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有鄰


平成12年5月10日  第390号  P2

 目次
P1 ○「カラス」  高橋千劒破
P2 P3 P4 ○座談会 岡倉天心と近代の日本美術 (1) (2) (3)
P5 ○人と作品  押川國秋と『十手人』        藤田昌司

 座談会

岡倉天心と近代の日本美術 (1)

   町田市立国際版画美術館長   青木 茂  
  中国美術商「蘭花堂」代表取締役   中村 愿  
  愛知県立芸術大学教授   森田 義之  
  中央公論美術出版   森  登  
              

はじめに

編集部
岡倉天心
岡倉天心(ボストン美術館にて)
の写真は中央公論美術出版提供
岡倉天心は横浜の生まれといわれ、若くして東京美術学校(現在の東京芸術大学の前身)の校長となり、その後、日本美術院を創設し、またボストン美術館に勤務して日米間を往復、『東洋の理想』や『茶の本』など、英文の著作を通じてアジアを擁護し、日本の伝統文化を世界に紹介するなど、幅広い業績を残しています。

ここ二、三年の間に天心に関するさまざまな研究が出版されていますので、それらの最新の成果を伺いながら、天心の人物像をご紹介いただきたいと思います。

ご出席いただきました青木茂先生は幕末明治期の洋画を中心にご研究で、以前『神奈川県美術風土記』の中で「岡倉覚三と横浜」という論文を執筆しておられます。

中村愿さんは『岡倉天心全集』全九巻(平凡社)の編集に際して資料収集に携わり、昨年『美の復権−岡倉覚三伝』をまとめられました。

森田義之先生はイタリア近世美術をご専攻ですが、茨城大学五浦(いづら)美術文化研究所長として『岡倉天心と五浦』の執筆と編集に当たられ、この四月からは愛知県立芸術大学に移られました。

森登さんは中央公論美術出版にお勤めで、『岡倉天心アルバム』などの編集・制作を担当していらっしゃいます。


天心のさまざまな研究資料が出版

編集部 岡倉天心は多方面に活躍しており、さまざまな観点から研究書が出ていますね。

青木
座談会出席者
左から中村愿・青木茂・森田義之・森登の各氏
『岡倉天心全集』(平凡社)は一九七九年に出ました。これはなかなかいい仕事で、その後『美の復権−岡倉覚三伝』を中村愿さんが出されたりして、天心について十分に考える材料ができたことはありがたかったですね。

全集の編集に携わった人たちで、木下長宏さんが『岡倉天心』を一冊出した。それと、鍵岡正謹(かぎおかまさのり)さんが奈良の短歌雑誌に、長い間、天心論を連載して面白かったです。そして天心が一九〇五年に茨城県の五浦海岸に建てた邸宅を管理している茨城大学の方が、共同研究やお子さんの書かれたものやらを復刻して、中央公論美術出版から刊行しているんです。

 

  天心ゆかりの茨城県五浦から「叢書」を刊行

森田 私は近代美術の専門家でも、天心の研究家でもないんですが、たまたま茨城大学に十八年前に就職して、五浦美術文化研究所の所員になって、少しずつ天心に触れ合っていきました。

茨城県五浦海岸の六角堂
茨城県五浦海岸の六角堂*
一九五五年に茨城大学が研究所という名前で遺跡を引き継ぎますが、文部省の予算がついていないので、現地に管理人を置いた名前ばかりの研究所で、わずかに所報を出していたぐらいでした。そういう中で、九七年に茨城県が非常に大きな天心記念五浦美術館をつくった。五浦を観光名所にしようという政策があったと思うんです。

研究所のほうには、平櫛田中(ひらぐしでんちゅう)さんがつくった有名な彫刻「五浦釣人」があります。ほとんど閉鎖状態だったのを恒常的にオープンして、中をリニューアルして、天心の使っていた「龍王丸」という釣り舟も修理して、一応、公開できる状態にした。

県の美術館づくりに合わせて動き始め、天心を中心とする近代美術史研究の一拠点にしようと、考えてきたわけです。日本美術院の援助もありました。

これを機会に「五浦美術叢書」を出そうという機運が起こり、開館一年後に第一冊目の『岡倉天心と五浦』を出しました。しかし大学の所員だけではとてもできないので、客員所員の方々の協力をいただきました。

日本美術院の「聖地」ということもあり、平山郁夫先生にお願いして助成金を出していただき、十冊の叢書にしていこうということでスタートしました。今、四冊目の『岡倉天心アルバム』を準備中です。これは中村さんを中心に進めています。そういう形で五浦から天心研究の動きがでてきたわけです。

 

  アジアブームの中で天心が取り上げられる  

中村 私は明治の時代に、「天心」はいなかったという考えなんです。つまり、岡倉覚三という明治に生きた男はいた。「天心」像には、本来の岡倉の像とはかけ離れた、後世の伝記作者らがつくりあげた側面が強いのです。ですから、私はあえて岡倉覚三と言います。

青木先生が言われたように平凡社版『岡倉天心全集』が出て、その前後に『東京藝術大学百年史』がつくられています。これは吉田千鶴子さんが尽力され、吉田さんは今も、その後の岡倉、およびその周辺の資料集めを地道にやられている。それから膨大なお金と時間をかけた『日本美術院百年史』ですね。森田さんが言われた五浦に天心記念美術館ができたことも、一つの流れの中に当然入ります。

この十年ぐらいアジアブームというのが日本の中にあるかと思うんです。例えば総合雑誌などにアジア特集が組まれると、その中に必ずと言っていいぐらいに岡倉覚三が出てきますね。

