Web版 有鄰

  『有鄰』最新号(P1) 『有鄰』バックナンバーインデックス 『有鄰』のご紹介(有隣堂出版物)

有鄰
(題字は、武者小路実篤)
有鄰の由来・論語里仁篇の中の「徳不孤、必有隣」から。 「鄰」は「隣」と同字、仲間の意味。


平成21年8月10日 第501号 P1

○特集 P1 私の森鴎外 加賀乙彦
○座談会 P2 横浜の外国人墓地 —山手・根岸・中華義荘・英連邦戦没者— (1) (2) (3)
斎藤多喜夫/伊藤泉美/樋口詩生
○人と作品 P5 真藤順丈と『RANK』
○有鄰らいぶらりい P5 向田邦子:著 『阿修羅のごとく』道尾秀介:著 『鬼の跫音』三田完:著 『櫻川イワンの恋』大河原英與:著 『山本周五郎最後の日』
○類書紹介 P6 禁煙・嫌煙・喫煙…アメリカ大陸から全世界へ広がった喫煙。 さまざまな立場から考える。


私の森鴎外

加賀乙彦
加賀乙彦氏
  加賀乙彦氏

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医学の研究に打ち込みながら文学へのあこがれが

 
  
 
森鴎外 (明治45年)
森鴎外 (明治45年)
文京区立本郷図書館
鴎外記念室所蔵
 

私が医学部の学生になったときに、一番最初にアルバイトの収入を溜めて買ったのが岩波の「鴎外全集」だった。 というのは、私は文学が好きで将来は小説家にでもなろうかとも考えていて、医学と文学の両方において活躍した「先輩」森林太郎氏を尊敬していたし、またどのようにして医学と文学の両方において生きてきたのかに関心があったからだ。 そして、全集でまず読んだのが「医事」という医学関係の文章を収録した2巻であった。 ドイツ語で書かれた論文に私はまず注目した。

鴎外がドイツで行った医学的研究は3つある。 彼は生涯、この3つの研究、「エギザクト」な学問をしたことを誇りに思っていた。 そして、日本に帰国してから研究室にもどれず、雑務と翻訳に明け暮れした陸軍省での仕事を嫌っていた。

1886年3月、鴎外はミュンヘンの衛生学のペッテンコーファー教授の指導を受けることになった。 シュワルツワルトからミュンヘンに綺麗な水の水道を設置した人として今でも住民に記憶されている人物である。

この教授の命令で最初に手掛けた研究が「ビールの利尿作用について」であった。 これはドイツの「衛生学雑誌」の1887年に掲載された。 赤ワイン、ビール、スピリッツなど、アルコール含有量の違う酒を飲み、一定時間内の排尿量をはかった。 実験は鴎外のほかに、日本人留学生の加藤照、研究所の雇員3人が、被験者となって行われた。

多種類の酒のうち、もっとも利尿作用が強かったのがビールであった。 ミュンヘンのビールのアルコール含有量は4パーセントである。 そこで鴎外は、1パーセントからアルコールの量をあげていき、ビールの利尿作用がアルコール含有量によるものであることを照明した。 鴎外の『独逸日記』によれば、「大いに諸家の喝采を博せり」とあって、評判は上々であったようだ。 今、日本ではビールのアルコール含有量は5パーセント以上のものが多いが、鴎外に言わせれば、折角の利尿作用を弱くしている日本のビールはビールではないということになるであろう。

つぎに鴎外が手掛けた研究が「ムギナデシコの精子の毒性と解毒法について」である。 ムギナデシコはドナウ河岸に生えて美しい花を咲かせるけれども、その灰色の実は毒性が強く、パンに混じると、毒パンになって中毒をおこした。 また七面鳥、鶏、鴨、牛がこの実を食べて死ぬことが多く、困りものであった。 鴎外の実験は、今の常識から言うと危険きわまりないもので、自分が毒入りパンを食べてどれだけの障害を受けるかを調べたのだ。 1886年7月26日3.5グラムの毒パンを食べた。 喉の痛みが3日続いた。 つぎに7月27日、3.9グラム入りの毒パン、頭痛と消化不良。 段々に毒を多くしていく。

ところでこの実験のさなか、6月13日にバヴァリア王ルードヴィヒ二世が湖に入水して死ぬという大事件がおこった。 侍医のグッデンという精神科医が王を助けようとして、湖に引きこまれて死んだ。 このときの様子は鴎外の小説『うたかたの記』に詳細に書かれている。 王の死と主人公の女性の死とを重ね合わせているのだ。

鴎外はワーグナー・マニアの王の死を悼んだだけでなく、王に殉死したグッデンという医師を忠臣として、漢詩を作り、王と医師とが沈んだ場所に何度も通って、死をとむらった。 『独逸日記』によれば5回以上は湖に通っている。

1887年4月に鴎外はミュンヘンを去り、ベルリンでロベルト・コッホの指導を受けて細菌学を学んだ。 彼がコッホから命令された研究は「下水道中の病原菌について」であった。 コッホは鴎外の研究室を何度も訪れて、厳密な科学的研究の手ほどきをしている。 これは整った論文として発表された。

ところで、医学の研究に打ち込みながら、夜下宿に帰ると鴎外は心の飢えを感じている。 科学だけではおのれの心は満たされない。 文学や哲学へのあこがれが生まれて、手当たり次第に文学の読書を始めた。 このあたりの次第は『妄想』(1911年*)に詳しく書かれている。


 * … 集英社文庫『舞姫』に収録。

杢太郎は鴎外を「テエベス百門の大都」として賛美

 
  

