Web版 有鄰

543平成28年3月10日発行

大橋鎭子と暮しの手帖 – 1面

小榑雅章

「とと姉ちゃん」主人公のモデルは暮しの手帖社創業者

4月からのNHKの朝ドラ「とと姉ちゃん」の主人公のモデルが、暮しの手帖社の創業者の大橋鎭子さんだというので、あらためて『暮しの手帖』が注目されている、と聞きました。暮しの手帖社の卒業生の1人としてうれしい限りです。「とと姉ちゃん」の「とと」は父親のこと、早くに亡くなった父親の代りに、母親と2人の妹を幸せにするためにがんばる「お父さんみたいな姉ちゃん」という意味です。大橋鎭子さんは、大橋家だけでなく、じつは暮しの手帖社にとっても「とと姉ちゃん」的な存在だったのではないかと、私は思っているのです。女学生の時も、戦後、花森安治という希代の編集者と出会って『暮しの手帖』を創刊してからも、ずっと体当たりで、不可能といわれたことに挑戦し続けてきた、とにかくバイタリティの塊のような大橋鎭子という女性の生き方を、朝ドラはどんなふうに描いてくれるのか、とても楽しみです。

左より大橋鎭子、筆者、井深大
左より大橋鎭子、筆者、井深大
『暮らしの手帖』1世紀80号(昭和40年7月)

私は1世紀(100号で1世紀)の54号から2世紀の89号まで、24年間、『暮しの手帖』編集部におりました。その間、大橋鎭子さんとずっと一緒でした。同じく創業者で編集長の花森安治さんは、2世紀52号の時に亡くなられたので、18年間、薫陶を受けました。

鎭子さん、と、つい言ってしまいますが、暮しの手帖社では社長も部長も編集長も、全員肩書では呼びませんでした。大橋鎭子さんは、社長ですが、みんな鎭子さんと呼びます。花森さんも編集長とは呼ばず、花森さんです。暮しの手帖社は、呼び方だけでなく、基本的にみな平等です。社長というのは奥まった部屋に、どっかり座っているのが当たり前だと思っていましたが、『暮しの手帖』では一番偉い花森さんがいちばん働きます。つぎが鎭子さんです。つらいこと、しんどいことは、常に花森さんと鎭子さんが先頭に立って行います。鎭子さんは、ずっと独身でした。よく、鎭子さんは“暮しの手帖”と結婚をした、と言われていますが、私が“暮しの手帖”という亭主だったら、こんなに四六時中べったりされたら、とてもたまらんと、逃げ出すでしょう。鎭子さんは祭日も日曜も出勤していました。『暮しの手帖』本誌の編集の仕事だけでなく、別冊や単行本の仕事は、休日の方がはかどると言っていましたし、人に会うのも、休日の方が気兼ねなく、好きにできるようでした。だから、“暮しの手帖”は結婚相手ではなく、自分自身だったのだと、私は思っています。

花森さんは、天才です。発想法も、編集者としても、取材も文章も写真もすべて超一流です。表紙も挿絵もレイアウトも、すべて花森さんがやっていました。『暮しの手帖』のすべては花森さんの手になると言っても、過言ではありません。しかし、花森さん1人では、『暮しの手帖』は発行されません。取材もテストも撮影も料理も、たくさんの編集部のみんなの支えがあって出来上がってくるのです。特に、鎭子さんがいないと、会社は回りません。花森さんは天才ですが、同時に気ままです。たまに気が入らなくなると、仕事をやめてしまいます。それをなだめすかして仕事をしてもらうようにさせるのは、鎭子さんしかできません。花森さんは、対外的な付き合いや煩雑な用事は、すべて鎭子さんに任せています。だからこそ、花森さんは心置きなく、雑誌作りに専念できたのです。だから、鎭子さんは暮しの手帖社でも、「とと姉ちゃん」だったというのです。

厳しくも家庭のようだった編集部

私たちは、入社したとき、鎭子さんから「『暮しの手帖』編集部員になったからには、親の死に目に会えないと覚悟してください。なによりも締め切りが重要なので、そのためには、家庭の都合よりも何よりも、仕事が最優先です。花森さんもお父さんの死に目にあえなかったのですからね。それから暮しの手帖社には盆も夏休みも正月もありません。大晦日まで働きます。テストの関係で、お正月も出勤する人もいます。わかりましたね」と言い渡され、こりゃえらいところに入ったな。たいへんだと思ったのですが、もう逃げられません。じっさい仕事はその通り、たいへんでした。(でも、日曜祭日、正月は、ほとんど休みました)たいへんでしたが、暮しの手帖社は、いわゆる雑誌社ではありません。暮しの手帖社は、「この国の人々の暮しを少しでもよくするための運動体」だと、かねがね花森さんから、教えられていました。夕方5時か6時になったら、お先に、と帰れるような職場ではない、と明言されていたのです。

