Web版 有鄰

509平成22年7月10日発行

生きることは学ぶこと – 1面

福原義春

読書はパワー

読書の大切さは多くの人が実感している。でも読書が子どもの学習や人間の成長にどのような影響をあたえるかについての総合的な調査研究はまだ少ないように思える。それでも脳科学の分野では、読み・書き・計算の反復練習が情緒や表現力、創造力や自己抑制力のはたらきを担う脳の前頭前野をつよく刺激し、活性化させることが解明された。

東北大学教授の川島隆太医学博士の話では、自分の過去をほとんど思い出すことのできなかったアルツハイマー型認知症の98歳の女性に、音読や計算を中心とする教材で「学習療法」をしたところ1年間でほぼ完璧に立ち直った。そればかりではなく、子どものころ、家庭の事情で十分に勉強ができず、悔しい思いをしたことを思い出し、学習に対する意欲が呼び起こされた。その女性は、99歳の誕生日のとき、「英語の勉強をしてみたい」と自ら申し出られ、やがて簡単な日常生活の挨拶は、英語でできるようになったという。

教育界でも、本を読み、国語力を身に着けた子どもは、本を読まない子どもに比べて基礎学力が伸びるという説が有力になってきた。アメリカの言語学者スティーブン・クラッシェン著『読書はパワー』(長倉美恵子・黒澤浩・塚原博共訳 金の星社)は、過去100年のあいだにアメリカ、イギリス、カナダなど世界各国で発表された230余の読書に関する主要な研究論文、著作物、調査結果を分析している。

「自由読書(読みたいから読む)」がキーワードとなっていて、読書についての調査研究の事例がふんだんに紹介され、読書論を考えるうえでよい参考になる。シンガポールの小学生の例を拾ってみる。6歳から9歳までの生徒約3,000人が参加した「読書と英語の学習プログラム」を、3年間にわたって継続して行った結果、このプログラムに参加した生徒は、従来どおりの指導を受けた生徒よりも読解、語彙、口頭発表、文法、聞き取り、作文のテストで優秀な成績を示したという。「読書と英語の学習プログラム」とは、読書体験の共有、言語体験学習、「本の洪水」と呼ばれる「自由読書」とを複合したものだ。

クラッシェンは「読書をたくさんする人ほど良い文章を書く」「読書は最も確実に読解力、語彙力、速読力を向上させる」といい、「読書は、読み書きの技能を発達させる唯一の方法である」とまで断言する。

調査研究の範囲は、家庭の本棚や図書館活動にまで及んでいる。「家庭にたくさんの本があることと、子どもたちの読書量とは深い関係にある。本をたくさん読む子どもほど、家にたくさんの本をもっている」「学校図書館員の配置が読書量に変化を与える」などが実証されたことは、私たちの読書活動の励みとなる。こうした読書の効用を総合的にとらえて、訳者たちは本のタイトルを『読書はパワー』としたのであろう。

読み聞かせと子守唄

クラッシェンの調査研究の成果のなかで、私が注目しておきたいことのひとつは、「読み聞かせは、読み書き能力(リテラシー)の発達において、あきらかに多面的な効果をあげている」という点である。子どもにとって読書環境が大事だというクラッシェンの説に、私は自分自身の体験からも共感できる。

誰もがそうだと思うのだが、私も生まれながらに本好きだったわけではない。クラッシェンがいうように、家庭に本があり、母に物語を読んでもらった幼少期の体験が、青年期とその後の読書体験へと続いた。物語の読み聞かせだけではなく、美しい日本語で編まれた子守唄や童謡もまた、子どもの精神的な成長に欠かせない。このことは拙書『だから人は本を読む』(東洋経済新報社)でも触れてあるので、少し引用し、紹介しておきたいと思う。

「現代の若いお母さんは子どもに子守唄を唄ってやらなくなったという。幼い赤ん坊に聞かせてもどうせわからないのだからだそうだ。でも私の体験では、そのころに植えつけられた画像イメージと物語がほとんど一生の嗜好の土台になっている。子守唄のメロディと歌詞の記憶が子どもたちの感性の成長の援けになるように、読み聞かせがのちのちにプラスになることは間違いないだろう。」

読み聞かせは、いま学校や地域の読書活動の中心となっているが、親子のコミュニケーションや「学びあう家庭」の再生のためにも、いま、日本に求められている活動である。家庭は人びとにとって、もっとも気持ちの安らぐ場であるにちがいない。それと同時に子どもにとっても、大人にとっても、「学びの場」でもあるはずだ。

かつて父や母、祖母や祖父が新聞や本を読む姿から、子どもたちは無意識のうちに学びつづけることの尊さを心に刷りこんでいった。いま、核家族化や情報手段の多様化などで、親の「学びの姿勢」は消え、家庭で過ごす時間は、テレビやゲームにより多く消費されるようになった。子どもだけが学校の宿題やドリルを勉強しなければならない家庭に変わってしまったのだ。

