垣谷美雨
大学卒業後、勤勉に働いて38年。晴れて定年を迎えた主人公が、想定外の日々に突入する長編家族小説だ。
「何十年も前から心の中にくすぶっていたことを文章にしてみた、そんな感じの小説です。還暦、定年と言われる年齢に私も近づいて、身近なテーマとしても書いてみたいと思いました」
〈今まで長い間、本当によく頑張ってきた〉。歯を食いしばり、大日本石油で働いてきた庄司常雄は定年を迎え、サラリーマン生活から解放された。自由の身になったと喜んだのも束の間、家にいる生活は勝手が違う。「おい、お茶をくれないか」と呼んでも妻の返事はなく、帝都物産で総合職として働く娘にはアンタ呼ばわりされる日々だ。
「私はずっと共働きで、2人の子の子育ても家事もしてきましたから、妻や娘の意見には私の経験も入っています。ただ、私の世代は出産後も働き続ける人が少なかったので、小説のリアリティの面で、妻の十志子を専業主婦の設定にしました。また、娘が優秀であるのは、この小説の重要なキーポイントです。一流大学を卒業して総合職として働き、一般的な男性よりも頭のいい女性がいても、女は普通こうあるべきという価値観が根強い。自分の可愛い娘が社会でストレスにさらされていたらどうですかと、身近なところで目の当たりにし、主人公が変わるかどうかを入れたかったんです」
毎日所在なく過ごしていた常雄に、ある日、転機が訪れる。息子の和弘がやって来て、4月から保育園に通う孫2人のお迎えをしてほしいと頼まれたのだ。和弘の妻、麻衣が、3歳の葵と1歳の漣を保育園に入れ、派遣社員として働き始めるという。
「定年を迎えた主人公世代だけでなく、30歳の息子夫婦も登場させたのは、何年経っても日本が変わらないことを表したかったからです。例えばファミリーレストランで、妻がぐずる赤ちゃんを一生懸命世話しているのに、夫はパソコンに向かったままの夫婦をみると、何も変わっていないのだなと思わされる。保育園不足は数十年前から言われ続けていますし、日本は少子化になる要素が揃っているんですね。3歳児神話を始め、言う側にとって都合のいい常識があふれている。現実を踏まえて暗澹と終わるのでなく、それでも変わっていけるようにという願いを込めて書きました。日本では未だに若い女性が優遇され、30過ぎて独身だと可愛そうと言われますが、職場は恋愛の場でも女性を品定めする場でもないですね。男も女も同じ、対等の人間としてみるように、男性が意識的にならないと変わらないと思います。この小説では、こんなふうになっていったらどうですか? と思いながら書きました」
1959年、兵庫県生まれ。明治大学文学部卒。2005年、「竜巻ガール」で小説推理新人賞を受賞し小説家デビュー。テレビドラマ化された『リセット』『夫のカノジョ』の他、『ニュータウンは黄昏れて』『老後の資金がありません』『農ガール、農ライフ』などがある。
「子供の頃から本が好きで、マーガレットやりぼんといった少女漫画誌を幼稚園の頃からたくさん読みました。スポーツや家族の別れなど物語が豊かで、昔の漫画から学んだ道徳が、自分の芯になっていると思います。活字の本はルパンから入り、中学で『風と共に去りぬ』など、大学時代はエンターテインメント小説や旅行記をジャンル不問で読みあさりました」
大学卒業後、システムエンジニアとして働いた。40歳を過ぎて体力的な辛さを感じ、転職を考えながら小説を読んでいて、自分で書くことを思いついたという。初めて書いたミステリー短編が2次選考に残り、1年ほど投稿を重ねてデビュー。以降、普通の人々が抱える葛藤や社会問題を題材にして“社会派”と言われ、支持されている。
「社会に対する怒りが小説を書く原動力になっていますから、社会派であることは意識しています。一人ひとりが自由じゃない、のびのびと生きられていないことに怒りを覚え、それに付随したテーマが大半です。実際、ノンフィクションほど面白いものはないと思います。しかし、よく練られた小説はいろんな人物が登場して想像力がかき立てられ、自分だけが苦労しているわけじゃない、自分は間違っていなかったと救われたり、前向きになれます。その点は、小説、フィクションの勝る部分だと思います」
(青木千恵)