Web版 有鄰

515平成23年7月11日発行

神奈川の米軍基地 – 2面

栗田尚弥

日本最大の「軍県」から米軍の巨大な「基地県」へ

厚木飛行場に到着したマッカーサー(1945年8月30日)

厚木飛行場に到着したマッカーサー(1945年8月30日)
米国国防総省蔵

終戦まで、日本には、軍都、軍郷と言われた都市や地域があった。海軍鎮守府が置かれた呉(広島県)や佐世保(長崎県)、陸軍の師団や連隊が置かれた金沢(石川県)や善通寺(香川県)、明治建軍以来の演習場である習志野原(千葉県)など、日本各地に軍都や軍郷が存在した。

だが、神奈川県ほど多くの軍都や軍郷を抱えた府県は他にない。鎮守府と軍港の街・横須賀、海軍航空隊が置かれた大和や綾瀬(厚木飛行場)、士官学校や相模造兵廠など多数の陸軍施設が置かれた相模原、海軍火薬廠があった平塚等々、いわば神奈川県は日本最大の「軍県」であった。

1945年(昭和20)の日本の降伏後、この日本最大の「軍県」は、米軍の巨大な「基地県」となった。神奈川県内各地の軍都や軍郷には、連合国軍すなわち米軍が占領軍として進駐し、県都横浜には日本全国の連合国軍地上部隊を統括する米第八軍司令部が開設された。占領開始初期には、連合国軍最高司令官マッカーサーのオフィス(後のGHQ/SCAP、通称GHQ)や太平洋陸軍総司令部も置かれた。

1952年(昭和27)4月のサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約の発効により、米軍は「連合国軍」から「在日米軍」となり、また、1952年2月に結ばれた日米行政協定に基づき、7月から神奈川県下の基地や施設の多くは、そのまま米軍の「無期限使用」に供されることになった。同年七月二十七日付の米陸軍機関紙『アーミー・タイムズ』は、キャンプ座間を「日本防衛の中枢」と評しているが、キャンプ座間のみならず神奈川県全体が「日本防衛の中枢」、否、米極東戦略の中枢になったのである。

その後、接収解除や今日まで断続的に続いている返還により、米軍の基地や施設の規模は大分縮小されてはいるが、それでも神奈川県内には横須賀海軍施設、海軍厚木航空施設(厚木飛行場)、キャンプ座間、相模総合補給廠など14に及ぶ米軍の基地や施設(総面積2083万8000平方メートル、自衛隊との共同利用面積を含む)が存在する。この数字は、基地・施設数では、沖縄県、北海道に次いで都道府県中第3位、面積では第11位(米軍専用面積では沖縄、青森に次いで第三位)であるが、その機能と役割を考えれば神奈川県はやはり本土随一の「基地県」である。それ故、米軍の基地や施設が、そしてもちろん米軍自体が、敗戦後、今日に至るまでの神奈川県の政治や経済、社会、文化に及ぼした影響は、沖縄県ほどではないにしても、少なからざるものがある。

「解放軍」から東側陣営に対する「在日米軍」へ

占領開始当初、日本人の多くがそうであったように神奈川県の人々も、不安と恐れをもって占領軍である米軍を迎え入れた。しかし間もなく、マッカーサーやGHQ主導による「戦後改革」が開始され、神奈川県においても神奈川軍政部に主導された「民主化」が進行する。そして、人々は、左翼陣営の人々も含めて、個々の米兵による不法行為や米兵相手の「原色の街」を問題視しつつも、米軍を「解放軍」とみなし、米軍家族のライフスタイルを豊かさと民主主義の象徴ととらえるようになる。

だが、マッカーサーが喧伝する「民主主義」は、極めて原理主義的な「アメリカン・デモクラシー」であった。東西対立が激化していくにつれ、日本国民は、この「アメリカン・デモクラシー」の正体を悟らされることになる。同時に、日本国内の米軍も、日本国や日本国民に対峙する「解放軍」「占領軍」としてではなく、東側陣営に対する軍事組織、すなわち文字通りの「米軍」として日本国民に認識されるようになる。

