辻堂ゆめ
高校1年生の2月。私は中国人の友人とともに、辻堂海岸の砂浜に立っていた。平日だから、人はまばらだった。普通の高校生は、学校に行っている時間だ。
その頃、私は父の仕事でアメリカに住んでいた。高校2年生の4月から日本への帰国が決まったため、公立高校への編入準備をしに、一時帰国したのだった。
アメリカの学校には、2月下旬に9日間の冬期休暇がある。せっかくだから、現地校で一番仲良くしていた中国人の友人を日本に連れていこうということになった。当時国籍の関係で取得が難しかった旅行ビザを苦労して手に入れ、彼女は母と私とともに日本へとやってきた。彼女にとって、初めての日本訪問だった。
辻堂海岸へは、祖父の家から歩いていける。砂浜に辿りついた私たちは、いつものように英語で会話しながら冬の海を眺めた。
何も、最初から海に行く予定にしていたわけではない。他の日は浅草や原宿など都内の観光地を回っていたのだが、その日は関内にある神奈川県転編入学センターで手続きをしなければならず、スケジュールを丸1日空けていたのだ。中華街でゆっくりお昼を食べてから祖父の家に戻ってきたが、まだ日が暮れるまでには時間があった。じゃあ海にでもいこうか、と私たちはふたりで家を出た。
次々と打ち寄せる波を見ても、それほど感慨はわかなかった。アメリカに4年間行っていたとはいえ、湘南の海と江の島は、私にとっては小学生の頃からよく見慣れた風景だったからだ。
しかし友人は違った。冷たい風を身体いっぱいに受け、目を大きく見開きながら水平線の方向を眺めていた。その様子を見て、ふと気づいた。
「海を見るのって、何回目?」
尋ねると、彼女は少し考えてから答えた。
「たぶん、3回目」
彼女は、私と同じく12歳でアメリカ東海岸へと渡った。出身地は、中国の北部。昔、長安の都があった場所だと言っていた。北京から内陸に向けて電車で10時間ほど走ったところだという。海から遠く離れたところで、彼女は育った。
「人生3回目の海はどう?」
「やっぱりいいね」
彼女は気持ちよさそうに呟いた。その言葉を聞いて、なんとなく誇らしくなった。
おそらく、彼女が見た1回目や2回目の海は、ニューヨークの海だったのではないかと思う。自由の女神が建つ島の周りを取り囲む、高層ビルに囲まれた狭い海だ。
中国人の彼女の目に、湘南の海はどう映っただろうか。
ふたりとも英語の語彙が少ないから、その感情を言い表すことはできなかった。
だがきっと、彼女の心にはその光景が刻まれたはずだ。そしてもちろん、私の心にも。
(小説家)