Web版 有鄰

521平成24年7月9日発行

評伝考◆人と時代 – 1面

佐野眞一

ノンフィクションの“華”は評伝と事件

ノンフィクションの“華”は、評伝と事件である。そう信じて、すべて事実をして語らしめるこの文芸をずっと書いてきた。だから、事件をテーマにする場合でも、それにからむ人物が魅力的でなければ、それがどんなに大事件でも書く気はしない。

『東電OL殺人事件』も、『別海から来た女――木嶋佳苗 悪魔祓いの百日裁判』も、事件を追うというより、ある特異な人生をたどった女性の評伝を書くつもりで書いた。

“東電”は被害者、“別海”は加害者という違いはあるが、私にとってそんなことはどうでもいいことである。“東電”の渡辺泰子も、“別海”の木嶋佳苗も、要は私のアドレナリンを激しく噴出させたのである。

私は基本的に、過剰なリビドーを抱えている人間か、逆に大きな欠損がある人間にしか興味がない。

“東電”の渡辺泰子にしても、“別海”の木嶋佳苗にしても、人間の最も大切な部分が“壊れ”ている。私を激しく刺激してアドレナリンを噴出させた原因は、そこにある。

なぜ彼女たちは、“壊れて”しまったのか。それが、私がこの作品を書くそもそもの出発点になった。

私がこれまで評伝で取り上げてきた人物をざっと紹介しておこう。

『巨怪伝』(正力松太郎)

『カリスマ』(中内功)

『旅する巨人』(宮本常一)

『凡宰伝』(小渕恵三)

『阿片王』(里見甫)

『乱心の曠野』(甘粕正彦)

『あんぽん』(孫正義)

ここで、これらの評伝を書いた理由を簡単に述べてみたい。

読売新聞の事実上の創業者の正力松太郎ほど、多くの栄冠を付せられて語られてきた人物はいない。曰く日本プロ野球の父、曰くわが国民放テレビの始祖、曰くわが国原子力開発のパイオニア……。

しかし、こうした称号を独り占めした裏に、有能な“影武者”がいたことはほとんど知られていない。その“影武者”の柴田秀利という人物を発見したことが、『巨怪伝』を書くスタートラインになった。

この作品を書き終わってあらためて思ったことは、正力という男の途方もない“大きさ”だった。その“大きさ”を語るために、私はよくこんな例を出す。

「好き嫌いは別にして、正力という男のスケールの大きさはまさに化け物級でした。私たちはいまもまだ、正力の巨大な掌の上にいます。私たちはプロ野球をテレビで観ます。日本にプロ野球をつくったのも、日本にテレビを導入したのも正力です。その勝敗の結果を、翌日新聞で確認します。その新聞界にあって、読売新聞を日本一の発行部数を誇る新聞に成長させたのも正力です。
もっと大事なことがあります。われわれの生活を支える電力のおよそ3分の1が、昨年の『3・11』に福島第一原発事故が起きるまで、原発から送られる電力によってまかなわれてきたことです。その原発を最初にわが国に導入したのも正力だったからです」

しかし、正力のような怪物級の人物にはなかなか出会えない。

“時代精神”を語れる人物かどうか

正力の評伝を書き終わったとき、ある編集者から「今度はナベツネ(渡邉恒雄)を書きませんか、と、言われたことがある。

そのとき、この編集者は何もわかっていないな、と思った。そして、こう言ってその話を断った。

「正力とナベツネでは人間の格が違い過ぎるよ。ナベツネは東京ドームのロイヤルボックスで“大勲位”(中曽根康弘)と冷酒を飲みながらプロ野球を観戦し、ほろ酔い機嫌の真っ赤な顔でスポーツ新聞記者あたりを怒鳴るのが関の山じゃないか。こういう男をふつう“小物”とか“チンピラ”というんじゃなかったっけ。そんなつまらない人物を書くヒマはないね」

同じことは『カリスマ』の中内功を書いた後にもあった。ダイエーの中内功の次はイトーヨーカドーの伊藤雅俊を書きませんか、と言ってきた編集者の不勉強をこう言ってたしなめた上で、その話を断った。

「なぜ僕が中内功を書いたか、君はまったくわかっていないようだね。一言で言えば、中内という男は、“戦後”という時代からしか生まれないから書いたんだ。言い換えれば、中内の体内には“戦後精神”がぎっしり詰まっている。それが流通革命になり、日本初のスーパーを生み出す原動力になった。
君はイトーヨーカドーがダイエーのライバルだから、伊藤雅俊を書かせようとしているんだろうが、僕に言わせれば不見識も甚だしい。伊藤雅俊のような男はいつの時代にもいるよ。腰が低くて如才がなく、算盤高い。そんな商売人は、室町時代にも江戸時代にもいた。逆に言えば、彼をいくら書いても“戦後精神”は見えてこない。悪いけどほかあたってくれないか」

中内は戦時中、フィリピンの激戦地で敵弾を浴びて意識が薄れていったとき、子どもの頃、裸電球の下で家族そろって食べたすき焼きの匂いが甦ってきたという。

そのときのことを振り返って中内は私のインタビューに「もし生きて日本に帰れたら、すき焼きを腹いっぱい食べたいと思った」と正直に語った。その原体験が、安い牛肉を消費者に食べさせたいという“流通革命”の原点につながった。

