Web版 有鄰

509平成22年7月10日発行

川崎・たちばなの古代史
――寺院・ 郡衙・古墳から探る – 2面

村田文夫

橘樹郡衙の中枢域は川崎市の史跡公園として保存

地域の古代史は、いま非常に面白い展開をみせている。それは昨今の政治的な事情にも似ていて、政府・政権側の硬軟おりまぜた政策と、地域が主張する主権とが幾重にも錯綜しながら展開し、国家としての統治が進められているからである。その舞台を、多摩川下流域右岸の川崎市域と左岸の世田谷区・大田区域や丘陵地の多摩市周辺に設定して古代史を展望した場合でも同様で、語るべき話題は豊富である。

わたしは平成5年に、有隣堂から『古代の南武蔵―多摩川下流域の古代史』を新書として刊行させていただいた。それから十数年、この間に蓄積された地域の発掘資料は枚挙にいとまがない。とくに平成8年に、川崎市高津区千年伊勢山台から橘樹郡衙の一角が発掘され、それを機会に、川崎市教育委員会によって郡衙域確認を目的とした発掘調査が複数年にわたって実施され、その成果が調査報告書として公開された意義はきわめて大きい。

影向寺・薬師堂(川崎市宮前市)

影向寺・薬師堂(川崎市宮前市)

さらに、調査で確認された郡衙中枢域(正倉跡と推定)1652平方メートルが市史跡に指定され、史跡公園として保存・整備された。遺跡が調査後、地上から姿を消さざるを得ない近年の状況下で、調査成果の公開、史跡としての保存整備があわせてはかられたことは、欣快なことこのうえもないことといえる。

近く、有隣堂から上梓する『川崎・たちばなの古代史』は先の『古代の南武蔵』の姉妹編にあたる。ただ前書では、橘樹郡衙研究に関してはまだ端緒しかひらかれていなかった。その点、その姿を確実に地上にあらわした現段階では、語るべき内容も数段豊富になっている。幸い多摩川下流域の古代史を語る機会が再び得られたので、寺院・郡衙・古墳をキーワードに、どこまでが解明でき、なにが今後の研究課題としてのこされているのか、一緒に学んでみたいと思う。

とくに、貴重な仏像彫刻や建造物をいまに伝承し、寺院としての創建も確実に古代にさかのぼる影向寺と、郡衙中枢域が史跡公園として保護・公開されている千年伊勢山台遺跡には、生の実物資料がのこされている。それらの歴史的な意義を考えるテキストとして、表題の書が裨益できれば幸いである。

橘樹郡の郡寺として整備された影向寺

影向寺の寺名は、神仏が瞬時に降臨する状態を「影向」と呼ぶことに由来する。境内に古瓦が散布していることから、大正年間から考古学者によって注目されてきたが、発掘調査をしてその歴史を解きあかす動きは、昭和50年代以降であった。以後、数多くの調査によって次のような歴史像が描けるようになった。

瓦葺の寺院が建てられる以前に豪族の居宅があり、それを改修して寺院として体裁を整えた。現薬師堂の下位には古代の建物跡の基壇がすっぽり納まっている。金堂の基壇であろう(講堂跡説もある)。「影向石」として伝承されてきた巨石は、三重塔の心礎石であった。発掘された古瓦には7世紀末前後と8世紀中頃前後のものがあり、現薬師堂下の建物基壇は後者の時期のものであろう。その時期に、影向寺が橘樹郡の郡寺として整備された。寺号は、郡名を冠した「橘樹寺」であろう。平安前期には、地震などで寺院施設の損壊はあったと思われるが、平安後期には重要文化財の薬師三尊が祀られるなどして法燈は絶えることはなかった。大胆に要約すれば、以上のとおりになろう。

