Web版 有鄰

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有鄰

平成21年6月10日  第499号  P2

○座談会 P1   原始・古代から現代まで 『開港150周年記念 横浜 歴史と文化』 (1) (2) (3)
高村直助/斉藤司/西川武臣/平野卓治/松信裕
○特集 1 P4   藤沢のはなし 藤谷治
○特集 2 P4   横浜開港150年・有隣堂創業100年
「横浜を築いた建築家たち」 (12) 川崎鉄三
 吉田鋼市
○人と作品 P5   青木淳悟と『このあいだ東京でね』
○有鄰らいぶらりい P5   乙川優三郎:著 『闇の華たち』塩澤実信:著 『文豪おもしろ豆事典』エドガー・アラン・ポー:著 『モルグ街の殺人・黄金虫』ロバート・ホワイティング:著 『ボブさんの誰にも書けないベースボール事件簿』
○類書紹介 P6   開国・開港と横浜…150年前の横浜の人びと、社会、風景をたどる。



座談会


原始・古代から現代まで
『開港150周年記念 横浜 歴史と文化』 
(2)


 



  ◇人が住んでいた痕跡は約3万年前
 

松信

 

今、開港当初のお話をうかがったんですが、現在の横浜市域には、非常に古い時代から人が住んでいた痕跡がありますね。

平野

 
縄文時代草創期の土器  
縄文時代草創期の土器
花見山遺跡
横浜市歴史博物館蔵
 

横浜市歴史博物館は「2万年の歴史」とうたっていたんですが、今回、3万年前の横浜における最古の生活の痕跡がローム層から検証されています。

原始時代に関しては、港北ニュータウン地域の遺跡の発掘調査が長い間行われてきました。 その調査・分析をとおして、考古学的な成果が埋蔵文化財センターによって明らかになってきました。 縄文の始まりの、日本でも古手の土器が、花見山遺跡など横浜市域で発見されています。

縄文時代中期には非常に大きな集落が構成されますが、縄文から弥生時代に移る時、横浜市域では遺跡数が非常に減ります。 港北ニュータウン地域の中にある華蔵台[けしょうだい]遺跡では、そういう遺跡が少なくなる時期の様子がわかります。 成立・最盛期からだんだんと衰退していく状況を、特に横浜という一つの地域の中で描くことができるのは、大きな成果だと思います。

弥生時代では、大塚・歳勝土[さいかちど]遺跡という環濠集落とお墓がセットになっている遺跡が一つだけポツンと知られていたのですが、それだけではなく、たとえば鶴見川流域における環濠集落の分布や展開の様子なども、この間の研究で明らかになってきています。


      武蔵国の範囲は古代の南北のつながりが背景に
 

松信

 

横浜の大部分は武蔵国ですが、武蔵国の中心からはかなり離れていますね。

平野

 

8世紀になりますと律令制によって全国一律的に国や郡という形で区分されていきます。

国という領域は、今の都道府県と似たイメージがあるのか、神奈川県は相模国と思われがちですが、県内では横浜と川崎市域が武蔵国に含まれています。 多摩川が国の境界になっていなくて、武蔵国が南側に伸びたような形になっている。

  三角板鋲留短甲と眉庇付冑
三角板鋲留短甲と眉庇付冑
朝光寺原1号墳
横浜市歴史博物館蔵
 

それは、古代に規定されたのではないか。 『日本書紀』に安閑[あんかん]天皇の時代、6世紀の初めに、南武蔵と北武蔵のリーダー同士の争いがあり、結果的には南武蔵が敗北した。 そのときに倭王権が介入して、負けたほうの南武蔵の中に王権の支配の拠点である屯倉[みやけ]を置きます。 それが随分後まで影響するのかなと思います。

その争いのとき、南武蔵の笠原小杵[おき]は群馬のリーダー上毛野君小熊[かみつけぬのきみ おぐま]に助けを求めるんです。 つまり、群馬と南武蔵地域には何らかのつながりがあった。 南北のつながりが古墳時代からあったと考えると、武蔵国をつくるときに、それを分断できなかった。 それで屯倉が置かれた横浜市域が必然的に武蔵国の中に区画されたと考えられます。

武蔵国自体も南北のつながりで規定されているところがあります。 近世に東海道が通り、相模から武蔵へ入るというイメージですが、古代においては都からは、北の方、つまり毛野[けぬ](群馬県)から入って南下して武蔵に入るのが正式なルートになっています。

武蔵の国府、中心地は今の府中市で、まさに多摩川と南北軸の交点に位置している。 ちょっと強引な説明の仕方かもしれませんが、そういう歴史的な背景があるのかなと考えています。

松信

 

京都からは、本州の内陸を通る東山道がメインルートでしたからね。

平野

 

横浜市域は北の方の都筑郡、東南の久良[くら](岐)郡の2つの郡が中心です。 その時代、横浜市域として飛び抜けた特色は余りみられません。

松信

 