鎭子さんは、編集部員はみな家族の一員だと思っていました。だから、部員本人はもとより、その家族が病気になったりすると、誰よりも親身になり、心から心配してくれたのです。私ごとですが、入社して3年目に母親が倒れました。その時も、鎭子さんは母親のためにハイヤーを用意して、一緒に付き添って大学病院に連れて行き、えらい教授の先生に診察を受けさせてくれました。入院の手筈もすべて鎭子さんがやってくれて、私はウロウロしていただけでした。その後も、私がいないときに、何度も見舞いに足を運んでくれて、本当に親身に面倒を見てくれました。鎭子さんにとって、編集部は、会社というより家庭だったのです。

終戦後、雑誌づくりに込めた思い

去年は戦後70年という節目でした。昭和20年8月15日終戦の日。その年に、鎭子さんと花森さんは出会っています。そして翌年の昭和21年に、鎭子さんが花森さんに、女の人のための雑誌を作りたい、と相談しました。その時、花森さんがこういう条件を話したのでした。

もう二度とこんな恐ろしい戦争をしないような世の中にしていくための雑誌を作りたい。そのためには、国民の暮しこそが最も大事、という国にしなければならない。そういうための雑誌なら、一緒につくろう。

もちろん鎭子さんも大賛成でした。そして昭和23年に『美しい暮しの手帖』(現『暮しの手帖』)を創刊します。まったくの無名で、資金もなく、コネもなく、簡単には売れません。鎭子さんたちは、創刊号をリュックサックに詰めて、東海道線を一駅ずつ下車して、書店を捜し、無理に頼み込んで置いてもらいました。でも、いい顔をしてくれる書店は少なく、泣きたくなるような毎日が続きました。全く無名な雑誌でも、その雑誌に高名な作家が何人も書いていれば、読者は買って読もうと思ってくれる。花森さんは、当時、最も有名で、人々が読みたいと思うような著名な先生の名をあげ、原稿の執筆をお願いしてきなさい、と鎭子さんたちに指示をしました。そういう高名な先生たちは、あちこちから原稿を依頼されていて、手一杯です。当然、無名の、聞いたことのない暮しの手帖社などという小さな出版社からの原稿依頼など、受けてくれるはずもありません。何回足を運んでも玄関払いです。しかし、花森さんは、絶対書いてもらってこい、と許してはくれません。

こんな時にこそ鎭子さんです。鎭子さんは、へこたれません。絶対にあきらめないのです。大先生たちは、鎭子さんたちの熱意で、つぎつぎに執筆してくれたのでした。創刊号をみると、川端康成、佐多稲子、土岐善麿、田宮虎彦、森田たま、小堀杏奴などといったそうそうたるメンバーが並んでいます。第3号には、幸田文、壺井榮、高見順、坪田譲治、鏑木清方、北畠八穂、天野貞祐、柳田國男、花柳章太郎…とにかく、時の名だたる著名人や流行作家の先生方に、鎭子さんはあきらめない根性で体当たりし、執筆していただきました。

少しずつ、すごい執筆陣だ、いままでにない婦人誌だ、しゃれたセンスの雑誌だとか評判になっていきました。部数も増えていますが、もう一つ大きな伸びが足りません。そんな時に、「庶民は、配給だけで、ひもじいがまんの暮しだけれど、皇室はきっとみんなたらふく食べているのだろう、寒い時も暖炉かなんかでぬくぬくしているのだろう、と世間では噂しているが、ほんとうに、そうだろうか」という話になりました。皇室のだれかに書いてもらえないか。でも、それはとても無理だな、とみんな思いました。皇室と言えば、なにしろ、ついこの間まで、人間ではなく、神のように敬われていたのです。近寄ることさえできるとは思えません。しかし、鎭子さんはちがいました。昭和天皇の第一皇女であった照宮さまが嫁がれて後、臣籍降下して、東久邇成子さんになり、麻布に住んでいることが分かりました。そして、勇を鼓して、麻布の東久邇家に突撃したのです。成子さんに直接お目にかかり、日常の暮しをありのままに書いていただけないでしょうか、とお願いしたのです。(この辺のことについては、大橋鎭子著『「暮しの手帖」とわたし』に詳しく書かれています。)そして、みごと原稿を書いていただいたのです。それが5号に掲載された「やりくりの記」でした。押入れもないところに、家族4人が暮している。食べるものは、配給と焼跡を耕して作った畑の野菜だけ。ひもじい毎日。着るものは、お古をつくろって着せている…。なんと、天皇の第一皇女の一家が、まさにわれわれ庶民と同じように、やりくりに明け暮れる毎日だということが、綴られていました。国民はおどろきました。そして、成子さんが最後に書いている「日本中みんな苦しいのだから、此の苦しさにたえてゆけば、きつと道はひらけると思うと、やりくり暮しのこの苦労のかげに、はじめて人間らしいしみじみとした、喜びを味う事が出来るのである」という文章に、多くの国民が元気づけられたのでした。この東久邇成子さんの「やりくりの記」は大きな反響を呼び、部数も伸びて、『暮しの手帖』を元気づけ、大きく発展していくきっかけをつくってくれたのでした。鎭子さんの大功績でした。

小榑雅章
小榑雅章 (こぐれ まさあき)

1937年東京生まれ。著書『「良心ある企業」の見わけ方』宝島社 743円+税。

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