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有鄰


有鄰の由来・論語里仁篇の中の「徳不孤、必有隣」から。 旧字体「鄰」は正字、村里の意。 題字は武者小路実篤。

平成12年10月10日  第395号  P1

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 新聞と神奈川 (1) (2) (3)
P4 ○夢窓国師像のまなざし  岩橋春樹
P5 ○人と作品  山崎光夫と『サムライの国』        藤田昌司

 座談会

新聞と神奈川 (1)
日本新聞博物館開館にちなんで

   上智大学名誉教授   春原 昭彦  
  上智大学文学部教授   鈴木 雄雅  
  日本新聞教育文化財団事務局長   坂田 秀  
    有隣堂会長     篠崎 孝子  
              

はじめに

篠崎
横浜情報文化センター
日本新聞博物館が入居する
横浜情報文化センター*
(*印の写真は日本新聞教育文化財団提供
横浜は明治三年にわが国で初めて日刊新聞が誕生した場所であり、また、それ以前、幕末の開港直後から、外国人居留地の居留民によって英字新聞が発行されるなど、新聞の歴史を語る上で、欠かすことができない重要な役割を果たしてきました。そこで本日は、黎明期の新聞と横浜について、ご研究の成果をお聞かせいただきたいと思います。

また、十月十三日に日本新聞博物館(ニュースパーク)が中区日本大通の横浜情報文化センターの中に開館することになりましたので、その設立構想や館内の概要、展示の見どころなどもご紹介いただきたいと思います。有隣堂も博物館内の一画に、ミュージアムショップをオープンさせていただきます。

ご出席いただきました春原昭彦先生は、上智大学名誉教授でいらっしゃいます。『日本新聞通史』などのご著書がございます。また日本新聞博物館の歴史展示の監修者として、博物館の準備に当たってこられました。

鈴木雄雅先生は上智大学文学部教授で、新聞学の講座を担当していらっしゃいます。『日本初期新聞全集』の編集をされたほか、イギリスやオーストラリアにも留学され、居留地で活躍した新聞発行者の軌跡の調査をしていらっしゃいます。

阪田秀様は、博物館を運営する日本新聞教育文化財団事務局長としてこれまでの数年間にわたり、博物館の開設準備にご苦労を重ねてこられました。


情報が必要なところに新聞が生まれる

篠崎 まず、新聞はどのような形で誕生したのでしょうか。

春原
座談会出席者
左から鈴木雄雅氏・春原昭彦氏・
坂田秀氏の各氏と篠崎孝子
情報やニュースが伝わる、また必要とされるのは、流動化している社会なんですね。江戸時代は人間の移動、情報の移動がとめられているから、初めのうちはそんな必要が余りないわけです。

江戸時代に庶民の間に情報を伝える、つまり当時、自由に国じゅうを動けるのは、旅芸人、伝道の宗教者、お坊さんなどです。彼らは国境を越えて歩けるから、彼らが情報を伝えた。

あと江戸時代には、瓦版といって、絵入りの一枚刷りのパンフレットみたいなものがある。これはヨーロッパではドイツを中心に昔ありましたが、世界のどこの国にもあるわけではない。なぜそういうものが出てきたかというと、ヨーロッパでは戦乱、トルコの侵入とか、いろんなことがあるので、情報がどうしても必要になってくる。

瓦版
瓦版 (大地震の図・1854年)*
日本の瓦版の最初は、大坂の夏の陣のときのものがありますが、その後あまり出てこなくて、幕末になってかなりたくさん出てきた。今度の博物館に飾ってあるのも、大体幕末が多いですね。

幕末は、火事とか地震などの災害が多かったこともありますが、人々が割と流動化してきて、流通がかなり出てきて、ニュースとか情報が出てくるようになった。しかし、その段階では、瓦版が現在いうニュースとはまだいえないわけです。内容的に見て、今の新聞のもとを瓦版に求めていいかというと、かなり疑問があります。ただ、庶民に読ませる書き方は、大衆にやさしく広める新聞の書き方にかなり影響しています。『読売新聞』は、まさに『読売』瓦版の名前をとっているし、大衆紙ですからね。

 

  開港場や政治・経済の中心地で新聞が誕生

春原 では、幕末に新聞が横浜でなぜ出されたかというと、場所的に二つあります。一つは開港場。港からどんどんニュースが入ってくる。

あとは政治・経済の中心地であること。江戸、大坂は商業の中心で、商業はまさに情報が価値を生むわけです。もう一つ、天皇の所在地である京都にもできる。横浜は開港場だし、政治経済の中心地でもあります。日本における新聞の発生はそういうところから来たんじゃないか。

そしてそこに出てきた新聞はどうかというと、日本人は新聞なんて知らない。特に日本の場合は、最初は海外から来た外国人が長崎でつくる。ところが、横浜が開港されると、日本の中心は江戸だから、どうしても江戸に近い所に居留地の住民や人が集まってくるので横浜に移り、いきなり英字新聞が出てくる。その辺が一番最初の新聞の前史のところです。

鈴木 最初の新聞といったときに幾つか挙がりますが、最初の新聞のとらえ方でも随分違う。

まず、英字なのか日本語なのか。それから日本人によるものか、週刊なのか日刊なのか。日本語の日刊新聞より英字新聞のほうがずっと早く出たことは事実です。

 

  長崎のオランダ船が伝えた海外ニュース『和蘭陀風説書』

篠崎 江戸時代、鎖国をした幕府は長崎から外国のニュースを得ていたんですか。

春原 そうですね。『和蘭陀風説書』(オランダふうせつがき)は長崎に来航したオランダ船が海外のニュースを幕府に伝えたもので、これは幕府が開国や鎖国を判断する上でも非常に大きな役割を果たしたと思うんです。

けれども、瓦版は例えば仇討ちもの、心中もののように話題とか面白さはあるんですが、人々が本当にニュースとして受け取ったかというと、非常に疑問です。その点、幕府の『和蘭陀風説書』には海外のニュースがある。

それから当時もう一つ入ったのは、中国の新聞で翻刻新聞です。当時の日本人は漢文が読めますから。中国では日本よりちょっと早く出ていますが、これは大体キリスト教の宣教師が、上海、寧波辺りで出している。その中でキリスト教に関するものだけを除き、あとは漢文を日本で翻刻して発行した。むしろこのほうが一八六一年六月に発行された『ナガサキ・シッピング・リスト・アンド・アドヴァタイザー』より早いのでは。

鈴木 そうですね。実際に出している人は、麦都思(メドハースト)という、漢字読みした宣教師の名前がついている。印刷物を出すに当たっては、キリスト教の宣教師たちの果たした役割がアジアでは大きい。

篠崎 当時の日本人の識字率は非常に高かったといいますが、それが新聞の普及にプラスになったんでしょうか。

春原 それは確実ですが、難点は漢字は男の言葉、女子は平仮名と文字が分かれていた。ですから、一般の人々に読ませるためには平仮名でなければ読めないというので、明治になってから『仮名読新聞』などが出てきます。

鈴木 幕末までに発行された新聞自体が翻刻・翻訳で、ルビが付いていない難しい漢字の文章で、読む人は非常に限られていました。どちらかというと、上層の人たちに筆写とか翻訳の新聞を読めるルートがあったんですが、幕府をひっくり返した下級武士たちのところでも、外国の情報が役立ったんです。



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