大規模な古墳もないようですね。

平野

 

群馬県や埼玉県のような大きな前方後円墳はありません。 ただ、何らかの形での王権との結びつきを示すような遺物はみられます。 5世紀中頃の甲冑が神奈川県で唯一、出ています。 小さいながらも王権との関わりを持てるようなリーダーがいたことは確かです。 都から見て、関東地方が東国という特別な領域として認識されていくとき、横浜市域は確実に東国としての特殊性を持って展開している地域だろうと考えます。


  ◇榛名氏・師岡氏など中小武士団が登場
 

平野

 

東国の一地域として次に出てくる特色は、平安末からの騒乱期の中で兵[つわもの]から武士団へと展開し、次の権力を担っていくような階層が登場してくることだと思います。

横浜市域では、たとえば武蔵七党みたいな武士団はなかなか出てこない。 小規模な、郡やその下の郷レベルの名前を持つような小さな武士団が登場します。 最終的には鎌倉に幕府が置かれ、東国支配の拠点になりますけれども、そういう政権の中枢にはならず、外縁としての位置づけを持ち始めていく。

そういう中で全国でも唯一と考えられるのが、港北ニュータウンの西ノ谷[にしのやと]遺跡です。 そこでは、源平合戦の少し前、平安時代の末頃に、『平家物語』などに赤糸縅[あかいとおどし]の鎧を着て出てくるような、きらびやかな大鎧の材料をつくっていた工房の跡が見つかっています。 鎧は小さな鉄の板と革の板を組み合わせてつくりますが、その鉄の板を製作している。 何でわかるかというと、未製品、つくる途中の材料が出土しているんです。

こういうものを基盤に、武士政権をバックアップする地域になるのが平安時代の末頃ではないか。 そこから榛谷[はんがや]氏や師岡[もろおか]氏などの中小武士団が登場する。 彼らは頼朝に最初は反発しながらも、最終的にはつき従って、鎌倉幕府の成立を支えていく。 ところが、そういう武士団は鎌倉時代には次第につぶされていく。 その中に、今まで余り注目されなかったのですが、南区を本拠地として室町まで生き残る、横浜を代表する御家人の平子[たいらこ]氏の存在があります。


     鎌倉の後背地として六浦を金沢氏が押さえる
 

松信

 

鎌倉に幕府が置かれると、横浜市域はその後背地となる。 そこで代表されるのが金沢北条氏ですね。

平野

 
称名寺境内  
称名寺境内
 

鎌倉に権力が置かれて、いろいろなものがそこに集積されてくる。 それは鎌倉だけではなくて、後背地にも影響を与えていくのは当然のことで、物資の受入れ口として六浦が成立して、そこを金沢氏が押さえます。

鎌倉幕府や金沢北条氏が滅んだ後に、南北朝から室町初期にかけての戦乱の時期になると、横浜市域でも幾つかの合戦が行われる。 鶴見でも、鎌倉幕府の滅亡のときと、中先代の乱と2回大きな合戦がありました。 合戦は交通の要所で行われますから、後背地とは言っても重要な場所だったと思います。


     政治・軍事の拠点は小机城、経済は神奈川湊
 

松信

 

戦国時代、関東は戦乱に巻き込まれ、拠点になるのが小机城ですね。

斉藤

 

横浜を構成する久良岐・都筑・橘樹の武蔵三郡と相模の鎌倉郡の海岸部には、広い平坦地はありません。 これに対して、小机城の周りは内陸の平坦地で、峻険な崖の上に城があるので、見通しがききます。

この地点は、鶴見川が大きく屈曲しており、洪水になりやすいのですが、逆に言えば水がたまるので安定した水量が確保できる。 鶴見川の治水ができれば有効な水田地帯になる。 政治・軍事の拠点が小机で、経済の拠点が神奈川湊ですから川船が入ってきて、両者をつないでいることも考えられます。

松信

 

小机城を扇谷上杉家の太田道灌が攻め落としたり、戦国時代は小田原北条氏の支城になりますね。

小机城址  
小机城址
埋蔵文化財センター提供
 

斉藤

 

天正18年(1590年)に小田原の北条氏が滅んで、徳川家康の関東入府のとき廃城になるのですが、いったんは、小机に代官が入ります。 おそらく、慶長の早い段階まで、代官はいたと思われます。 すでにあった北条氏段階のシステムを一挙には変えず、少しずつ変えていったんでしょう。

平野

 

今回、中世は茅ヶ崎城や寺尾城などの城郭の発掘成果、横浜市域の中で発掘された中世の道路遺構などの成果も盛り込んでいます。


  ◇城がなく大名もいなかったのは江戸に近いから
 

松信

 

近世になって江戸が拠点になると、横浜市域はどういう位置づけになるのでしょう。

斉藤

 

