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平成13年3月10日 第400号 P4 |
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目次 | |
P1 P2 P3 | ○座談会 北斎・広重と東海道 (1) (2) (3) |
P4 | ○ランドマークが見た神奈川の100年取材記 谷川泰司 |
P5 | ○人と作品 北村薫と『リセット』 藤田昌司 |
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ランドマークが見た神奈川の100年取材記 |
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時代の目撃者として歴史の一場面を再現
この企画のテーマは「かつて人や物が集まり、時代を象徴する『ランドマーク』となった建物や施設のうち、今はその 役割を終えて姿を消してしまったものを“時代の目撃者”として取り上げ、神奈川の歴史の一場面を再現する」というものだった。 取材は、まず、題材選びから始めた。ランドマークとは陸標、つまり目的地を見つけるための目印、目標という意味だが、 そうした建物の誕生から終焉を追えば、それが存在した時代が効果的に描けるのではないか。そう考えて、テーマの中に「今は、 もうないもの」という条件を付けた。誕生する背景に時代の必然性があるのと同じように、消えた理由にも、時代が映し出されている はずだと考えたからだ。 だが、あまり知られすぎているテーマでは、読んでいてもつまらない。かと言って、名前を聞いてある程度、思い浮かべられるもので ないとランドマークとは言えない。その加減が難しかった。 きっかけとなったのは東横浜駅のプレート
記事に取り上げた「東横浜駅」の場合、それは、JR桜木町駅の売店の外壁に張り付けてあったプレートだった。しっかりした造りの銘板で、 「ここに横浜市民の台所とも言える貨物駅があった」という趣旨の文言が書かれている。だが、「東横浜駅がここにあったことを忘れないでくれ」 と訴えかけているのに、わざわざ目立たない場所を選んで掲げているのが妙にひっかかった。 JR横浜支社に聞いても設置のいきさつは分からなかった。が、紹介を受けた国鉄OBをたどって、当時の国鉄本社の責任者から事情を聞くことが できた。 駅廃止時、東横浜駅長らから記念碑の設置を求める陳情書を受け取ったが、国鉄合理化の混乱で実現できないまま忘れてしまったという。 それが国鉄民営化後、この責任者がJR関連会社幹部として、偶然、桜木町駅前整備の指揮を執ることになり、ようやく駅長らとの約束を 果たせたのだという。その時、親会社のJRに気兼ねして、設置場所は目立たないところが選ばれたと分かった。 実は、このプレートの謎解きをしているうちに、ほかにも「消えたランドマーク」があるのではないかと考え、思いついたことが今回の連載を 企画するきっかけだった。 題材が決まれば、次は資料集めと関係者からの取材となる。なかでも「証言者捜し」は企画の成否を決めるとも言える最も重要な要素だった。 ある時代を再現するにあたって、ランドマークは舞台に過ぎない。主役はあくまで「人」だ。それを作り、そこで働き、出入りした人たちが、 建物や施設に魂を吹き込み、人々の記憶に残る「ランドマーク」に仕立てたのだから、関係者の生の声がなければ企画が成立しない。 だが、これが一番難物だった。県内は、特に横浜は、関東大震災と空襲、および戦後の連合国軍の占領を大きな区切りに、街の様相が 一変している。資料を調べ、つてをたどっていくのだが、引っ越していたり消息不明になっていたりして、糸がぷっつりと切れることが 度々あった。有力な証言者に出会えず、資料を集めながらも断念した企画もいくつかある。 関東大震災の後、東京と横浜に建設された同潤会アパート
