Web版 有鄰

524平成25年1月3日発行

お八重さんと私 – 1面

中村彰彦

会津戊辰戦争で男装して鶴ヶ城に籠城

会津藩士の娘山本八重は、会津藩が名城鶴ヶ城に籠城を開始した慶応四年(1868)8月23日、女だてらに男装し、7連発のスペンサー銃をつかんでその籠城戦に参加した女性として知られる。

新島八重

新島八重
1889年撮影 同志社大学提供

9月8日の明治改元をはさみ、9月22日に至って会津藩は開城降伏。その後、全会津藩士は謹慎所送りとなったものの女たちは立ちのき自由とされたため、「お八重さん」と呼ばれていたこの女性は兄覚馬が生存しているとわかった京へおもむき、同志社大学の創設者新島襄と結婚して新島八重となった。

この女性について語るならば、死者の累計が3000人以上に達した会津戊辰戦争中の動きを第1部、上京して洗礼を受けてからの後半生を第2部として述べてゆく必要がある。そのため、昨年11月に出版した歴史エッセイ集『幕末会津の女たち、男たち』(文藝春秋)の中でも、お八重さんについて語った章は「山本八重よ銃をとれ 幕末篇」「同 明治篇」としておいた。お八重さんと私のつきあいはかなり古く、まだ文藝春秋に勤務する編集者だった昭和59年(1984)、中村彰彦編著として出版した『明治を駆けぬけた女たち』(ダイナミックセラーズ)に、清野真智子さん(故人)に頼んで「山本八重」三十余枚を書いてもらったのがそのスタートであった。福島出身の清野さんは執筆を快諾して下さり、すぐに図書館へ行ってお八重さんの戊辰戦争回想録「男装して会津城に入りたる当時の苦心」(『婦人世界』明治42年〈1909〉11月号)のコピーを取り、私にも一部をプレゼントしてくれた。

幕末動乱の時代を生きぬいた女性の回想録は貴重なものなので、それから28年間そのコピーは私のスクラップ・ブックに収められ、時に取り出されては歴史小説や歴史エッセイの史料として使われてきた。

その間には、お八重さんを介して不思議な出会いも起こった。それは昭和の末に新選組の会津周辺での足跡をたどるツアーに参加したとき、ガイド役をつとめて下さった会津一の郷土史家宮崎十三八さんと知り合ったことだった。その後、次第に交際を深めるうちに、十三八さんがいった。「私の家は、昔は山本八重の住居だった土地でしてね。今度、同志社大学が記念碑を建てさせてほしいといってきたので、少し塀をずらして土地を提供することにしました」

目下の会津若松市は、今年のNHK大河ドラマがお八重さんを主人公とする「八重の桜」に決まったというので観光客で大にぎわいとなりつつある。昨年11月22、23の両日、講演のため会津入りしてお八重さんの入城した鶴ヶ城西出丸と旧山本邸の間の道を通ると、その旧山本邸の方角を示す大きな案内板が出ていたので私は感慨無量であった。

このことを十三八さんに見てほしかったな。私がそう思ったのは、十三八さんは親しかった司馬遼太郎さんとおなじく平成8年(1996)に亡くなられ、奥さまも老いて療養の暮らしにお入りだからだ。

開城の真実を示した八重の回想録

ただし、お八重さんとのつきあいは十三八さんの没後もつづく結果となった。それは主に平成20年(2008)2月16日、TBSテレビが放送した「歴史王グランプリ2008 まさか!の日本史雑学クイズ100連発」において、戊辰戦争の際に若松城(鶴ヶ城)に籠城した会津藩はなぜ明治維新政府軍に降伏したのか、という問題が出題され、「糞尿が城にたまり、その不衛生さから籠城者たちが城から逃げ出したため」という答えが正解とされたことによる。

同年の春の彼岸に会津を訪ねた私は、菅家一郎・会津若松市長(当時)と会食した際にこの事件を伝えられ、感想をたずねられたのでつぎのように答えた。

「それはとんでもない話で、戊辰戦争に仆れた会津藩士や開城後に『賊徒』と呼ばれる屈辱に耐えて明治の世を生きていった旧会津藩士の名誉にかかわる問題です。断固抗議して、TBSに謝罪させるべきです」

