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有鄰


有鄰の由来・論語里仁篇の中の「徳不孤、必有隣」から。 旧字体「鄰」は正字、村里の意。 題字は武者小路実篤。

平成13年3月10日  第400号  P1

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 北斎・広重と東海道 (1) (2) (3)
P4 ○ランドマークが見た神奈川の100年取材記  谷川泰司
P5 ○人と作品  北村薫と『リセット』        藤田昌司

 座談会

北斎・広重と東海道 (1)
東海道宿駅制度400年

   学習院大学教授   小林 忠  
  元横須賀海軍工廠造船部職手組長   猪狩 泰明  
  神奈川県立歴史博物館専門学芸員   鈴木 良明  
  太田記念美術館副館長   永田 生慈  
    有隣堂会長     篠崎 孝子  
              

はじめに

篠崎
北斎「東海道名所一覧」
北斎「東海道名所一覧」
葛飾北斎美術館蔵
*印の写真は神奈川県立歴史博物館蔵
今年は徳川家康が慶長六年(一六○一)に東海道の宿駅制度を定めてから四百年目に当たります。これを記念して、 各地で展覧会なども企画されています。

東海道というと、広重の浮世絵を思い浮かべる方も多いと思いますが、広重と並び称される北斎も東海道を版画に 残しています。

本日は、浮世絵の歴史をご紹介いただきながら、北斎と広重が描いた東海道を中心に、その人気の秘密や、浮世絵は 実景を描写したものかどうかなどという問題もお話しいただきたいと思います。

ご出席いただきました小林忠様は学習院大学教授で、千葉市美術館長としてもご活躍です。江戸時代の美術における 浮世絵の位置づけ、海外での浮世絵の評価などについてもお伺いしたいと思います。

鈴木良明様は神奈川県立歴史博物館専門学芸員で、近世史、なかでも神奈川の街道や社寺参詣などを研究していらっしゃいます。

永田生慈様は太田記念美術館副館長で、ご出身地の津和野にある葛飾北斎美術館長もお務めです。北斎についてさまざまな 角度から研究を進めていらっしゃいます。


菱川師宣の「東海道分間絵図」がベストセラーに

篠崎 浮世絵の始まりというと菱川師宣ということになりますが……。

小林
座談会出席者
右から鈴木良明氏、小林忠氏、
永田生慈氏と篠崎孝子
菱川師宣は、今から三百年ぐらい前、元禄七年(一六九四)に亡くなった浮世絵の創始者というか、最初に浮世絵を 庶民の美術として定着させた人です。この師宣から発達して、江戸の町人たちの美術として大変華やかな一ジャンルが 開けていくわけです。これは宿駅制度が誕生してからほぼ百年後ということになります。

師宣がなぜ日本の美術史、あるいは歴史の中でも特筆すべき存在かといいますと、絵を見る楽しみ、あるいは絵によって 知識を得る、そういう感性的な楽しみと知的な楽しみを一般の庶民層が享受することを可能にしたことにあります。 それまでは、とても許されるものではなかったわけです。

古くは、貴族や僧侶たちが美術による知識や楽しみを得ることを独占していたわけですが、師宣は、経済的に余裕が 出てきた町人に版画という手段で、大々的に浮世絵を広めた画期的な存在だと思うんです。

 

  日常的な題材をわかりやすく庶民に提供した師宣

小林
菱川師宣「東海道分間絵図」
菱川師宣「東海道分間絵図」
元禄10年*
扱う題材も、高尚なあるいは宗教的、古典的なハイアートではなく、当時の庶民にとって身近な、また興味の あるものが発達した。例えば芝居や歓楽街のさまざまな遊び、そして、やがて旅をする楽しみが一般化して風景画が 生まれたり、身近な花鳥風月を楽しむ花鳥版画などが発達してくる。そういう極めて日常的な題材をわかりやすく 提供する浮世絵が師宣によって始まる。

師宣の浮世絵は、歌舞伎の世界や当時の遊里などを中心とした歓楽街などの人物画が中心ですが、非常に多様な要求に こたえ、物語をかみ砕いた物語絵とか、遊里案内などを含めた案内記を、文字の力も借りながら提供していくわけです。

東海道に関しては、『東海道分間絵図』をつくった。分間絵図というのは、高低、遠近、距離などを測量してつくった実測図です。

江戸から京都へ上っていく道のりを縮尺して、三分が一町になりますが、宿場宿場のごくごく略図に道筋の風景を描き、 そこに、距離はどのぐらいあるとか、情報もいろいろ加えた。旅をする人々には大変便利な版画で、巻物にしたり、 本の形にしたり、装丁は好みに応じてさまざまなようですが、絵画的な東海道物に関しては、最初のベストセラーと いえるものをつくりました。

 

  見る視点を狭めると浮世絵、広くとると分間絵図

鈴木 近世になって東海道を画題としたものは非常にふえてきます。そういった画題は二つに大別できます。

一つは、例えば宿場とか名所地とかを切り取るような形のもので、視点を狭くするタイプのもの。もう一つは道中や 街道を長い連続ものとして描くタイプのもの。前者の系譜は、後期の浮世絵につながる気がします。後者の系譜は 近世初期からあり、幕藩体制が確立した寛文頃の段階から非常に出回ってくる。

永田 屏風もありますが、肉筆の絵巻形式のものは相当残っていますね。

鈴木 ええ。後者の街道や街道を題材にした中に分間絵図は位置付けられますが、分間絵図は一番最初は元禄三年 (一六九〇)のものが見つかっている。それに先行するものとして内閣文庫に、寛文十二年(一六七二)刊行の 『東海道細見図』という版本があります。そういう系譜を引きずって分間絵図になってくるんじゃないか。

 

  ハイアートな屏風絵や絵巻を簡略化して紹介

鈴木 分間絵図の序で「絵図は街道を描くのは確かに有効だけど、そこに風俗的なものを込めるとさらによくわかり 面白い」と、師宣は元禄版の刊行のときに言っている。そういうものは後に随分影響を与えていると思います。

また『東海道細見図』には街道の名称やお寺などに注記がありますが、注記は浅井了意の『東海道名所記』のほとんど 写しで、特に地名やお寺の名前は丸写しです。

さらに、それに風俗的なものを加えると、分間絵図になってくる。近世中期にそういうものが出てくる。こうした 動きは何が背景になっているかといいますと、幕藩体制の確立、あるいはその中から旅が楽しみの一つになると いったことが考えられると思います。

小林 その前提としてはハイアートのほうで、十七世紀に東海道図屏風が随分描かれます。西国の大名たちが参勤交代その他で 往来をせざるを得ない東海道を六曲屏風一双で、江戸から京都、京都から江戸、その土地土地のお城や川や山を 織りまぜて装飾的な屏風絵をつくった。

一方、もう少し旅の友というか、簡略化した絵図が随分後まで刷られます。分間絵図は元禄期に師宣の亡くなる直前の仕事ですね。

永田 大名がつくったものを一般向けにしたのは、いかにも師宣らしい仕事です。



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