤沢のはなし 藤谷治
○特集 2 P4   横浜開港150年・有隣堂創業100年
「横浜を築いた建築家たち」 (12) 川崎鉄三
 吉田鋼市
○人と作品 P5   青木淳悟と『このあいだ東京でね』
○有鄰らいぶらりい P5   乙川優三郎:著 『闇の華たち』塩澤実信:著 『文豪おもしろ豆事典』エドガー・アラン・ポー:著 『モルグ街の殺人・黄金虫』ロバート・ホワイティング:著 『ボブさんの誰にも書けないベースボール事件簿』
○類書紹介 P6   開国・開港と横浜…150年前の横浜の人びと、社会、風景をたどる。


『横浜 歴史と文化』
座談会


原始・古代から現代まで
『開港150周年記念 横浜 歴史と文化』 
(1)


(財)横浜市ふるさと歴史財団理事長 高村直助
横浜市歴史博物館学芸員 斉藤司
横浜開港資料館調査研究員 西川武臣
横浜市歴史博物館学芸員 平野卓治
 有隣堂社長 松信裕

 
   

左から斉藤司、平野卓治、高村直助、西川武臣の各氏と松信裕
左から斉藤司、平野卓治、高村直助、西川武臣の各氏と松信裕

<画像の無断転用を禁じます。 画像の著作権は所蔵者・提供者あるいは撮影者にあります。 >

書名(青字下線)』や表紙画像は、日本出版販売(株)の運営する「Honya Club.com」にリンクしております。
「Honya Club有隣堂」での会員登録等につきましては、当社ではなく日本出版販売(株)が管理しております。
ご利用の際は、Honya Club.comの【利用規約】や【ご利用ガイド】(ともに外部リンク・新しいウインドウで表示)
を必ずご一読くださいませ。


     はじめに
 

松信

 

横浜では今、開港150周年の博覧会が、みなとみらい地区などの会場で華々しく開催されています。 これは横浜がペリー来航から6年後の安政6年(1859年) 6月に開港し、日本と西欧諸国との交易が始まったことを祝って開かれているものです。

この開港150周年にちなんで、横浜市歴史博物館や横浜開港資料館などを管理・運営する財団法人横浜市ふるさと歴史財団が、原始・古代から現代に至る横浜の歴史を、新しい資料を用いて紹介する『横浜 歴史と文化』の出版を企画され、有隣堂から刊行いたしました。

本日は、横浜の歴史の流れをたどりながら、この本に盛り込まれた新発見の資料や日頃の研究の成果を反映した内容などをご披露いただきたいと思います。

ご出席の高村直助先生は、横浜市ふるさと歴史財団理事長で、横浜市歴史博物館、横浜開港資料館、横浜都市発展記念館の館長でいらっしゃいます。 日本近代経済史をご専攻で、今回の出版の監修を務めていただきました。

横浜市歴史博物館からは、原始・古代を担当された平野卓治さんと近世担当の斉藤司さん、横浜開港資料館からは開国・開港期担当の西川武臣さんにご出席いただきました。

なお今年は、有隣堂が明治42年(1909年)に横浜・伊勢佐木町に創業してから100周年に当たり、今回の出版は、その記念も兼ねております。


     安政6年の横浜の写真や翌年の開港場の肉筆画など
 

松信

 

今回の企画は、どういうお考えで始まったのでしょうか。

高村

 

横浜開港150周年ということで、私ども歴史にかかわる施設を運営する横浜市ふるさと歴史財団としては大いにはりきりまして、この際、ぜひ皆さんに横浜の歴史を振り返っていただけるような本をつくろうということになりました。 幸いに原始・古代から現代に至るまでの研究者がそろっておりますので、そのメンバーが全力を出せばまとまったものができるだろうと。

横浜は、開港後急速に発展しましたので、今回の本では開港期に大きな比重を置きましたが、それ以前の歴史も含めて、原始から現代までを網羅しています。 図版を多く、文章は短く、わかりやすく読みやすいスタイルで横浜の歴史をトピックをつづる形で紹介しました。

  開港直後の横浜
開港直後の横浜
横浜開港資料館蔵
 

松信

 

この『横浜 歴史と文化』にも収録されている新しい資料が、今、横浜開港資料館の展示「港都横浜の誕生」で公開されていますね。

西川

 

一つは、開港直後の安政6年の横浜を撮影した写真です。 P・J・ロシエという、開港後、最初に来浜したスイス人のプロカメラマンが撮ったものです。 今の元町百段公園あたりから横浜村を見おろしています。

  横浜開港場の図
横浜開港場の図
横浜開港資料館蔵
 

もう一つは、肉筆画の「横浜開港場の図」です。 この絵には桜が描かれていて、関内と元町の間の堀川がまだないので、描かれている光景は、開港の翌年の万延元年(1860年)の春だと推定できる。 非常に写実的で、開港直後の横浜の市街地の様子がよくわかる。 文献的な資料と照らし合わせても、描かれている事実は、まず間違いないと思います。

斉藤

 

地名も読めますね。

西川

 

落款もなく、私は美術史の専門家ではないので断定はできないんですが、五雲亭貞秀の作品だといいなと思っています。 (笑)

松信

 

貞秀は横浜浮世絵の一番の名手ですね。

西川

 

肉筆画は極めて少ないんですが、構図が貞秀の横浜浮世絵に似ている。

松信

 

神奈川の成仏寺[じょうぶつじ]の本堂前の、宣教師とその家族の写真も新しい資料ですね。

西川

 

横浜でのヘボンが写っている写真としては一番古いはずで、文久元年(1861年)頃のものですね。


  ◇ペリーの出した条件が国際都市の原点に
 

松信

 

