Web版 有鄰

556平成30年5月10日発行

澤田美喜――その決意と信念 – 海辺の創造力

西田恵子

澤田美喜(1901―1980)は、三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の孫として、現在の東京都台東区(都立文化財庭園・旧岩崎邸)で生まれました。美喜は、戦後史に残る社会福祉事業エリザベス・サンダース・ホームを、46歳の昭和23年(1948)2月に「混血孤児の救済」を掲げて創設しました。

美喜は12歳の時に岩崎家別荘のひとつがある大磯で百日咳の療養中、付添看護師の読んだ聖書に興味を持ち、キリスト教の不思議な力に心ひかれていきました。20歳の時に外交官でクリスチャンの澤田廉三と結婚します。美喜は外交官夫人として世界各地に同伴しましたが、ロンドンでの生活が美喜の後半生を変えることになります。教会の司祭から紹介されたある老婦人と、「ドクター・バーナードス・ホーム」という名の孤児院へドライブに行き、そこで見たホームの様子に、美喜は余生を捧げる仕事と神からのお召しを感じたのです。金銭では買う事の出来ない幸せがあることに気付き、心の目が開いたと記しています。

美喜が社会福祉事業の仕事に飛び込むきっかけとなった神の啓示は、もう1つあります。それは、戦後、京都に向かう電車内の頭上の網棚から、置き去りにされた混血の嬰児の遺体の包みが、美喜の膝に落ちてきた出来事でした。美喜は激しく心を揺さぶられて、「この死児の母と思われたのなら、いっそ日本中の、私を母として必要とする子供たちのために母となれ」との啓示を感じたのです。

美喜は夫廉三の理解を得て、すぐさま行動を起こします。戦後の財閥解体で、財産税として物納されていた大磯の岩崎家別荘を買い戻し、乳児院エリザベス・サンダース・ホームを作ります。実家の岩崎家も苦境にあり援助は仰げず、美喜は大磯の町の子供に英語とフランス語を教えて生活を間に合わせ、懐かしい昔の思い出の品々を乳児たちのおむつやミルクに変えて、乳児院の経営を続けました。時間があれば、アメリカを中心に講演旅行をし、寄付金集めに奔走します。「敗戦の運命の子を、父母のある子ども以上に幸福にする」という事が、美喜の決意でした。

「この世に必要な人間ならば国家が養ってくれるし、神様が見捨てるはずがない」という信念を持っていたのです。「人生は運命でなく、自分の手で明るくも暗くもいろどられる(彩られる)ものだ」と後に語っています。

澤田美喜の遺志は現在も児童養護施設エリザベス・サンダース・ホームとして受け継がれています。創立70周年を迎え、2000人以上の子供たちを両親に代わって育て上げました。

美喜の業績は、大磯駅前の“福祉と文化の森”敷地内の澤田美喜記念館の中で、美喜が自ら蒐集し心の拠り所とした「隠れキリシタン遺物」のコレクション(隠れキリシタン資料館)とともに展示され、顕彰されています。

(社会福祉法人エリザベス・サンダース・ホーム理事)

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