Web版 有鄰

561平成31年3月10日発行

映画の街・横浜 – 海辺の創造力

梶原俊幸

横浜は海外からの文化をいち早く取り入れてきた歴史的背景がある。映画も例にもれず、日本で初めて洋画の公開をしたのは横浜で、「封切り」という言葉を生み出した。全盛期の1950年代には伊勢佐木町周辺に30~40館もの映画館が存在し「映画の街・横浜」と呼ばれるほどだった。

そんな中、シネマ・ジャック&ベティの前身である「横浜名画座」の開館は1952年、第二次大戦後に接収され、米軍の飛行場となっていた現在の場所に建てられた。1991年、立て直しと同時に、「横浜名画座」から改称し、現名称になった。「横浜名画座」時代も含め、この地で67年もの歴史を持つ劇場である。 

しかし、当時の運営会社の解体により2005年に一度閉館、別の会社がすぐに再開させたものの、すぐには軌道に乗らず、黄金町エリアの町おこし活動に参加したきっかけから、2007年3月から我々が運営を引き継いだ。もうすぐで12年になる。

最初のうちは、なかなかお客さんに来てもらえず、悪戦苦闘の日々だった。もともと、映画業界出身ではない我々素人が運営するのだから当然だった。お客さんや、映画関係者から見たら「どのくらい続くかしら」と思われていたに違いない。

だが、とにかく一人でも多くのお客さんに来てもらおうと、大きな映画館ではかからない小規模だけれど優れた作品の上映にこだわったり、なかなか来てもらえなかった女性に好まれそうな作品を増やしたり、当時はそれほど多くなかった舞台挨拶やトークショーなどの映画だけでないイベントや、コミュニケーション、バリアフリーなどを重視したりと、工夫を続けていた。

それが、2010年くらいから、少し状況が良くなって来た。そういった工夫から少しずつ成果が出てきたと言えるかもしれないが、いま思うと、一番大きな要因は、「映画の街・横浜」の土壌が、映画館を救ってくれたのだと思っている。
 
当館のお客さんたちに交流会などで話を聞くと、シネコンと呼ばれる大きな映画館で上映される映画だけでは満足できず、当館で上映されるような派手な宣伝はしないが良質な映画も好んで見るという方が多い。また、横浜にはかつて多くの映画館があったのに、最近は減ってしまい残念とおっしゃる年配のお客様も多い。映画が娯楽の王道だった時代には、映画館に足を運ぶのは日常的なこと。横浜では映画館をはしごして、たくさんの映画を楽しむ映画ファンが多かったと言われている。「映画の街・横浜」に土壌があり、そういった映画館に足繁く通って下さるお客さんに来てもらえるようになったこと、というより本当は戻ってきてもらえたことが、当館にとっては一番の支えになっている。

今はシネマ・ジャック&ベティを守ることで手一杯ではあるが、いつか映画館をさらに盛り上げ、映画で横浜の町おこしに貢献したいと思っている。また、映画ファンの皆様に「映画の街・横浜」を実感していただけるように。

(シネマ・ジャック&ベティ支配人)

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