今 柊二
1988年の大学3年のとき、トライアスロン用の自転車を買った。この自転車はアルミフレームだったのでものすごく軽く、走っているとまるで滑空しているようだった。おかげで行動半径が圧倒的に広がった。当時は横浜の相模鉄道の天王町駅近くに住んでいたが、1990年前後によく行ったサイクリングのコースは以下の通りだ。洪福寺から浜松町経由で国道1号線を戸部方面に走り、高島町から現在のMM(みなとみらい)地区に抜けて、関内に出て中華街を通過し、さらに新山下まで達する。帰りは伊勢佐木長者町方面から黄金町に出て久保山を登って藤棚商店街を通過して帰るコースだ。このコースを通ると、MMのように変わるヨコハマ、中華街のように観光地のヨコハマ、新山下のように産業都市のヨコハマ、そして藤棚のように知らないヨコハマと、多面的なヨコハマを知りえることができたのだ。
いずれにしても、このサイクリングは楽しかった。あまりに楽しすぎて通っていた横浜国大の5年生をやることになってしまったが。
ちなみに、1990年前後は、まだMM地区もほぼ造成中で、のっぺりとした海に向かった広大な土地が広がっていて自転車で走る爽快さは格別だった。ここに街ができるのだと思うとワクワクした。また、四国から上京して数年経ってようやく様子がわかってきた中華街では中国文物館という店で当時最も安かった150円の肉まんを買い(残念ながら今は売っていない)、それをリュックに入れて、新山下まで走る。そして適当な埠頭で自転車を停め1989年にできたばかりのベイブリッジと港を間近に見つつ、やはり途中で買った缶コーヒーを飲み肉まんをかじった。特に冬の朝、冷たい風に吹かれつつ食べる肉まんと熱い缶コーヒーは最高のごちそうだった。
帰りは伊勢佐木町で有隣堂本店、当時はオデヲンにあった先生堂古書店、なぎさ書房などを見て、新本・古本を買い込む。場合によっては横浜橋の八舟でうな丼を食べることもあったが、帰路は、前述のごとく黄金町から久保山を登る。変速の優れたトライアスロン自転車が効力を発揮するが、結構上りはつらい。しかし、下りになったとたん、苦しさは解放感となり、幸せが体に満ちていく。そして、下りきったところにあるのが藤棚商店街。ヨコハマは、鉄道の駅からちょっと遠いところにもステキな商店街があることを知ったのもサイクリングの効能であった。…と、こう記してくると、現在神奈川新聞で連載している「かながわ定食紀行」の膨大なロケハンをやっていたことになる。
いずれにしても街をふらふらすると、様々なことが分かって楽しいことを20代の時に学べたことが、現在の私のものの考え方に大きな影響を与えたと思う。
なお、この自転車はまだ現役で毎日乗っている。現在住む町田を走りつつ、またあのヨコハマコースを走りたいと、時々思っている。
(定食評論家)