この底流としては、全集が出る前に大岡信さんが朝日評伝選で出した『岡倉天心』が岡倉を見直す一つのブームをおこした本だったと思います。その後は桶谷秀昭さん、大久保喬樹さんなどの文章が続きます。

そういう流れがあって、私が全集の編集で教わったことだけはお返ししようと、十数年前に新人物往来社の雑誌に連載しました。昨年出しました『美の復権』がそれです。


横浜で教育熱心な父親に育てられる

編集部 岡倉天心は横浜生まれといわれ、中区本町一丁目の横浜市開港記念会館の脇に「生誕之地」と書かれた碑があります。福井藩の出店の商人として天心の父親が横浜の石川屋にきていた。

青木先生は天心を江戸の生まれとしておられますが、それはどうして……。

青木
「岡倉天心生誕之地」記念碑
「岡倉天心生誕之地」記念碑
(横浜市中区本町)
人はどこで生まれたとか、いつ生まれたとかいうことは余り関係ないんです。生きているうちにどんな仕事をしたかということだけが必要で。だから、岡倉は、誰が聞いても横浜生まれでなきゃならんというぐらい横浜生まれにふさわしいんです。私が東京生まれだと言ったのは、みんなが自明の理として横浜でしかないとして話を進めるから。

特に遺族なんかが、「暮れに生まれたもんだから、暮れの商店は忙しくて、角の蔵で生まれたから角蔵と名づけた」とか、岡倉より若い人が、さも見てきたように書くことが面白くなかっただけです。ただ、事実は事実として認めるよりないですから。

もう少し踏み込むと、例えば大岡信の『岡倉天心』は、詩心に訴える岡倉天心を書いた。詩人としての大岡はそれで結構だと思いますが、それだけじゃない人だと思う。

私はたまたま美術史の研究者なんで、事実を一つ一つ正確に洗っていく必要からそう言ったんです。

編集部 岡倉の美術学校の履歴書に、江戸の馬喰町の生まれと書いてあるんですね。

青木 そうです。ただ、本人が横浜生まれと言っても別に構わないんです。

塩田力蔵が、岡倉が亡くなった後にすぐ書いた文章も、松平春嶽の馬に乗って、振り落とされまいとして、たてがみにしがみつき、元気がいいとか言われて、五歳ぐらいのときに春嶽公から短刀をもらったと。これは岡倉が亡くなってすぐに書いた文章の中に出てくる。ということは、そういう話をどこからか直接聞いたんだと思う。

大体四、五歳のころ春嶽に会っていないんです。岡倉が福井まで行けば別ですよ。けれど、行ってもいないし、そんな殿様の馬に近づいただけで切られますよ。手ずから短刀を賜ったなんて、話としては面白いけど、それは完璧にうそなんです。

そういうのを少しずつきれいにしていかないと。

 

  弟や息子や父が言ったことをまず疑ってかかる

編集部 天心は横浜で育ったことは事実で、中村さんは「横浜に吹く風」ということで、本にお書きになっていますね。

中村 私も青木先生と同じ偶像破壊の立場です。つまり、息子の一雄が書いたもの、弟の由三郎が書いたもの、あるいは父の覚右衛門が言ったこと、それをまず、疑ってかかる。事実、芸大にある履歴書には「馬喰町」の生まれと書かれています。

ただし、それと同じように高橋太華の書いたものにも別の記録がある。岡倉自身の記録にもまた別のものがある。全体から判断するなら、私は横浜でいいと思います。

関連資料がかなり整理されてきている今日からみれば、疑問に感じられる記述は、長男の一雄さんが書いた『父天心』の中にも少なからずあります。

例えば、覚三は東京大学の卒業論文に国家論を書いたところ、提出間際に妻の基子が焼いてしまったので、急遽、美術論を書いて提出したといいます。これは、私は一雄さんの創作ではないかと思っています。あれは母の岡倉基子さんが亡くなって十五年後に書かれたものです。

国家論、美術論に関する具体的な資料は、何もないんです。東京大学からも何も出てきていないし、岡倉自身も書いたとは言ってない。ただ一雄さんは、岡倉は晩年、美術論を書いたために、美術界で生きるようになったと言ったと書いていますが、私にはまず、岡倉がそういう愚痴めいたことを言ったかどうかに疑問があるのです。

もう一つ、一雄さんは『父天心』の中で、没後の覚三を五浦に分骨したさい、妻の基子が、覚三の愛人だった星崎(九鬼)波津子の写真を一緒に納めたと書いてありますが、これはどう考えてもあり得ないことだと思う。岡倉を中心として波津子と基子には女同士の激しい闘いがあったわけで、これも私は、一雄さんの創作だったと思うのです。つまり、そういうことに気をつけなさいと青木先生はおっしゃったというのが、私の受け取り方です。

 

  父親はエリートを育てようとし、それだけの天才だった

編集部 天心は横浜でどういう時代を過ごしたんでしょうか。

中村 少年のころの資料は残っていません。

天心も由三郎も、あの語学力はどこから来ているんですか。宣教師のジェイムズ・バラの所ですか。

中村 そう思います。父親の覚右衛門は福井藩の軽輩でしたが、彼にも幕末から明治にかけての日本全体の息吹というか、燃えた思いがあったと思うんです。そろばんの才にたけ、一方で俳句をやるぐらいの男で、古物も好きだった。しかも長男はくる病で、次男の覚三に夢を託す。

覚三が九歳のとき、妻が亡くなる。覚右衛門は先見の明のある思慮深い男で、時代の先を読んで、覚三に英語を学ばせた。

ただ、いつも英語のことばかりが話題になりますが、実は日常のことのほかに英語、漢学を学ばせたんです。これは、弟の由三郎が書いています。普通の読み書きの道のほかに英語のけいこに通ったわけです。



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