それと比例するかのように、校内暴力やいじめ、不登校や親による虐待が日常茶飯事となった。生徒の暴力を恐れて登校拒否する教師の姿も、めずらしい光景ではない。親と子、教師と子どもの関係を調整する機能が失われている。対話の幅が縮んでいるのだ。この状況を改善するには、読み聞かせや朗読や読書活動を通じて、言葉の力・対話の力を蓄え、言葉のやり取りで問題解決する新たな力を育むことが、遠回りのように見えても、最短距離ではないかと思う。

子どもたちは、読み聞かせてもらう時間が多いほど、音声言葉を聞き取り、自分をとりまく社会の言葉を理解するようになる。親の肉声による読み聞かせで、美しい日本語のシャワーを浴びた子どもたちには、読書を楽しむ人生が待っているにちがいない。

読書による知的連鎖

2010年国民読書年は、読書の楽しさ、面白さをひろく国民に伝えようというものであるが、それはまた、書物の価値を普及する年でもある。書物なくして人類の進歩も発展もなかった。

文字が印刷され、書物が登場したとき、人類は直接的な口伝・口承以外の手段で他者との、広い世界との情報の伝達が可能となった。先人たちの知恵や知識を記録し、伝えることで、人間の知的な成長が促進されたといっていい。本があることによって、私たちは過去に生きた人の歴史や思想、生き方までも学ぶことができるようになったのだ。

私たちの生涯は、悠久の地球の歴史からすれば、瞬きのように短いものである。しかし短い生涯であっても、失敗もあれば、成功もあり、新しい発明や発見もある。そうした個々の人生が社会をかたちづくり、歴史を積み上げてきたのだった。

けれどもそれを記録し、伝える手段がなければ、それ以上の発展は望めない。人の生涯は消えうせ、次世代には何も残されず、積み上げた砂山が、風や波でもろくも崩壊するようにゼロにもどってしまう。書物は、先人たちの人生の失敗や成功、発明や発見を記録し、社会の事象や教訓を、文学や思想にまで高め、次世代に渡してきたのだった。そこに書物の可能性を見て取ることができる。2、3の事例をあげてみたい。

史上最大のベストセラー『聖書』はどうであろう。アダムとイブの創世記からはじまる人間と神の壮大なドラマは、数千年の時空を超えて、いまも全世界の人びとに愛読されている。人間の愛憎や権力、賢さや愚かさを記録した『史記』は、中国の思想を伝え、政治や経済や社会のリーダーをはじめ幅広い読者層を獲得している。千年前の日本女性の高い教養と、みずみずしい感性を伝え、日本文化の基層であるもののあわれを描く『源氏物語』や『枕草子』などは、社会の変化に左右されることのない人間の真理がある。

これらの本の存在によって、私たちは心地よい知的連鎖を味わうことができるのだ。「本」は、ひとりの人生の体験では、とうてい到達できない知性や、賢人が拓いた境地を垣間見せてくれるのである。それだから「本」を読まない愚かな人生だけはえらびたくはない。

本と電子メディア

本は、1,000年以上の歴史を超えて、人間の「知」を伝えるメディアであった。ところがここに来て、電子メディアに情報伝達の主役の座を明け渡すのではないかという見方が強まっている。電子メディアの発達は、文字文化をより豊かにしてくれるか。いまのところ、有限の時間のなかに、パソコンや携帯がしのびこんできて、時間が盗まれているような趣がある。

新たな記録フォーマットの保存性と一覧性の特徴は、まだ検証されていない。電子メディアは、書物のような保存性が数千年の時空を超えて可能なのか。その検証が不十分なまま、書籍文化を衰退させることは、人類のかけがえのない財産を危険にさらすことになる。目先の利益や利便性だけを優先してしまうと、今後より便利なシステムが登場すれば、いまの記録メディアを保存していても、再生は不可能になる。それまでの記録が失われるのである。

他方では、電子メディアは本の世界を補完する可能性も蔵しており、それぞれの性質を見きわめて、活用することが、読み手にも送り手にも問われている。忘れてならないことは、不便性の共有もまた人類の知恵であるということだ。

国民読書年

「文字・活字文化振興法」の制定・公布五周年を記念して、2010年を国民読書年にしようと、2008年の6月、衆参両院は「国民読書年に関する決議」を全会一致で採択した。

この秋には、東京・上野の旧奏楽堂をメイン会場にして、国民的な記念祭典を開催する予定で、いまその準備を進めている。そこにいたるまでのあいだ、新聞社や大学、自治体や図書館関係者などと連携したシンポジウムや講演会を月複数回ひらき、文字・活字文化に関する世論の喚起をはかり、他方では読書教育や図書館政策のありかたなど、中長期にわたる課題を整理し、ポスト2010国民読書年に備えることにしている。

福原義春氏
福原義春 (ふくはら よしはる)

1931年東京生まれ。財団法人文字・活字文化推進機構会長、資生堂名誉会長。
著書『だから人は本を読む』東京経済新報社 1,500円+税、ほか多数。

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