Web版 有鄰

560平成31年1月1日発行

「江島詣」(えのしまもうで)の魅力~信心半分と遊山 – 2面

鈴木良明

「江島詣」と江戸期の出版文化

弁天さまは、七福神のひとりとして福財・技芸・寿命など多様な利益があると信じられ、今でもたいへん親しみある尊格である。

相州江島は弁財天を祀る我が国で屈指の霊所で聞こえた。この島に祀られる弁財天への参詣行為をさして「江島詣」といった。江島弁財天へ人々が参詣していたのは『吾妻鏡』などに見られるので古くからあったのだが、「江島詣」という語の定着したのはそう古いことではない。

社寺参詣の盛んとなった江戸時代、出版界は諸国の社寺や霊地へ誘う出版物を多種刊行した。需要と供給の関係のうえで成り立つ出版物であるから、人々の旺盛な参詣行動が社会現象化していたと看てとれる。

江戸時代、「往来物」とよばれる本が多刊された。往来物は手紙文を基本にした構成で諸事を簡潔に解説した。これらは寺子屋の教科書にも利用されたといわれるように、分かりやすい内容となっていたため好評であったが、このうち出発地からの道中や目的地での見所といった視点にたって編述された出版物も人気が出た。その書名に「〇〇詣」と冠された。 

これらの多くは江戸での出版である。江戸の近辺はもちろん、やや遠方にある著名な社寺や霊地・名所地などをターゲットに、その道程や名所古跡の由来などを紹介する内容だが、いずれも江戸を起点にした記述構成となっているので、おのずと利用者層が知れよう。

因みに、「矢口詣」「池上詣」「成田詣」「筑波詣」「鹿島詣」「身延詣」「榛名詣」「日光まうで」「大山廻富士詣」「鎌倉詣」など枚挙に暇ないほどの刊行があった。いうまでもなく「江島詣」が含まれていた。これらの版行期をみてみると寛政から文化・文政といった時期に流行のあったことが見て取れる。「江島詣」がこの頃にブランドを得て定着したといってよいだろう。

都市江戸での江島弁財天人気と開帳

出開帳時の引き札
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出開帳時の引き札
「江之島大弁財天開帳御着の図」
藤沢市藤澤浮世絵館所蔵

江戸時代の江島には、岩屋(本宮)、上之宮、下之宮の三社に弁財天が祀られていた。各社には岩本院、上之坊、下之坊という別当がいて各々で祭祀を勤め御開帳もおこなっていた。

江戸の町名主斎藤月岑(さいとうげっしん)の『武江年表』は、徳川家康の関東移封から明治初期ころまで、江戸中はじめ近隣の出来事、情報を編年体でまとめたもの。本書には御開帳の開催情報が多く採録されるが、なかでも江島弁財天の開帳記事が注意深く留められていて興味深い。

寛延2年己巳(1749年)「江の島弁才天本社にて開帳あり。江戸より参詣の輩多し」を初出とし、以降安政4年丁巳(1857年)まで、計16回の江島での開帳記事が見える。『武江年表』に記載の漏れた開帳もあるようだが、江島では6年目毎(巳年と亥年)に三社が順番に100日間(ほぼ初春から)の開帳とし、また61年目毎の己巳年には三社惣開帳をおこなうルールであったと分かる。これら開帳を自坊でおこなうことから「居付(いつき)開帳」(居開帳)といった。月岑はこれら江島での居開帳に関し悉く「江戸より参詣の輩多し」と注記し、江島弁財天がいかに江戸の人々に支持されていたかを述べる。とくに惣開帳に当たった文化6年己巳(1809年)は、「江戸よりの参詣夥(おびただ)し、江戸にても所々弁才天開帳あり」とあり、江戸市中での弁財天開帳が江島の開帳と連動しているとも見える記し方で、月岑には異常な高まりと映ったようだ。とにかく江島弁財天は江戸の人々にもてはやされた。

いっぽう、文政2年(1819年)と安政3年(1856年)に江戸深川八幡境内(永代寺)を借りて本宮岩屋の弁財天像が出開帳された。出開帳は寺社の修復などで臨時に費用が必要な時、都市などで尊像や霊宝を開帳して衆人から喜捨を募った。全国の寺社が競って江戸での出開帳を画策したのはこのためである。江島でも江戸における江島弁財天の支持者らがいたからこそ、それらの喜捨に期待したわけである。 