1888年9月8日に鴎外は横浜に帰国した。 彼を待っていたのはエギザクトな医学研究ではなくて、ドイツの最新の科学を日本に紹介する仕事であった。 都会改造、食物改造、仮名遣い改良、などを推進せよという陸軍の上層部の命令には、エギザクトな学問も研究室での科学も視野に入っていなかった。 彼は『舞姫』『うたかたの記』『文つかひ』という創作を発表してみたけれども、あまり評判にならず、日本の文壇が彼に要求するのは近代ヨーロッパ文学の翻訳のほうであった。

晩年の回想録『なかじきり』(1917年)には、彼の失望と悲しみが正直に書かれている。

「わたくしは医を学んで仕へた。 しかし曾て医として社会の問題に上つたことは無い」と残念がり、「わたくしの多少社会に認められたのは文士としての生涯である」と残念そうに付け加えている。 その文士としての誇りも満足のいくものではなかった。 創作よりも翻訳が多くて、自分の文学的独立性を保つことが難しいのが現状であった。

にもかかわらず、鴎外を医師として文士として尊敬していたのが、同じく、医と文とで身を立てていた斎藤茂吉(精神科医で歌人)と木下杢太郎(皮膚科医で詩人)であった。 とくに杢太郎は、鴎外を「テエベス百門の大都」として賛美していた。

  森先生はテエベス百門の大都である。 東門を入っても西門を窮め難く。 百家おのおの其一両門を視て而して他の九十八九門を残し去るのである。  

これは鴎外をエジプトの巨大な古代都市に比している。 博学で和漢洋の古典に通じ、さらにヨーロッパの新しい科学、文学、哲学に緻密な知識を持ち、医師として文士として大きな仕事をした。 とくに杢太郎は、鴎外の平静で大様な態度の裏に隠されている情熱や憤怒の存在に注目した。 杢太郎が注目した憤怒とはデーモンのことである。 『フアスチエス』という戯曲形式の作品の最後に出てくる「引廻しの人」が怒りと鬱屈で体制派の裁判官や体制追従の文士を叱りとばすが、こういう強い精神の力が鴎外の仕事を支えていたことに彼は注目する。


『空車』の自嘲を乗り越えていった歴史小説と史伝物

 
  
 
『渋江抽斎』中公文庫

『阿部一族・舞姫』新潮文庫
渋江抽斎 阿部一族・舞姫
中公文庫 新潮文庫
   

鴎外は晩年に歴史小説や史伝物を多く書いた。 『阿部一族』をはじめ一連の歴史小説はいずれも傑作であり、翻訳を主としてきたそれまでの態度をさらりと捨てて、自己独自の文学世界を書いた。

さらに『渋江抽斎』から始まった、史伝物は鴎外独自の文学世界を築きあげた。

鴎外はドイツに留学して、ヨーロッパの近代現代の文化を深く探究してきて、なお自分の行っていることに満足できずにいた。

とくに悲哀と諦念に満ちた作品『空車』(1916年)には自分の不満が象徴化されている。 空軍はクウシャまたはカラグルマとよまず、ムナグルマと読むようになっている。 それはカラグルマの軽さのない、どっしりとした重い車である。 大八車の数倍はあり、馬に挽かれている。

「此車に逢へば、徒歩の人も避ける。 騎馬の人も避ける。 貴人の馬車も避ける。 富豪の自動車も避ける。 隊伍をなした士卒も避ける。 送葬の行列も避ける。 此車の軌道を横るに会えば、電車の車掌と雖も、車を駐めて、忍んでその過ぐるを待たざることを得ない」

堂々として大きな車である。 しかしつぎの一行で鴎外は「空車」を粉砕してしまう。 「そして此車は一の空車にすぎぬのである」。 この文章には、空車を堂々たる存在として誉めあげながら、なおその車がなにも積んでいないことをからかっている。 自分がエギザクトな科学の勉強をしながら、日本においては研究室ひとつ与えられずに、ひたすらドイツの最新の医学研究の成果を報告し、自在にドイツ語を読んで文学に接しながらも、創作ではなく翻訳を注文によって手がけていかざるをえないのを、あきらめと悲哀とで描いているのだ。

その鴎外が晩年には、おのれの文学に帰ってくる。 その情熱のすざましさに私たちは驚くとともに、彼の才能の晩年の開花に喝采したいのである。

ところで、鴎外独自の歴史小説と史伝物を書くときに、鴎外が大切にしていた心得がある。

『歴史其儘と歴史離れ』(1915年)で彼は自分の小説創作の方法をうまく要約している。

  わたくしは史料を調べて見て、其中に窺はれる「自然」を尊重する念を発した。 そしてそれを猥に変更するのが厭になつた。 これが一つである。 わたくしは又現存の人が自家の生活をありの儘に書くのを見て、現在がありの儘に書いて好いなら、過去も書いて好い筈だと思った。 これが二つである。  

森鴎外は、医学者として若いときの人生を出発した。 そのときに科学においては想像やごまかしは一切だめで、ただ正確に対象を研究することがもっとも大切だと知った。 その後文学に心を傾けても、翻訳においては正確な文章を心掛けた。 晩年に歴史小説と史伝物を書いたときには、「自然」を変更するのではなく、それを正確に写すことに心掛けた。 彼がファンタジーを主とする小説家にならず、正確に対象を描き出すように心掛けたのは、彼が医学で学んだ正確さが、晩年に復活したからだと私は思う。 そして『空車』の自嘲を乗り越えていったのが、歴史小説と史伝物であったと考えるのである。



加賀乙彦 (かが おとひこ)
1929年東京生まれ。 小説家・精神科医。
著書『雲の都』 新潮社 (1) 2,100円(5%税込)(2) 2,520円(5%税込)(3) 2,415円(5%税込)、『鴎外と茂吉』 潮出版社 1,260円(5%税込)、ほか多数。

 

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