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有鄰


平成13年4月10日  第401号  P2

 目次
P1 ○なぜ横浜県ではなく神奈川県なのか  樋口雄一
P2 P3 P4 ○座談会 海へのロマン (1) (2) (3)
P5 ○人と作品  磯貝勝太郎と『司馬遼太郎の風音』        藤田昌司

 座談会

海へのロマン (1)

   ノンフィクション作家   足立 倫行  
  ノンフィクション作家   斎藤 健次  
  本紙編集委員・文芸評論家   藤田 昌司  
              

はじめに

藤田 海の文学というとメルヴィルの『モービィ・ディック(白鯨)』やヘミングウェーの『老人と海』などがあげられます。 『白鯨』はクジラとのダイナミックな戦いであり、『老人と海』は海における人間の孤独といいますか、そういう両極端が 書かれている作品です。

きょう、ご出席いただきましたお二方のお仕事は、その両方に匹敵するものだと思いますので、海に生きる男の苦闘と ロマンについて、存分にお話しいただきたいと思います。

座談会出席者
右から斎藤健次氏・足立倫行氏・
藤田昌司氏
足立倫行さんは最近、『海洋ニッポン−未知の領域に挑む人びと』(岩波書店)という海と日本の未来についての ルポルタージュの本をお書きになりました。十六、七年前にも『日本海のイカ』をお書きになって話題になりましたが、 現在、海に関するルポルタージュ作家の第一人者でいらっしゃいます。

斎藤健次さんは、土佐のマグロ船に、コック長として、六年間で三航海、千七百七十日乗られましたが、その体験を 『まぐろ土佐船』(小学館)に書かれて、第七回の小学館ノンフィクション大賞を受賞されております。現在は船橋市で マグロの料理店を開いておられます。

お二方とも、どこから切っても、海の水が噴き出してくるんじゃないかと思われるような方たちです。


海が好きで、子供の頃からあこがれる

藤田 まず、どんな動機で海と関わられるようになったのかお聞きしたいのですが、足立さんは最初に海について書かれた のは『日本海のイカ』ですか。

足立
書籍『日本海のイカ』装丁
『日本海のイカ』
情報センター出版局
僕は鳥取県境港市の生まれで、育ちなんです。半農半漁の町で、沖行く船をいつも見ていました。父親は海軍の軍人で、 その後、海上自衛隊に入ったし、祖父も貨物船の船乗りでインドやハワイに行っていたので、そういう血が流れているのかなと。

また高校生のころ、当時住んでいた瀬戸内で、毎日暮れなずむ海を行き来する船を見て、海洋学者になりたいなと漠然と思っていました。

ルポルタージュを始めて、二作目はどうやろうか、と悩み、自分の身に引きつけて書くのがやはり一番だと、ふるさとの境港をもう一回 見直すことにしました。日本海側の漁業の町というと、共通項はイカだろう。じゃ、イカ釣り漁船に乗ろうと。

東シナ海あたりで生まれたスルメイカは対馬海流に乗って北上し、北海道からサハリン沖まで到達すると、反転して、今度は産卵のため南下 するんですが、僕は、このスルメイカの回遊と同じように、対馬から礼文島までを南北に往復し、各地でイカ釣り船に乗ったんです。一年少々で 十五回ぐらい乗りましたが、一晩操業が多くて、最長は二か月操業の船に一か月乗船。

あくまで人間を書きたかったんですが、この分野をやっている人はあまりいなかったので、海際に育った者の一つの使命かなと思ったんです。 でも、根本的には、やはり海が好きなわけです。

藤田 『日本海のイカ』を書かれた一九八四年頃は、イカは日本海のゴミみたいなことが言われていたんですね。

足立 ええ。海のゴミみたいにたくさんいたそうです。日本海側の漁師さんは、遠洋に行っていた人でも最後は、一人乗りの イカ船で夜、ちょこっと釣って、小遣いかせぎにする。それが漁師さんの一つのパターンだったんです。若い頃はマグロや ブリを追いかけても、年をとったら、地元でイカを釣る、と。