ここまで述べればもうお分かりと思うが、評伝で一番大事なことは、その人物が“時代精神”を語れる人物かどうかの見極めである。

宮本常一に見た「誇るべき日本人」の姿

私にとって評伝を書く基準は、そのときの有名度とはまったく関係がない。その典型的な評伝の例として『旅する巨人』をあげてみよう。

『旅する巨人』で取り上げた民俗学者の宮本常一は、その当時、知る人ぞ知るといった程度で、決して有名な存在ではなかった。

それでは、なぜそんな男を評伝の対象にしたのか。これは、『旅する巨人』を取材した時代の空気と大いに関係がある。その当時、大蔵省(現・財務省)官僚への“ノーパンしゃぶしゃぶ”接待や、“官官接待”が明らかになるなど、日本人であることが恥ずかしくなるような時代だった。

そのとき、私の脳裏に浮かんだのが大昔読んだ「土佐源氏」の一説だった。

「土佐源氏」は、土佐檮原の橋の下で小屋掛けする盲目の元博労が、宮本に語った哀切な色ざんげである。その最後の「ああ、目の見えぬ三十年は長うもあり、みじこうもあった」という語りを読んだとき、かつてないほどの衝撃を受けた。こんな短い言葉で、人生の深淵を語らせる宮本という男に、子どもながら畏敬の念を覚えたのである。

「土佐源氏」は岩波文庫の『忘れられた日本人』に収録され誰にも簡単に読むことが出来るので、ぜひ読むことをお薦めしたい。

そこから私の宮本常一の読書遍歴が始まった。そして、宮本が類のない民俗学者であることがわかった。

宮本の物心両面にわたるパトロンだった渋沢敬三が、「日本列島の白地図の上に、宮本くんの足跡を赤インクで印していったら、日本列島は真っ赤になる」と言ったのは有名な話である。

私はそんな宮本に「誇るべき日本人」の姿を見た。日本人であることが恥ずかしいと思う時代だからこそ、この“忘れられた民俗学者”を発掘したいと思ったのである。

現職の総理を首相官邸で単独取材

『凡宰伝』も思い出深い。最初、編集者から「今度総理大臣になった小渕恵三について書いてみませんか」と言われたとき、まったく食指が動かなかった。アメリカのメディアなどで“冷めたピザ”と酷評される人間の評伝など書いても仕方がないと思ったのである。

それが一転して書く気になったのは、“ダメ元”と思って出した取材依頼の手紙に対して、小渕首相本人から私のところに“ブッチホン”がかかってきたからである。そのとき、これは案外に“大物”かも知れないぞ、と思った。

現職の総理がフリーのライターの単独取材に応じた例はない。悪名高き記者クラブ制度が邪魔しているからである。そのため、私は首相官邸に入るとき、こっそり裏口から入り、インタビューが終わると、またこっそり裏口から出て行った。

この当時、政局は自民党と連携していた小沢一郎の自由党が離脱するなど混乱の極にあった。そのとき首相が一時間も執務室にこもっているのは、どう考えてもおかしい。

このとき政治部記者たちの間では、首相は公明党と連携を深めるため創価学会名誉会長の池田大作に会っているのではないか、いや、先輩総理の竹下登が入院先の病院から抜け出して政治の指南をしているのではないか、という噂がもっぱら囁かれていた。

私は翌日、新聞で「首相動静」を見て大笑いした。小渕は「誰に会っていたのか?」としつこく聞く新聞記者たちに「日本人だ」と答えていたのである。

私と小渕の間では、しばらくの間、二人で会ったことは内緒にしておこうと約束してあった。小渕はその約束を守ったわけだが、その律儀さもさることながら、小渕のおおらかなユーモアに圧倒されて、小渕の評伝を書いてよかったとあらためて思った。

これには後日譚がある。やっと評伝を書き上げましたという報告の電話を小渕に入れたとき、小渕はいなかった。その日、小渕は脳梗塞で倒れて救急車で順天堂病院に運ばれ、およそ一か月半後に亡くなった。後日夫人からこんな電話が入った。

「主人は佐野さんの伝記がまとまるのを心待ちにしていました。読むことができず往ってしまったのは残念ですが、きっとあの世で読むだろうと思い、『凡宰伝』を棺の中に納めさせていただきました」

このときほど作家冥利に尽きると思ったことはない。

さて、紙幅がすくなくなった。最後に『あんぽん』について簡単に述べておこう。

私は孫正義をなぜ書こうと思ったか。一言で言えば、この男の“いかがわしさ”は、どこからきたかを追求したかったからである。私は『あんぽん』の冒頭にこう書いた。

〈孫正義は成り上がり者だから、いかがわしさを感じるのか。ノーである。
孫正義は元在日朝鮮人だから、いかがわしさを感じるのか。ノーである〉

その回答を知りたい方は、『あんぽん』をぜひ読んでいただきたい。

なぜ、最後にこんな謎かけめいたいことを述べたかと言えば、評伝はその人間の魅力だけでなく、一番ふれられたくない部分も抉り出すノンフィクション最強のジャンルだと思うからである。

佐野眞一氏
佐野眞一  (さの しんいち)

1947年東京生まれ。ノンフィクション作家。

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