千年伊勢山台に郡衙の正倉、政庁は子母口富士見台か

もう一つ大きなテーマがのこされていた。それは橘樹郡の役所「橘樹郡衙」がどこか、ということである。現憲法は、政治と宗教を切り離す「政教分離」であるが、古代は、その真逆の「祭政一致」であった。郡の宗教的な拠点である寺院がわかれば、周辺に地域政治の拠点である役所・郡衙(郡家)の位置に関心がむくのは当然である。そしてこの問題の決定的な証拠は、平成8年に発掘された千年伊勢山台遺跡からあがった。

千年伊勢山台で建物建設計画による事前発掘をしたところ、郡衙の正倉跡が顔をあらわした。そこは長年捜しもとめてきた橘樹郡衙の一角で、影向寺の位置とは、約350メートルを挟んで東西に並ぶ。まさに格好の位置。川崎市教育委員会では、まず郡衙の広がりを確認するための発掘調査をおこなった。その結果、千年伊勢山台一帯の郡衙関連遺構は、古代・影向寺と並行する時期に設営され、その役割は納税された物資を一旦格納しておく「正倉跡」であった。そうすると、儀式や政務をつかさどる「政庁跡」(郡庁跡)は、他の地域に設営されていたことになる。

そこでわたしは、明治14年(1881年)の迅速図(地形図)では、千年伊勢山台の南東に位置する子母口富士見台が、現在と違って平坦な台地であったことから、そこに政庁跡が設営されていた可能性を考えた。現状は、建物が密集していて、考古学的な遺構・遺物から証明することは容易ではない。しかし状況証拠的には、十分に可能性があると真剣に思っている。以下4項目から推測してみよう。

まず、千年伊勢山台からみて子母口富士見台は、中原街道を挟んで南東に位置し、正倉と政庁は50丈(約150メートル)以上離して設置せよという律令「倉庫令」の規定にかなう。とくに正倉は、政庁よりも高い位置に設置することが肝要であった。

次に、現在の橘樹神社は子母口富士見台の裾野に鎮座する。しかし明治14年の迅速図には、子母口富士見台の突端側に一辺45メートル前後を柵状のもので囲った空間がある。そこが中世・古代にまで遡った郡名神社の「橘樹神社」の跡地ではなかったのか。

整理すると、影向寺台には宗教的な拠点である寺院「橘樹寺」(現影向寺)が位置し、その東方の千年伊勢山台には橘樹郡衙の正倉が設営され、さらにその南東の子母口富士見台には、郡衙の政庁と郡名神社「橘樹神社」が鎮座していた。カミ・ホトケの庇護を受け、郡の拠点は整備されていたという復元案である。

3つ目は、武蔵国は宝亀2年(771年)、それまでの東山道から東海道に所管替えされ、これにより橘樹郡内には小高駅家が置かれた。その位置は、小田中説や新作小高台(谷)説がいわれてきたが、わたしは、古代の『風土記』の記述や、近年における各地の発掘事例などから、小高駅家は子母口富士見台に郡衙の政庁と並立していたものと推測している。つまり現在の中原街道は、旧東海道の道筋を踏襲したもの。

4つ目は、子母口富士見台からは正倉と同規模の建物跡が発掘されている。その性格はまだ十分解明できていないが、鶴見川支流の矢上川の流路が子母口富士見台と至近であることを考えると、水運を利用した物資の運搬も、当然想定できる。つまり橘樹郡の拠点には、陸運と水運も交差した歴史像が復元できるのである。

このような歴史像は当然、前代までの歴史と無縁では醸成されない。その意味で、影向寺台から新作・津田山・末長・梶ヶ谷・馬絹などの地域から発掘される6・7世紀代に築造された高塚古墳や横穴墓の意味は大きい。なかでも馬絹古墳・法界塚古墳の被葬者や後裔は、橘樹郡衙や橘樹寺などの設営に大きく関与していたことであろう。そのような歴史の形成史が、本書を通して一緒に学べれば幸いである。

村田文夫 (むらた ふみお)

1943年川崎生まれ。
元川崎市教育委員会文化財課長。著書『古代の南武蔵』有隣堂(品切)、『縄文のムラと住まい』慶友社(品切)、『川崎・たちばなの古代史』有隣堂 1,000円+税。

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