 

  マグロ船に何が何でも乗りたくて土佐へ

藤田 斎藤さんがマグロ土佐船に乗られたきっかけというのは……。

斎藤
延縄にかかったマグロを揚げる
延縄にかかったマグロを揚げる*
(*印の写真は斎藤健次氏提供)
これは必ず皆さんから聞かれる話なんです。そのたびに、自分の生活を変えてみようとか、何かのきっかけが欲しかったとか、 赤道を越えるのが小さいときの夢だとか、いろんなことを言ってきましたが、実際は、マグロ船というと、命をかけて長い航海に 出るわけです。ですから自分自身を本当に駆り立てたものはそれだけじゃないと自問自答しているんですが、いまだにわからない。 ただ、マグロ船に乗りたかった、それだけは本当の気持ちでした。

藤田 その前は何をしてらしたんですか。

斎藤 雑誌の取材記者をやっていて、二十五歳のときにフリーになった。最初は順調でしたが、二年、三年たってやはり自分に 不向きなのではと思うようになり、二十八歳のときに一念発起したわけです。

藤田 乗るまで大分待たれたんですね。

斎藤 ええ。東京を全部引き払って、何が何でも食らいついて乗ろうと思ったので。

僕は東京渋谷区で生まれ育って、足立さんとは反対なんですが、共通しているのは、父親が若いときに遠洋航海の 貨物船のコックで、海の仕事だったんです。ですから、小さいときから父に海の話を聞いていて海に対するあこがれ が強く、赤道を越えてみたいという思いがずっとあったんです。

マグロ船というと、漁師というより、船乗りというイメージがあるんです。地球を大回遊しているマグロを追いかけ、 三か月に一回ぐらい港に入って骨を休める。僕のイメージはそういうあこがれみたいな感じでした。

土佐は、土佐っぽという響きが好きで、男臭いというか、男気に惚れて土佐船に乗ったんじゃないかなと思います。

 

  日本は世界に冠たるイカ王国

藤田 日本海のイカ釣りは昔は小さな船に乗って一人で釣っていたんですか。

足立 はい、ハネゴやトンボという釣り具を使って。名人芸だったんですね。舳先に乗る人、トモ(船尾)の人、真ん中に座る人、 それぞれが違う漁具を使って複数のイカを一挙に揚げる。深度によって使う釣り具が違うんです。かつては、こういう漁法が 隠岐島から佐渡島、奥尻のほうまで、イカが北上するルート沿いにあった。ですから、イカ先進地の隠岐島に「イカ寄せ浜」や 「イカ寄せ神社」があったのも当然なんです。

藤田 イカが立って来るという表現がありましたね。

足立 海の中をイカがビッシリと垂直に押し寄せるのでヒレとヒレが重なって三角の波のように見えたそうです。僕も、船が沈みそうに なるぐらいイカで満杯になるというのを、函館にルポに行ったときに経験しました。

大きな漁業会社がある函館はイカ産業の中心地でした。毎年季節になると函館に漁師が集まり、イカを釣ってお金をもうけて 帰るということが成り立っていた。戦前のスルメイカを手釣りしていた時代の話ですね。

戦後は自動イカ釣り機ができて状況が一変しました。今やコンピュータ制御のしゃくりを入れ、自動イカ釣り機全盛という、 世界に冠たるイカ王国です。イカ釣り船が最初にコンピュータを導入した。何しろ、スイッチを押すだけで海の中からイカだけ 揚がってくる。

斎藤 マグロ船も、人間が縄を投げていたのが、今はロボットで放り投げる。


世界の海を回遊するマグロを追う

藤田 斎藤さんが乗られたマグロ船は?

