Web版 有鄰

530平成26年1月1日発行

「命」をいただく「食」 – 2面

青江覚峰

アメリカの市場で目にした牛たんの姿に衝撃

――「うちはきちんと給食費を払っているので、「いただきます」と学校で言わせないで下さい」。こんな親がいるのでめんくらってしまった――

こんな話がラジオで放送され物議を醸したというのは、何年ほど前だったでしょうか。今ではさすがに、ここまで呆けた親はいないでしょう。この放送がきっかけとなったかどうかはわかりませんが、最近では食育ということもさかんに言われるようになりました。大人も子どもも食べ物の大切さ、命の尊さを教わる機会は確実に増えています。食べ物はどれも、もとをたどれば生き物の命。それをいただいて食べるのだから、決して粗末にせず感謝しなければいけないということは、誰でも知っています。しかし、それを知識として頭に入れておくだけではなく、「まさにそのとおり」と心で感じられる機会は、残念ながら多くありません。


食材と向き合い、調理を行う筆者

料理僧として食を通じて仏教を伝えるという活動をしているわたしも、「命をいただく」ということを実感できるようになったのは、それほど遠い話ではありません。きっかけは、僧侶になる以前、3年ほどアメリカで暮らしていた頃の出来事です。

ある日、日本から訪ねてきた客人を饗すため、リクエストされた食材を探しにアジアンマーケットを訪れました。アメリカでは珍しい日本ならではの野菜もたくさん並べられており、中華食材やエスニック料理の食材も豊富に揃っています。ちょっとした食のテーマパークのような光景で、とても興味深く眺めながら店の奥のほうまで歩いて行きました。そこで、牛たんが目に入りました。

その姿に、わたしは大変な衝撃を受けました。日本の焼き肉屋さんで出てくるような、薄く小さくカットされたものではありません。重さ1キログラムほどもある牛の舌ベロが、付け根から切り落とされたかたまりのまま、バットにのせられていたのです。

牛ですから味蕾の一つ一つも大きく、その生々しいかたちに動揺したことをよく覚えています。

牛たんが牛の舌ベロだということは、以前から知識として持っていました。焼き肉屋さんで薄くスライスされたものを見ても、本当はもっと大きなかたまりなのだということも、頭ではわかっていました。

けれど、全然わかっていなかったのです。アメリカのアジアンマーケットで、牛の舌ベロのかたまりを見て初めて気づいたのです。それまで自分が実に何気なく食べていた牛たんが、生きて、動いてる牛が殺されて、切り刻まれて出てきたものだということが、やっとわかったのです。「命をいただく」ということの真実が、まさに腑に落ちた瞬間でした。

この経験はわたしにとってとても大きな出来事で、その光景は、以来ずっと頭の片隅にあります。わたし達は生きているものを殺して、食べて、そうしてしか生きられないのです。それを頭で理解するのと心で実感するのとでは、大きな隔たりがあります。帰国した後も、わたしは「命」と「食べる」ということについて真剣に考えたい、他の人達にも考えてほしいと願い、今こうして料理僧として活動しています。

しかしながらそのようなショッキングな経験がなくとも、「命をいただく」ことの本質に気づくことはできます。

一杯の味噌汁に命と人々の働きを思い感謝

多くのお坊さんが読むお経に「五観の偈」というものがあります。その最初の行には、このように書かれています。

――功の多少を計り彼の来処を量る――

「この食事がどのようにしてできたかを考え、食事が調うまでの多くの人々の働きに感謝をする」という意味です。これをしっかり考えるには、想像力が求められます。

例えば、ここに一杯の味噌汁があるとしましょう。そして、その味噌汁は何からできているかを想像します。まず、味噌です。味噌は大豆でできています。大豆は畑でつくられます。畑には土と水と太陽、そしてたくさんの微生物や小動物の力があります。さらに人間の力も加わります。畑を耕し大豆を育て栽培する人、大豆から味噌をつくる人、味噌を製品にする人、流通させる人、売る人、買う人。そして、味噌汁をつくる人。その人に味噌汁のつくり方を教えた人。味噌汁には具が入っているでしょう。その具材の一つ一つにも同じように由来があります。


飛龍頭椀(ひりゅうずわん)
料理中に出た切れ端や皮なども刻み込む。

目の前にある、たった一杯の味噌汁。それはおびただしい数の生き物の命と、数え切れないほどの人の働きとによってつくられています。

そのようなことに思いを寄せることなくただ飲み干してしまえば、それまでのことです。おいしい、おいしくないという程度のことの他には、心に何かが残ろうはずもありません。しかし、功の多少を計り彼の来処を量っていただけば、自分がその味噌汁をいただく縁の不思議を畏れ、尽きぬ感謝を思うことになるでしょう。もはやその味わいに、おいしい、おいしくないなどという自分勝手な都合を押し付けることもありません。

わたし達がいただく食べ物は命そのものです。命に軽重はありません。あるのは違いです。曹洞宗の開祖・道元禅師の記した『典座教訓』には、このような一文があります。――いわゆる醍醐味を調うるも、いまだ必ずしも上となさず。苒菜羹を調うるも、いまだ必ずしも下となさず――

「どんなご馳走であってもそれが上等なのではなく、菜っ葉でつくった質素な料理であっても下等ということはない」という意味です。

「命をいただく」ということの真実に気づくことができたなら、どんなものでも虚静恬淡、謙虚な気持ちでいただくことができるでしょう。

食べることの根本にあるのは命と命のやりとり

浄土真宗の敬虔な門徒(檀家・信者)である金子みすゞさんのあまりにも有名なこの詩にも、前述の一文に通ずる世界観が描かれています。

大漁

朝焼小焼だ
大漁だ
大羽鰮の
大漁だ。
浜は祭りの
ようだけど
海のなかでは
何万の
鰮のとむらい
するだろう。

大漁に湧く浜の人々の賑とは裏腹に、根こそぎ仲間をさらわれ生の気配を失った水の中、わずかに残された鰯の物言わぬ眼差しが痛いように胸に迫る名作です。命に優劣などないことが、改めて思い起こされます。食卓にのぼる一飯に込めらた命の大きさを思わず、ただ貪るように食べるのは実に浅はかなことです。他者の命をいただくことで生き長らえるのが人間です。自分たちが当たり前のように奪う命によって生かされているのが人間なのです。

冒頭で紹介した、子どもに「いただきます」をさせないでほしいと訴える母親は、食べ物をお金(給食費)と交換しているのだと考えているのではないかと感じます。しかし、それはものを食べる手段の、ごく表面的な一部分でしかありません。人間が食べ物と交換しているのは、わたし達自らの健康であり、命です。食べるということの根本にあるのは、命と命のやりとりなのです。

そして、そのようにして食べ物をいただくわたし達もまた、同じ尊い命です。畑でできる大豆も人間も、海に生きる鰯も、塩や砂糖でさえも、海と大地に紡がれる永い命の営みの一部なのだということに思いを馳せ、深い感謝のうちに日々を送りたいものです。

青江覚峰  (あおえかくほう)

1977年東京生まれ。
浄土真宗東本願寺派緑泉寺住職。著書『お寺ごはん』ディスカヴァー・トゥエンティワン 1,100円+税、『料理僧が教えるほとけごはん』 中公新書ラクレ 840円+税。

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