雨宮ゆか
縁あって、北鎌倉の東慶寺で、挿し花の教室をさせていただいている。花の寺として知られる東慶寺は、四季折々に咲く花が訪れる人の目を楽しませてくれる。私も、自然にまかせたように咲く姿を見るのが楽しみだ。何より環境がいい。山に囲まれるお寺のかたすみにいると、緑の懐に抱かれているようで、ともすると、仕事も忘れてぼうっとしてしまう。
しばらくぶりに通うようになった鎌倉だが、ふとした風景に、懐かしさを覚えることがある。お寺の裏手の崖だったり、近くの水路脇の草が生える土手だったりするのだが、おもな理由は、切り通しにあるのだった。切り通しといえば、鎌倉七口のような古道だが、私の場合、車も通れるようになっている道のことである。鎌倉へ近づくにつれ、谷が迫り、道幅が狭くなる。その先に切り通しはある。新しい道路のように、コンクリートの擁壁で固められていることはなく、岩肌のままか、石を組み上げて土留めにしているのが特徴だ。頭上にさしかかるように木々が枝を広げ、日陰では、常緑の草が緑濃い葉を茂らせている。春にはもやもやと萌える新芽がきれいだし、夏はひんやりする木陰が気持ちいい。秋には紅葉する葉の間に、ちらっと赤い実が見えることもある。昨今、帰化植物ばかりが目立つなかで、今も昔からの植生が残るところといえるだろう。
横浜の、谷が折り重なるような住宅地に生まれ育った私がよく歩いたのが、こういった道だった。なかでも祖母の家や、買い物に行くときに通る道は、家族のものにはたんに「切り通し」と呼ばれていた。横浜の中心部からあまり遠くないうえ、国道へ出る交通量の多い四車線の道路だったが、昭和4、50年代にはまだのんびりしたもので、緑もけっこう残っていたと記憶している。切り通しにさしかかる低い土手は、春にはタンポポやシロツメクサがいちめんに咲いて、草遊びには格好の場所。そこから先は、大きな石を組み上げて固めた崖が、急角度で立ち上がる。石の隙間からは、清水がちょろちょろ湧き出て、ほじると沢蟹が出てくる。石にぺたっとはりついた苔は、雨に濡れるとこんもりふくらみ、つやつやと光って、撫でてみたいのだった。谷に挟まれた地形は、暗くなるのも早い。昼間は足を止めたくなる道も、夕暮れが迫ると、突然怖いものに変貌する。そんなときにおつかいを頼まれると、通るのがいやで駆け抜けるのが常だった。そのくせに、向こう側に行けばいいことが待っている、と思っていたのも事実である。上りで始まった道は大きくカーブし、下りに入ると視界が開ける。その先には人が行き来する駅があり、初めて1人でお小遣いを持って買いに行った書店があった。幼いものには遠い地への、そして大人への出発点でもあったのだと思う。
あの道を思い出しつつ、今日も切り通しを抜けて、鎌倉へ向かう。そして相変わらず、先には自分を待ち受けている何かがあると、期待に胸をふくらませてしまうのである。
(挿花家)