■『有鄰』最新号 | ■『有鄰』バックナンバーインデックス |
平成13年8月10日 第405号 P5 |
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目次 | |
P1 P2 P3 | ○座談会 神奈川近代文学館 (1) (2) (3) |
P4 | ○箱根宮ノ下「奈良屋」旅館 岩崎宗純 |
P5 | ○人と作品 早乙女貢と『会津士魂』 藤田昌司 |
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人と作品 |
敗者の立場で戊辰戦争・明治維新を検証 早乙女貢と『会津士魂』 全21巻 |
無念の思いとは“朝敵”の烙印を押されたこと 早乙女貢氏のライフワーク『会津士魂』(新人物往来社、文庫は集英社)がついに完結した。昭和四十六年から月刊誌『歴史読本』に毎号連載され三十年、単行本として正編十三巻(吉川英治文学賞受賞)、さらに引き続き『続会津士魂』八巻が刊行、全二十一巻となった。 しかもこの間、雑誌休載は一回のみ。それも、作者が日本ペンクラブの仕事で海外に出張したためだ(昨今のように海外からのファックス送信はむずかしかった)。このほどその完結を祝う会が東京会館で行われ、各界から約八百人が参集するという空前の(そして恐らく絶後の)盛況だったのも、 けだし当然だろう。
もともと蒲柳(ほりゅう)の質(たち)であった早乙女氏に、これほどの執念をかき立てたのは、何であったのか。 早乙女氏は会津藩士の子孫である。曾祖父が戊辰の役で会津の戦いに加わり、敗者となった。墳墓の地会津を訪れるたびに、無念の思いで死んでいった三千七人の会津藩士とその子女らの霊魂がしきりに胸に訴えてくるのを感じるというのだ。 会津藩士の無念とは何か。それは戦って敗れたことではない。討幕派によって“朝敵”の烙印を押されたことだ。会津藩は朝敵どころか孝明天皇から最も信任を得ていたという。それを証拠立てる孝明天皇から藩主松平容保(かたもり)あての宸翰(しんかん)がある。実物は日本銀行の金庫に保管されているというが、コピーは現在、会津鶴ヶ城記念館で見ることができる。「会津は朝敵ではない!」という証しのために、松平容保はこの宸翰を竹管に入れて首にかけ、戦ったといわれている。 会津藩が戊辰戦争に巻き込まれ、薩長土肥の官軍を相手に戦わざるを得なくなったのは、「京都守護職」を命ぜられ、尊攘のかけ声のもと洛中洛外で跳梁跋扈していた不逞浪士を取り締まり、そのうえ鳥羽伏見の戦いで長州軍に苦杯をなめさせたからだ。 『会津士魂』は藩内に「京都守護職」を引き受けることに反対意見があったにもかかわらず、〈大君の義一心大切に忠勤を存す可(べ)し……〉とする松平家の「家訓」に従わざるを得なかった経緯から書き起こし、会津落城までを、白虎隊の悲劇も交じえて正編を終え、続編では“挙藩流罪”ともいうべき東北最北端の不毛の地・斗南藩への転封と、それに続く藩士の血のにじむ苦難から、元藩士らの西南戦争への参加までを描いている。 権力と栄耀栄華の夢を求めた人々のクーデター
興味深いのは、この三十年に及ぶ連載の間の、読者の反応の変化である。初めのころ、薩長関係の読者から過激な嫌がらせがあった。「編集部には、『早乙女はけしからん。何だ。おれは薩摩藩士だ。示現流の達人だ。早乙女をたたっ斬る』という電話が毎回かかってきたそうだ。しかしそういう声もだんだんなくなってきましたね」
(藤田昌司)
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