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有鄰


平成13年12月10日  第409号  P4

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 戦前・戦後の横浜 (1) (2) (3)
P4 ○米屋和吉夫婦の「関所抜け」  金森敦子
P5 ○人と作品  渡辺 淳一と『シャトウ ルージュ』        藤田昌司



米屋和吉夫婦の「関所抜け」
箱根を迂回して鼠坂へ
秋山 駿





  岩手から伊勢参り九十四日の旅

金森 敦子さん
金森 敦子さん
 今年八月、『関所抜け 江戸の女たちの冒険』(晶文社)を出版した。この本は、秋田本荘の中年女性が遺した「参宮道中諸用記」をもとに、近世の女たちが関所抜けをしていた実態を紹介したものである。同書では米屋和吉夫婦の関所抜けについても触れているが、ここでやや詳しく紹介する。

 米屋和吉については一切が不明である。米屋と称しているから、米穀商であったことは確かだろう。旅行中に豪勢な買い物をしたり、商売相手らしい者と対等に歓談したりしているから、かなりの年輩のように思える。

 その和吉が、奥州南部和賀郡黒沢尻新町(現・岩手県北上市)を出発したのは、嘉永六年(一八五三)三月二十六日。陽暦でいうと五月三日にあたる。和吉は旅行中の手控帳に悪天候の時は大風とか雨とか記しているのだが、この日は何も書いてないところをみると、まずまずの日和であったらしい。目的地は、当時の庶民の多くが目指したと同様に、彼もまた伊勢であった。

 奥州道中から日光を見物して江戸へ、そこから東海道に出て、伊勢参宮を果したあとはお決まりの奈良・大坂をまわって京都に出る。戻りは中山道を行って途中から信州善光寺を参拝、越後をひたすら北上して、十三峠から東へ赤湯温泉(山形県南陽市)へ、さらに北上を続けて湯沢(秋田県湯沢市)から東に道をとって故郷に戻ってくるというコースである。 この距離は、ざっと見積もっても六五〇里はゆうに超すはずである。

 成人男子がただ歩くなら、一日一〇里(約四〇キロ)と見積もって、七十日ほどの行程になる。しかし和吉にはお七という連れがいた。おそらく妻であろう。女連れとなると一日に歩く距離はよほど短くなる。だが一日八里ほどを歩いているようなので、お七はそれほどの年齢ではなかったかもしれない。

 この道中記には半襟やらかんざしやらの女物が記されているが、これはお七の買い物だろう。若い妻に「江戸に着いたら大丸で新しい着物を買いたいわ。大坂ではぜひお芝居を見たいし、善光寺もじっくりお参りしたいの。半襟もしゃれたのがあったらお願いね」とせがまれて、目尻を下げている和吉の顔をつい想像してみたくなる。

  無手形でもなんとかなる伊勢参り名目の物見遊山

 江戸時代には領国から出ることは厳しく制限されていたから、和吉は伊勢神宮参拝という名目をつかって、往来手形を手に入れたことだろう。天皇家が祀る伊勢神宮は全国の総氏神のようにいわれ、伊勢にお参りするといえば、領主も反対できなかったのである。しかしそうした旅の実態が物見遊山であることは、往来手形を発行した名主や檀那寺でも十分承知していた。 多くの庶民がそうした名目で旅立ったが、戻ってきて話を聞けば、お伊勢様がどんなに有難かったかという話より、江戸の賑わいや大坂の芝居の話に力がこもっていたからである。和吉の旅もそのようなものであっただろう。

 お七の足を考えても、八十日ちょっとの行程である。江戸や大坂などでゆっくりと過ごしても、九十日ほどで家に戻れると踏んだはずだ。ところがこの二人の道行きは、思わぬことからとんでもない方向に曲がってしまう。

 その原因は、お七が関所を通過できる手形を用意していなかったことにあった。ご存じの通り江戸時代は「入り鉄砲に出女」といわれ、関所では江戸に武器が入ること、江戸から女性が出ることに目を光らせていて、その関所を守っている大名や、幕府の留守居役が出した許可証を提出しなければならなかった。吟味は女性に対してのものだから、男性は必ずしも関所手形を持つ必要はない。

 関所手形を手に入れるには、お七の場合だと、黒沢尻の町役人から町奉行の手を経て、領主南部侯の名で申請書が出されることになる。

 許可がおりるまでにどのくらいかかったかはわからないが、およそ一か月としているものもある。どちらにしろ、おいそれとは手に入らないものであった。あれやこれやめんどうになり、無手形のまま出かけてしまったらしい。

 関所手形を持参しないと差し戻されることを知らなかったはずがない。無手形でもなんとかなることを、知っていたのだ。箱根関所の手前の村では、賃銭を払えば関所横の道を忍び通らせる手引き人がいたという。和吉はこうした情報を、すでに伊勢などに旅した人々から仕入れていたのだろう。金ですむことなら、面倒な手続きをするまでもないと思うのが人情だ。