斎藤
第十六合栄丸の航行
第十六合栄丸
室戸市の漁船で、一度目が第十六合栄丸、二度目と三度目が第三十六合栄丸です。いずれも二九九トンの船です。

一度目のときは、高知港を出て南に向かい、ミンダナオ島、セレベス島、バリ島などを抜けてインド洋に出て、 そのまま南下し、時化ることで有名な、南緯四十度を越えたあたりを東に行ったり、西に行ったりしてミナミマグロを 捕ったんです。ミナミマグロは南緯四十度以南の寒水帯を東西に回遊しているマグロで、土佐の船は、ニュージーランド沖、 南インド洋、オーストラリア南部のタスマン海、ケープタウン沖、南米ウルグァイ・モンテビデオ沖などで、ミナミマグロ だけを追い続けてきた。

マグロの中で最も高価なものは、南半球のミナミマグロ(インドマグロ)と北半球に多いクロマグロ(ホンマグロ)で、 どちらも一〇度C前後の冷たい海に生息して、全身に脂がまわっているんです。

 

  アメリカのスポーツフィッシングがマグロ船を締め出す

藤田 この本に書いた三度目の航海がメキシコ湾への出漁でした。ここはクロマグロです。メキシコ湾の場合は、アメリカへ 操業許可申請を出し、抽選で決まるんです。二百隻余りが申請し、許可されるのは十五隻。それに合栄丸が当たったんです。 船は、回航専門の船員がパナマ運河の入口のバルボア港まで運び、船が着く頃、約一か月後に私たちは飛行機でバルボアまで 行ったんです。

ところがこの年、一九八一年の十二月に、日米漁業交渉で、アメリカが一方的に「来年一年はメキシコ湾の出漁禁止」を 日本に通達してきて、結局メキシコ湾での操業は中止になった。

藤田 そのアメリカの規制は、結局レジャーでしょ。

斎藤 そうです。スポーツフィッシングで日本のマグロ船を締め出していながら、今はニューヨーク沖で巻き網でどんどんマグロを 釣って養殖して、日本に輸出して金をもうけている所がある。勝手過ぎますよね。

足立 漁労技術は日本人は世界最高ですから、オープンにしていると、捕り尽くされてしまうという危機感もあったんでしょうね。

斎藤 抽選で当たって、これは大変なことだったので、それこそ「やった!」と、喜んで行ったら、急にスポーツフィッシングのために だめになった。仕方がないので、太平洋のエクアドル沖でメバチマグロを捕り、パナマ運河を通ってモンテビデオ沖、ケープタウン沖で ミナミマグロ、アンゴラ沖でメバチマグロを捕ったんです。

 

  マグロ船が寄港する世界の各地にある日本の漁民文化

足立 一九七一年ごろ、僕はメキシコにいたんです。海外放浪中の映画青年で、いろんなことをやっていたんですが、そのときに アカプルコの歓楽街でお姉さんたちが「ヤスイ、ヤスイヨ」とか、「アナタ、オカネアルカ」とか、日本語を上手にしゃべるんです。 聞いたら、マグロ船が入ってるんです。船員たちから日本語を学んだんですね。

となると、そういう文化は恐らくマグロ船が寄港する他の所にもずっとあるだろう。これは、非常に庶民的な文化で、 今までどこにも知られていない、世界をまたにかけた漁民文化じゃないかと思ったんです。

斎藤さんの『まぐろ土佐船』は、そういった漁民の外交史でもあるし、庶民の生活力のたくましさを描いている 傑作だと思いましたね。それが第一印象でした。

誰かがいつか書くだろうなと思っていたら『まぐろ土佐船』だった。斎藤さんのはまさに、待たれていた先駆者ですよ。

 

  時化の中で揚げた縄にはシャチに食われた残骸だけが

藤田 延縄(はえなわ)でマグロが揚がってくるところや、マグロがシャチに食われてしまうところは壮絶ですね。

斎藤 シャチと人間との戦いですね。延縄というのは、一本の幹縄に釣り針のついた枝縄を、縄のれんのように ぶら下げて釣る漁法で、幹縄の長さは約百二十キロ、東京・三島間ぐらいあるんです。

シャチは延縄にかかったマグロは逃げないということを知っているから、縄に沿ってずうっと食べていく。 食べ終わった後に、またマグロがかかる場合があるから、また戻ってくる。一回シャチにつけられると、漁船は 現場を離れるしかないんです。



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