このやりとりについては、やはり昨年11月に中公文庫に収録してもらった『名将と名臣の条件』所収、「戊辰戦争と糞尿譚」と題するエッセイに詳述したが、当日、菅家市長に私が解説したことがらのうち、お八重さんにかかわるポイントを拙文から引用する。

戊辰戦争後の鶴ヶ城・会津若松市蔵

戊辰戦争後の鶴ヶ城
会津若松市蔵

「たしかに籠城戦は慶応4年(1868)8月23日から明治改元をはさんで9月22日までつづいたのだから、5000人以上に達した籠城者たちのトイレの問題がなかったわけではない」

「籠城婦人のひとり山本八重(のち新島襄夫人)は、厠に入っている時に大砲の直撃を受け、あられもない姿で死ぬことだけは嫌だと思った、と回想している」

「ただし、汚物にあふれたことと会津藩が降伏開城に踏み切ったこととは関係がない。会津藩士たちは城を逃げ出したのではなく、援軍の来る可能性が消えたため、きちんと開城降伏式をおこなって鶴ヶ城を出ている」

これを受けて、市長はTBSに抗議文を発送。TBSは当初こそ「訂正放送は単発番組のため困難」としていたが、再度訂正を求められるや4月8日の午後2時57分から約1分間の謝罪放送をおこなった。清野さんから手わたされたお八重さんの回想録が、24年目に会津若松市に勝利をもたらすのに役立った形であった。

それから今年のNHK大河ドラマが「八重の桜」と発表された一昨年までに3年間の歳月が流れたが、お八重さんに戊辰戦争回想録があることを伝えると、私とつきあいのある出版各社はまことに敏感に反応した。昨年の時間順序をたどると、つぎのようになる。

① マツノ書店は7月に復刻した平石弁蔵『会津戊辰戦争』の巻末にこれを転載。
② 実業之日本社『月刊ジェイノベル』8月号は、私の解説つきで「幕末ファン必読の回想録」として、やはりこれを転載。
③ 洋泉社のムック『歴史REAL』の「八重と会津戦争」特集号は、この回想録の要約を私の解説つきで掲載。
④ PHP文庫の担当者の依頼により、私は同文庫より11月に刊行した史論『会津武士道』の巻末に②を収録。
⑤『月刊ジェイノベル』本年1月号は、②をほかの会津女性の回想録とともに、私の解説を添えて再掲する予定。

このように書くと、私がお八重さんの回想録を使いまわしてうまい商売をしているのでは、と思われそうだが、そうではありません。
①について私はマツノ書店から一文も頂いていないし、今後も頂くつもりはない。『ジェイノベル』と『歴史REAL』の担当者にはそれぞれがほとんど同一の企画を立てつつあることを伝え、それでも構わないとの確答を受けてから解説文を寄稿しているからである。

型破りな女性の戦いとキリスト教にめざめた後半生

それにしても私は昨年11月だけで前述の『幕末会津の女たち、男たち』『会津武士道』そして『会津万葉集』(歴史春秋社)と三作もタイトルに「会津」のつく本を出すことになってしまったためか、会津史の大好きな物書き、イコールお八重さんの人生に詳しい人と、かつての宮崎十三八さんとほとんどおなじイメージで見られはじめたようだ。

テレビ、歴史雑誌その他のインタビューをいちいち受けていると原稿執筆の時間がなくなってしまうのだが、その原稿や講演の依頼にしても、「山本八重について、ぜひ」というのがやけに多くなってきて(おっと、この原稿もそうでした)、いささか困りものの昨今ではある。

しかし、なぜこんなにお八重さん人気が高まりつつあるのか、私にはわからぬでもない。これまでのドラマのヒロインは、美人と相場が決まっていた。ところがお八重さんは、連発銃も操れば大砲も撃てるという猛女であり、少女時代から四斗俵を両手に提げ、その俵を肩の上まで上げ下げできたという臼のような腰つきをした太めの女性。しかるに降伏と決まった夜、
「あすの夜はいづくの誰かながむらむなれしみそらにのこす月かげ」
の名歌を詠んだ女性でもある。

この型破りの女性の戦いとキリスト教の信仰にめざめる後半生が、はたしてどう描かれるのか。私も今年は、ひさしぶりにNHK大河ドラマを観ることにしようか。

中村彰彦氏
中村彰彦 (なかむら あきひこ)

1949年栃木市生まれ。小説家。
二つの山河』文春文庫 550円+税、『真田三代風雲録』実業之日本社 1,900円+税、ほか多数。

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