Web版 有鄰

521平成24年7月9日発行

帚木蓬生と『蠅の帝国』『蛍の航跡』 – 人と作品

軍医の視点から描いた戦争文学の傑作

帚木蓬生氏
帚木蓬生

「日本医療小説大賞」第1回受賞作

日本医師会の主催で創設された「日本医療小説大賞」の第1回受賞作に、帚木蓬生氏の『蠅の帝国』と『蛍の航跡』(2冊とも、サブタイトルは「軍医たちの黙示録」)が決まり、5月に授賞式が行われた。30人の軍医の視点から「あの戦争」を描いた、戦争文学の傑作である。

「軍医に関する資料を集め始めたのは、九大精神科で医局長をしていた1987年頃からでした。2008年の5月から6月にかけ、段ボール箱2箱分にもなっていた資料を整理するうち、軍医の視点から戦地別に短編小説を書いていったら、太平洋戦争の全体像に迫ることができるのではないかと直感しました」

2008年7月に白血病に罹患していると分かり、入院生活を余儀なくされた。「軍医たちの黙示録」の執筆を始めたのは、2009年後半から。最初に書いた短編は、佐藤幸徳中将の精神鑑定を担当した軍医、山下實六氏の視点から、インパール作戦を描いた「抗命」だった。

「『抗命』では、1978年の『九州神経精神医学』に掲載された山下先生の記事をはじめ、複数の証言をつき合わせることで見えた局地戦の状況を描きました。医師は、知識や技術の共有化のために書く修練をしていますから、軍医の記録は内容が具体的です。ラングーンにひと月滞在して太陽を見たのは2時間未満だったなど、克明な事実がたくさん残されているのに、事実は断片的に散在し、軍医たちの経験は埋もれていくばかりになっていた。私自身、軍医というものは、ごく一部の医師がなるものと思っていました。しかし先の大戦では、ほとんどすべての医師が根こそぎ動員されていたのです」

原爆投下から間もない広島を舞台にした「蠅の街」、沖縄戦を描いた「土龍」、異国の戦地で終戦を迎えるも、なおも病気や飢えが敗戦国の将兵を襲う「蛍」――。計30のどの作品も、短編小説として鮮やかに結実している。

「満州、樺太、中国、ビルマ、南洋の島々へ、将兵と軍医は出征し、一人ひとりの体験は戦地によって大きく異なります。個人的な体験や局地戦を書くのみでは、戦争の全容は見えません。主観によらず、資料から全体像に迫ることができるのは、戦争を直接には知らない、われわれ戦後生まれの作家の強みです」

30年を超える作家生活で初めて、単行本の巻頭に「献辞」をおいた。先の大戦に従軍した、陸海軍の軍医の方々に対してである。

「私が文字の力に初めて胸打たれたのは、少年時代に『きけわだつみのこえ』を読んだときでした。自分が生きながらえることができたら、死者の心情を代弁するような作品を書きたいと考え、作家を志しました。薬も医療器具も不足する中で任務に携わり、戦地で亡くなった軍医もいるのに、その存在は戦後、公正に語り継がれず、忘れ去られるばかりになっていた。戦争の実相とは、この2冊に書いたように、地獄絵そのもの。傷つき、病に倒れる将兵、逃げまどう住民と運命をともにした軍医たちの悲憤を、小説を通して伝えられたと、書き終わって思いました」

小説を書く原動力は”怒り”

1947年福岡県生まれ。東京大学仏文科卒業後、TBSに勤務。退職後、九州大学医学部に学び、現在は精神科医。1979年、『白い夏の墓標』を発表して直木賞候補になる。1993年に『三たびの海峡』で吉川英治文学新人賞、1995年『閉鎖病棟』で山本周五郎賞、1997年『逃亡』で柴田錬三郎賞、2010年に『水神』で新田次郎文学賞など、著書多数。今年6月、日本の黎明期を描いた長編歴史小説『日御子』を上梓した。

「1年に1作と決め、出勤前、早朝の執筆を習慣づけて毎日書き続けています。”二束のわらじ”とよく言われますが、私自身は”作家即精神科医”ととらえ、分けて考えていません。先は五里霧中、どう切り抜けていこうか、登場人物と会話しながら手探りで進んでいく小説の執筆は、精神科医の仕事と同様。人間に寄り添う意味でも、患者さんに対して、登場人物に対しては同じです。私の場合、”怒り”が小説を書く原動力になっています。軍医の方々が公正に評価されていないことに疑問を覚えるなど、怒りを感じることがいくつもあり、小説を通して描きつくさなくては発散のしようがない。自分にしか書けないテーマを、面白くてためになるエンターテインメント小説として書こうと、いつも考えています」

(青木千恵)

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左:『蠅の帝国』 1,800円+税
右:『蛍の航跡』 2,000円+税
帚木蓬生/新潮社

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