  厳重な箱根関所をさけて平塚から北上

魚屋北渓「諸国名所 相州箱根関」
魚屋北渓「諸国名所 相州箱根関」
神奈川県立歴史博物館蔵
 二人が東海道藤沢宿にやって来たのは、出発して三十四日目、四月二十九日のことであった。遊行寺を参拝して遅くなってしまったらしく、この日泊まったのは旅籠ではなく、粗末な木賃宿であった。そこには身持ちの悪そうな男たちが集まり、夜通し賭け事をして騒ぎたて、やかましくて眠れなかった。

 翌朝、同宿していた一人の道者(どうじゃ)が、和吉に、「女改めのない道を教えてやろう」と話しかけてきた。道者は参詣人。富士山か大山(おおやま)、それとも身延山の道者であろうか。いかにもこのあたりの枝道に詳しそうだった。

 このまま東海道を西へ行けば、一二里一七丁で箱根関所に出てしまう。関所の手前には、関所抜けを手引きする村があるということは聞いているが、その村が確かにあるのか、そうした手引き人に会うにはどうすればいいのかまでは知らなかったのだろう。

江戸時代の街道
江戸時代の街道
 相州には箱根をはじめ、根府川・矢倉沢・河村・谷ケ(やが)・仙石原・青野原・鼠坂(ねんざか)に関所が設置されていて、どこも女性には目を光らせている。そこに吟味のない道を教えようという者が現れたのだから、まさに渡りに船のタイミングである。和吉とお七はこの道者が言った道を行くことにした。

 その道は、郡内(山梨県東半部)に向かうものだった。教えてくれた道者は博打を打っていた男だった。お七が関所手形を持っていないこともちゃんと見抜いていた。よく考えれば油断のならない相手である。そんな男のいうままに来てしまった軽卒さを、和吉は悔やんだにちがいない。

 不安になって途中から引き返した。道々の茶店で聞くと、確かに鼠坂(相模湖町)の関所に通じる道があるという。そこは厳重な箱根関所と違って、近辺の農民が昼夜ふたりずつ交代で守っているだけである。「女は通さない」という建て前だったが、実際には女性を取り調べるということはないらしい。しかしもう一度向かうには遅すぎた。

  旅籠の口利きで一人一七文で鼠坂の関所を通過

広重「五十三次 小田原」
広重「五十三次 小田原」
神奈川県立歴史博物館蔵
 ともかく、再び東海道に出て、西に向かった。途中で小田原の裏に鼠坂への近道があると耳にして、三十日は小田原に泊まる。ここでその道のことを聞くと、それは平塚だと言われ、翌朝、平塚まで戻った。小田原・平塚間は四里二七丁。半日を無駄に費やしたことになる。しかもこの間には三二〇間の酒匂川が流れていて、輦台に乗らなければならなかった。男性なら肩車されて人足一人ですむが、女性だと輦台を使うことになり、最低でも四人の人足が必要だ。 女性の旅はなにかと物入りになるのが常である。

 ようやく平塚に出て、そこから北上して荻野(厚木市)に泊まった。翌日荻野から田代(愛川町)、関口(相模湖町)を経て、五月二日は阿右衛門宿に泊まった。翌日、ここの旅籠に金を払って鼠坂関所への道案内と口利きを頼んだ。この日は大雨だったと記されている。旅人があまり通らない山道だから、歩くのに苦労したことだろう。

 相州を縦断して鼠坂の関所に着くと、旅籠の口利きで一人一七文を払い、無事通過している。原文には「壱人前十七文ヅヽ、宿手衆案内し表通りいたし」とある。こうした融通できる道があったから、江戸時代の女性も遠くまで旅をすることができたのだ。鼠坂関所を出ると甲州道中はすぐである。

 東海道を行くはずだった和吉とお七は、この後甲州道中を行き、青柳から金沢峠を経て伊奈路を南下することになる。関所改めが厳しい中山道福島の関所を避けるためで、飯田から大平峠を越えて中山道に出ている。この大平越えも「女人道」といわれ、多くの女性たちが忍び通った道である。

 この後も二人は、一度も正規の手続きなしですべての関所を抜け通っている。男ばかりの旅ではありきたりの体験しかできなかったろう。女性連れだと関所を迂回する方法をとらざるを得なくなり、このような起伏のある行程をたどることになったのだ。二人にとっておそらく一生に一度の大旅行は、こうして彩り鮮やかなものになった。故郷に無事戻って来たのは、予定を大幅に超えた九十四日目の六月三〇日のことであった。




 

かなもり あつこ
一九四六年新潟県生まれ。
著書『関所抜け 江戸の女たちの冒険』晶文社2,415円(5%税込)、
『旅の石工』法政大学出版局2,310円(5%税込)、ほか。





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