かつては、開港前の横浜には歴史がないと言われていました。 なぜ、そう言われるのかというと、横浜には大名がおらず、城もなかったということが大きな理由だと思います。 この点が、今まで明確に説明できてないのです。 横浜の地域に城がないのは、重要でないからではなくて、江戸に近いからだと考えるべきだと思います。

江戸という町の城と城下町の規模を、大名徳川氏という観点から言えば、400万石の直轄地・天領と、400万石の旗本の領地を持つ800万石の大大名になります。 それだけに、「城付地」と呼ばれる、城に直接付属する範囲も大きいことになります。 だから、横浜市とか神奈川県の範囲ではなく、江戸を含んだ視点で見ることが必要だろうと思います。 神奈川宿、神奈川湊は江戸から大体7里ぐらいで、この、近からず遠からずの距離感が絶妙なのでしょう。

「東海道図屏風」保土ヶ谷・戸塚宿  
「東海道図屏風」保土ヶ谷・戸塚宿
横浜市歴史博物館蔵
 

横浜には神奈川、保土ヶ谷、戸塚という3つの東海道の宿場がありますが、五十三次の宿場は全部が同じレベルではなくて、メインになるところと、それをつなぐような宿場があった。 横浜で一番のメインが神奈川で、東海道と、海の道の神奈川湊の交差点、結節点になる。 海から入ってきた物資は恐らくここを通って内陸へ入っていくわけです。

その神奈川と保土ヶ谷はセットで、神奈川湊は天王町まで入り込んでいた入海にあたり、台町の下、ちょうど横浜駅あたりに船が停泊します。 そこから小舟で荷を揚げますので、神奈川宿と同じように保土ヶ谷宿へも揚げているだろうと思います。 神奈川宿と保土ヶ谷宿が神奈川湊でつながっていたということになります。


     横浜の基盤となる吉田新田は350年かけてできた
 

斉藤

 
  吉田新田概念図
吉田新田概念図
横浜市歴史博物館提供
 

もう一つのポイントは吉田新田だと思います。 開港は150年前ですが、この地域のことは、350年のスパンで考えないとわからない。 それまでは、今の日枝神社、お三の宮のところまでは海でした。 都市として発展するために必要な平坦地は、350年間かけてでき上がったんです。 関外[かんがい]と呼ばれているこの地域の新田開発は明暦2年(1656年)に始まります。

埋立には幾つか理由はあるんですが、多分、大岡川が土砂を排出するので浅くなり、それが干潟状になってきた。 そこが埋め立てられると、今度は大岡川と中村川が延びて、その部分へどんどん土砂が入っていく。 大岡川は今の野毛のほうで、割と深いので、土砂はたまらないんですが、中村川は、堀川がまだできていませんから、流れた土砂がちょうど横浜の浜の裾にぶつかってたまりやすい。

吉田新田をつくることによって、土砂がたまるところが海側に延びていった。 それで中華街のところが浅くなって埋め立てられて横浜新田になり、次に浅くなった場所が太田屋新田になるわけです。 ここが順番に埋め立てられてきているという状況が都市として発展していく前提になったんだろうと思います。


     保土ヶ谷宿の成立に関する文書を紹介
 

松信

 

今回、近世で新しく見つかったり、紹介された資料はございますか。

斉藤

 

近世では、新しく発見されたというよりも、これまであまり出なかったものを幾つか紹介することができました。

一つは、東海道保土ヶ谷宿の軽部家文書で、慶長6年(1601年)に保土ヶ谷宿が成立しますが、それに関する文書があり、今回、伝馬朱印状・御伝馬之定・定路次中駄賃之覚の3点を掲載しています。

武州金沢藩についてはここ10年ぐらいの新しい研究成果です。 亨保7年(1722年)に、陣屋が栃木から移ってきますが、これまでは、なぜ金沢に陣屋が移ってきたのか説明できていなかった。 その2年前に船改番所が下田から浦賀に移転しているので、その関連で陣屋を配置したということは、恐らく間違いないと思います。

東京湾の入り口である浦賀に対して、浦賀から見て江戸寄りの場所に軍事的な施設を配置する。 保土ヶ谷から浦賀へ行くとき、金沢のあたりがほぼ中間地点ですから、そういう意図的な配置が行われたんだろうと思います。 ですから、横浜市内で唯一本拠地を構えている武州金沢藩の存在も、陸上交通、海上交通の江戸の入り口に当たるという横浜市域の地域性の一つのあらわれ方だと思います。

松信

 

ペリー来航以前に、だんだん外国船が日本近海に出没するようになると、海防の関係で、武州金沢藩もそういう役割を担っていくわけですね。

斉藤

 

海防が日常的にある程度行われていて、そのシステムに組み込まれている。 そういう意識は当時の海岸部の村々に相当程度あったと思います。 ペリーが来てもあまりびっくりしなかったのではないでしょうか。

松信

 

「泰平の眠りをさます上喜撰[じょうきせん]」と言うけれど、準備はほとんどできていた。


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