横浜は戸数わずか101戸の半農半漁の村から、今や、人口360万人を超える日本第二の都市になった。 そのきっかけはペリー来航と、それに続く横浜開港ですね。 しかしなぜこの場所だったのでしょうか。

西川

 

安政元年(1854年)にペリー艦隊が東京湾に入ってきたとき、幕府は艦隊をなるべく江戸に近づけたくなかった。 条約の交渉も、鎌倉とか、ペリーの最初の来航のときにアメリカ大統領の国書を受け取った久里浜でやりたいと言うんですが、ペリーは納得しない。 さらに東京湾の奥深く入ろうとする中で、幕府が提案した場所が横浜だったんです。

ペリーは江戸により近いということのほかに2つの条件を出します。 1つは、水深の深い海があること。 軍艦で圧力をかけながら交渉を有利に進めたいという考えでしょうけれど、陸に向かって艦隊が横一列に停泊できる場所を要求します。

2番目は、ある程度広い土地です。 汽車の模型を走らせたり、電信の実験をやるためです。 幕府の浦賀奉行所の役人が、現在の中区の中心部にペリー側近のアダムズを案内するのですが、彼は、ここならいいということで、横浜村が日米和親条約締結の場所に選ばれます。

この2つの条件は、横浜という町の発展にとっても意味があった。 まず、水深の深い海は良港の条件ですね。 広い土地は、都市が発展するための重要な要素です。

それから江戸との適度な距離ですね。 神奈川湊という東京湾の中でも有数の商品の集散地がある。 当時の一級国道である東海道が通っていて、大きな宿場町もある。 この立地とペリー来航、その後の幕府による町づくりが、国際都市横浜の原点かと思います。


      わずか半年で開港場の市街地をつくる
 

松信

 

日米修好通商条約では開港場は「神奈川」ということになっていますね。 神奈川は今のどのあたりですか。

西川

 

現在の横浜市神奈川区の海岸部が神奈川宿です。 京浜急行の神奈川駅、JRの東神奈川駅の一帯です。

松信

 

そして、開港場を神奈川にするか、横浜にするかというのが大問題になりますね。

西川

 

  広重「東海道五十三次之内神奈川」
広重「東海道五十三次之内神奈川」
横浜市歴史博物館蔵
 
そうですね。 日米修好通商条約の第三条に「神奈川」を開港すると書いてあるんです。 当時、神奈川宿はすでに発展していましたから、アメリカ総領事のハリスは、開港場として神奈川宿を強く要求します。 それは当たり前で、ハリスの目から見ると横浜にはほとんど何もない。

ハリスやイギリスの総領事オールコックたちは、横浜には東海道からの道がない。 道をつくるにも、川が何本もあって橋をかけなければいけない。 波止場もないではないかと言うので、幕府は威信をかけて、安政6年の正月頃からわずか半年ほどの間に、波止場をつくり、また、現在の西区の浅間下[せんげんした]から東海道と開港場を結ぶ横浜道をつくり、そして、神奈川奉行所の建物や遊廓、外国人のための住居などをつくり、日本人の商人を誘致して建物をつくらせる。 こうして、たちまちのうちに市街地ができ上がります。

斉藤

 

横浜に開港場を建設するにあたっては、横浜町の総年寄の一人に保土ヶ谷宿本陣の苅部清兵衛が任命されているように、近隣の宿場であった神奈川宿と保土ヶ谷宿の人々が大きく寄与していると思われます。

西川

 

開港した安政6年6月2日の段階で、幕府は開港場は横浜村だと言いますが、諸外国はそれを認めず、神奈川宿が開港場だと言う。 当時は2つの開港場があったと考えていいと思います。 ただ、外国商人たちは、土地が広く建物も建てやすい横浜のほうに発展性を見ている。 日本の商人たちも、続々と横浜に移住してきて、なし崩し的に横浜が開港場として選ばれていきます。


      居留地の治安のため堀川が開削され関門ができる
 

高村

 

開港場は日本人の町人が住む部分と、外国人の居留地の2つからなるわけですが、貿易が順調に発展したために、予想以上に急速に外国商人たちが増え、たちまち手狭になって次々に居留地が拡大していく。 元の住民は少し外れのところに移らされていましたが、それが元町です。 居留地拡大が山手にまで及んで、山手居留地と山下居留地の間ですから、外国人目当ての仕事で町が発展していくんです。

松信

 

先ほどお話に出た堀川も幕府の政策でつくられたんですか。

西川

 

開港直後から、外国人をつけねらう攘夷派の浪士たちが横浜に入り、市街地で外国人の殺傷事件が相次ぎます。 それで外国側が幕府に対して警備の強化を要求するんです。

五雲亭貞秀「横浜休日異人遊行之図」  
五雲亭貞秀「横浜休日異人遊行之図」
横浜開港資料館蔵
 

当時の横浜市街地は治安上、現在の元町から山手にかけてのところが弱点で、もともと川はなかった。 犯人は山手側に逃走してしまう。 それで堀川をつくって橋をかけ、橋のたもとに関門を置いたんです。

外国側は最初は日本人と外国人を遮断するなと言っていたんですが、事件が余りにも多発するので、外国人の安全を守るために、川と関門ができる。 関門には番人がいて、市街地で犯罪が起こると関門を閉めるという警備態勢をとります。 関門では、一般の町人たちよりも、侍たちが止められる。 二本差しの長い刀は関門で預けないと中に入れない。 堀川ができて、現在の中区地域の骨格ができ上がることになります。


つづく次のページへ


ページの先頭に戻る

Copyright © Yurindo All rights reserved.