アパートを取り上げるなら住んでいた人の話は是非とも聞かなければならない。戦前の居住者を探すため、建築史の専門家らを何人か 訪ねるうち、貴重なアドバイスを得た。同潤会アパートは、建設当時、家賃が高くて、市や県の幹部や医師でなければ住めなかった。 それなら、戦前の職員録で住んでいた人が分からないだろうか、というものだった。 確かに、尋常小学校の校長や土木局の技師、療養院長、県警の警部補らが、山下、平沼の両方に住んでいた。 山下町の同潤会アパートに遅れること五年、同じ山下町に完成し、「住宅天国」ともてはやされた「互楽荘」に住んでいた人もいた。が、 戦争をはさんですでに七十年近く経過しており、さっぱり行方が分からない。親せきの方にようやく連絡がついても、肝心のアパートに まつわる話は聞けなかった。 唯一、戦前の数年間、山下町のアパートに住み、戦後、横浜市の助役を務めた船引守一さんの御長女とお会いすることができた。 住んでいたのは小学校二年生までだが、何とか記憶の糸をたどってもらい、断片をつなぎ合わせていった。さらに、知人も紹介して いただき、最後の管理人をしていた方までたどり着くことができた。 関係者の証言にはたくさんのドラマや面白い話が
横浜市中区山手町にあった「セントジョセフ学院」に在学したヘンリ・ミトワさんは日本人の母、米国人の父を持つが 大戦中は、米国の日系人強制収容所に入れられた。また、日本に残った兄も「敵性外国人」として根岸競馬場内の収容所に入れられた。 両母国に兄弟が敵扱いされたことについてどう思うかと尋ねると、ヘンリさんは、「戦争なんてそんなものよ」と即答した。 迷いのない答えだった。 セントジョセフと言えば、廃校になる直前の昨年春のある日曜日、最後の校長となったオドンネルさんが、校舎の入り口の階段に じっと座り、見事に咲きそろった校門の桜を飽きずに見上げていたのを思い出す。 また、記事にはできなかった話の中にも、時間を忘れて聞き入ってしまう面白いものがいくつもあった。 例えば、横浜市磯子区根岸にあった「大日本航空横浜支所」を取材した際、戦争中、根岸と南洋を結んでいた飛行艇の 操縦士の方から聞いた、太平洋の島に不時着した時の話。原住民は、なぜか女性だけ。そこに、潜水艦が沈められて流れ着いたという 日本兵がいた。横須賀の基地所属だったというが、一緒に帰ろうと誘っても断り、結局、島に残ってしまう。彼らの名前も、 その後どうなったのかも分からない。 こうした話が、いろんな方から次々と出て来る。まるで目の前で玉手箱が開かれ、閉じ込められていた物語が飛び出してくるような 感じさえ覚えた。 この企画は、計十二人で取材にあたったが、それぞれがこうした出会いと興奮を味わった。 街は新陳代謝を繰り返す生き物 私は神戸に生まれ育った。大学進学後、年に数回、里帰りするだけだったが、帰る度に様相を異にする街の変化の早さには 驚かされた。山を貫く高速道路のトンネルを抜けると、突然、見渡す限り造成された新しい街が広がる。道は予想もしない街 へとつながっていく。港もどんどん埋め立てられて、子供のころの面影もない。まさに街は、「新陳代謝を繰り返す生き物」を 実感させた。 だが、それだけ変化が激しければ、姿を消して、市民から忘れ去られたものも多いはず。いつか、それを調べてみたい、その思いを、 同じ港町の横浜で実現することができたことになる。 神奈川県内の三十五か所を地域別に紹介 この連載を加筆・再編集した『ランドマークが語る神奈川の100年』を、幸い有隣堂から近く出版することになった。 連載はミナト、住、教育・学校、ホテル・旅館、娯楽、運輸・交通、旧軍施設などのテーマでおこなったが、地域別に再構成し、 神奈川県内の三十五か所を紹介している。 連載中は、「これを神奈川の歴史の教科書の副読本にしたい」ぐらいの気負いがあった。いま思えば、おこがましいのだけれど、 それぞれの時代を浮き彫りにし、地域の埋もれていた歴史を少しでも掘り起こすことが出来たのではないかと感じている。 |
たにがわ やすし |
一九六〇年神戸生まれ。 |
元読売新聞社横浜支局次席。現、同社金沢総局次席。読売新聞社横浜支局編 |
『ランドマークが語る神奈川の100年』有隣堂1,890円(5%税込) |