「在日米軍」は、いわば〈自由世界の保安官〉としての役割を担うことになり、さらに神奈川県内の米軍基地や施設は、米極東戦略にとって必用不可欠な「軍事施設」として県民の前に立ち現われることになった。安保条約と日米地位協定によって、〈保安官〉の駐屯地は、占領期同様、治外法権の地となり、米兵の人権は厚く保護された。

だが、多くの神奈川県民の眼には、「在日米軍」は〈自由世界の保安官〉とは映じなかった。それは、基地公害をまき散らし、都市計画を遅らせ、異国の犯罪者を守り、さらには、東西対立という現実と東南アジアの戦場から血の臭いを運んでくる〈招かれざる客〉であった。人々は、この〈招かれざる客〉に対し、反基地運動(闘争)や反米運動(闘争)、平和運動で対抗した。これらの運動や闘争は必ずしも一枚岩的ではなかったが、そこには主権国家の国民としての、そして主権者としての、さらには人間としての自覚とプライドがあった。

皮肉なことに、この自覚とプライドの重要性を説いたのは、他ならぬマッカーサーに率いられたGHQであり、「占領軍」であった。また、米軍の存在は、結果として戦後の日本や神奈川県の経済復興に一役買うことになり、職を求める多くの人々に基地労働という職を与えた。

さらに、米軍がもたらした文化や生活様式は、戦後の日本に深く根づくこととなった。特に、横浜や湘南地域が、戦後文化、なかでもアメリカニゼーションやアメリカン・ライフスタイルの発信基地と成り得た背景を語ろうとするとき、米軍の存在を無視することはできない。

人々は、米軍に反発しつつも、米軍がもたらしたさまざまなものを受容したのである。人々は、ジーパンにTシャツ姿でロックを口ずさみ、かつてGHQによって鼓舞された主権者としての自覚とプライドをもって、米軍戦車の前に立ちはだかったのである。

米軍の中で役割が拡大する神奈川の米軍基地

今日、米軍の基地や施設を、そして米軍を、〈招かれざる客〉として見る人々はもはや少数派かもしれない。基地反対運動も、ベトナム戦争当時の戦車闘争やミッドウェイ寄港反対運動のような全県的な盛り上がりを見ることはできない。米国や米軍側も、この三月に起きた東日本大震災への「トモダチ作戦」など、頼りになる「トモダチ」としてのイメージを強く打ち出そうとしており、事実、そうとらえる人々は神奈川県内においても多くなったようだ。

基地解放日に基地や施設を訪れる人々にとって、そこは巨大なテーマパークであり、居並ぶ軍艦や航空機は、兵器と言うよりも構造美のかたまりである。横須賀のバーでは、若い米兵と日本人青年がごく自然に語り合っている。本土随一の基地県でありながら、神奈川県の米軍の「軍」としてのイメージは、沖縄のそれに比べ、はるかに薄い。

しかし、米軍の基地や施設は、神奈川県内に確かに存在している。しかも、その場所は、相も変わらず日本の主権や法の外にある。そして、近年の第一軍団司令部のキャンプ座間移転計画に象徴的に示されているように、県内の米軍基地や施設が米軍全体の中で果たす役割は、その数と面積の減少と反比例するかのように拡大しているのである。

神奈川県は、県内の米軍の基地や施設の存在によって、これまで以上に国際情勢と密接に結びつけられていると言っても過言ではない。米軍が「軍」としての本来の姿を現わしたとき、その基地や施設の存在は、神奈川県や県民に如何なる影響を及ぼすのであろうか。

近く、ともに神奈川県内の自治体現代史の編纂に携わっている研究者4人と、『米軍基地と神奈川』を有隣堂から上梓することになった。本書では、戦後六十年以上に及ぶ米軍と神奈川県の関わりについて、政治、経済、社会、文化等の広い領域にわたって鳥瞰的、かつ簡潔に伝えることを目指した。この試みが伝われば幸いである。

栗田尚弥  (くりた ひさや)

1954年東京出身。
國學院大学講師。日本政治外交史専攻。編著『地域と占領』日本経済評論社 4,500円+税、共著『相模湾上陸作戦』有隣堂 1,000円+税ほか。

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