ともあれ、江島の御開帳が6年目ごとに定期的に開催されるとなれば、参詣人たちにとっては参詣の計画化が図れた。この時代の参詣行為は団体行動が主流であればなおさらである。

「江島詣」は誰しもが気軽に行ける小さな旅

・江の島は名残を惜しむ旅でなし
・江の島へ日着け親父の自慢なり
・江の島を見て来た娘自慢をし

江戸の川柳である。江戸から至近な旅、しかも女性でも容易に行ける江島であることを象徴した句である。

江島弁財天の御開帳は6年ごとであれ4月から7月までの100日間が定着していた。御開帳は日頃帳(とばり)を閉じ秘していた尊像に直接参拝できる絶好の機会。とすれば、参詣者はこの期間に江島を目指す筈である。

江島は江戸から近い。数泊を要すれば十分な所だ。江戸方面から東海道を上れば、藤沢宿あたりから「ゑのしま道」の道標に導かれつつ容易に「江島詣」ができた。道標は、杉山検校が江島弁財天の参籠による霊験で得た管鍼術(かんしんじゅつ)で将軍の宿病を治し出世・厚遇にあずかったため、その奉賽として各所に建てたといわれ48基あったという。検校は視覚に障害をもっていたがその信仰を受け継いだ人たちの参詣が後を絶たなかったのも道中の安易さによろう。

相模湾で捕れる魚介は豊かであった。鎌倉あたりで捕れた「初鰹」は初夏の味わいで江戸人には珍重されていたようだが、これらが江島での食膳に上った。食は旅の楽しみのひとつであることは今も変わらない魅力である。

「江島詣」に「大山詣(おおやままいり)」、そして「名所巡覧」 

江島と大山は指呼の間である。両所を巡拝する人々も多かった。「江島詣」と「大山詣」の盛んな時期の重なる期間がある。相模大山の例祭は6月27日より7月17日までの20日間が慣わし。この期間が山頂の石尊社に登拝する「大山詣」の隆盛期だが、大山への往復路に江島へ参詣する人々も多かったので、藤沢宿と江島が賑わいを見せた。

ところで、大山詣と江島詣では参詣マナーに違いがあった。実は大山は例祭の期間中は勿論だが、平日も「女人は禁ぜり」と厳格な山内への立ち入り規制があった。これに対し江島は女性の参詣に対し何ら規制はない。つまり江島へは、女だけで、また男女連れだって「江島詣」のできる楽しみがあった。もっとも巷間では、江島の弁財天さまは女神であるので、男女連れでの参詣は女神から嫉妬を受けるので男のみで参るのだと、男たちの都合の良い解釈もあったようだが…。いずれにせよ前句が示すように江島は女性に人気あるスポットであったことは確かだ。

こうして見てくると「江島詣」は誰しもが気軽に楽しむことのできる世界と映る。東海道の宿駅に近く、風光明媚にして食材の豊さ、弁財天の御利益と数々の霊跡、磯遊び、女性の受け入れ等など…。加えれば近隣に古跡豊かな鎌倉や名に負う金沢八景の巡覧もできた。人々は弁財天に信心を籠めるとともに付随した旅の楽しさを味わった。今風にいえば、地域を丸ごと楽しめる「ジオパーク」の重要な構成要素が江島であったといえようか。

…………

しかしこうした「江島詣」の隆盛には反面で受け入れ側の懸命な努力もあった。

近刊予定の『江島詣―弁財天信仰のかたち』では、江島弁財天信仰の淵源から「江島詣」の隆盛がどのような歴史的な経緯の中で育まれていったのか、また三社弁財天を管理する別当と島民、周辺の地域を巻きこんでくり返される争論の根底にあった社会や制度などを見つめつつ、「江島詣」の実態や文化的な影響などを紹介したいと思っている。 

鈴木良明(すずき よしあき)

1946年神奈川県生まれ。鎌倉国宝館館長。著書『近世仏教と勧化』岩田書院 7,900円+税。

 

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