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有鄰


有鄰の由来・論語里仁篇の中の「徳不孤、必有隣」から。 旧字体「鄰」は正字、村里の意。 題字は武者小路実篤。

平成13年2月10日  第399号  P1

 目次
P1 ○戦後横浜 華やかな闇  山崎洋子
P2 P3 P4 ○座談会 仏像修理 (1) (2) (3)
P5 ○人と作品  もりたなるおと『昭和維新 小説五・一五事件』        藤田昌司



戦後横浜 華やかな闇
山崎洋子





山崎 洋子さん
山崎 洋子さん
 一九九七年は、私にとって大きな変化の年だった。三月には夫を癌でなくしたし、八月には五十歳という節目の 年齢を迎えている。

ゴールデンカップスを通して見た横浜


 そんなときに、「ノンフィクションを書いてみませんか?」という、某編集者からの誘いがあった。ノンフィクションは 小説より好きかもしれない。いつか書きたいとも思っていた。だが虚実の混合が許される小説と違って、あくまで 事実重視、雑な性格の私には向いてない。時間も相当とられるだろう。体力を消耗しつくしていた時期だけに自信が なかった。それをあえて受けたのは、編集者から提示されたテーマが「『ゴールデン・カップス』を通して見た戦後の 横浜」だったからである。

 六〇年代後半から七〇年代前半にかけて、音楽業界ではグループサウンズが大ブームを巻き起こした。数えきれない ほどのグループが生まれた中で、『ゴールデン・カップス』は『タイガース』や『スパイダース』と並んでベスト・ ファイブに入る人気グループだった。横浜出身で全員混血、がウリ。そして多少のばらつきはあるものの、メンバーは 私と同世代だ。

横浜市中区の米軍住宅(1952年)
横浜市中区の米軍住宅(1952年)
米国防総省提供
 第一次ベビーブーム世代と称される私達は、戦争が終わってまもなく生まれた。私は地方だったから直接的な戦争の 痕跡は見ていない。でも地方だろうと都市だろうと敗戦国日本は総じて貧しかった。そしていきなり流れ込んできた 「欧米」に目を見張り、その豊かさに圧倒された。アメリカ人は、子供からしてレースのついたカラフルなワンピース、 ブレザーにネクタイというおしゃれな服装をしている。大きなステーキやクリームたっぷりのケーキを食べている。 自家用車に乗り、広い家でホームパーティーを開催し、便利な電化製品を使っている。しかも儒教思想や戦前のモラルに まだ縛られていた日本と違って非常に自由で、個人の権利が認められている——すべてが明るく優れて見え、その反動で 日本という国がすすぼけて見えた。
『ゴールデン・カップス』の誕生にはそうした欧米崇拝が微妙に投影されていた。 なぜなら当時の横浜には米軍基地があり、日本のどこよりも早く欧米文化が入ってきた。それをいち早くステージに 乗せるグループ、日本のアメリカであった横浜の匂いのするグループ、しかも外国人の血が混じっているグループであった ことが、売り出しのキーポイントだったからである。「ぼくはハーフじゃないですよ、日本人です。アメリカと日本の 混血ってことにされちゃったから、まあ別にいいかと、そのままにしてただけで……」

ゴールデン・カップス
ゴールデン・カップス
(左からルイズルイス加部、ケネス伊東、デイブ平尾、マモル・マヌー、エディ藩)1967年頃
 ドラムスのマモル・マヌーは言った。背が高くて整った顔立ちだから、確かにハーフと言っても通じそうだ。ヴォーカル のデイブ平尾も日本人。あとから参加したキーボードのミッキー吉野も日本人である。とはいえ外国の血は確かに入って いて、リードギターのエディ藩は華僑、サイドギターのケネス伊東はハワイ系アメリカ人との混血、ベースギターの ルイズルイス加部は母親が日本人、父親がフランス系アメリカ人だ。

 しかし、デイブ平尾の生家は外国船相手の大きなクリーニング屋だったし、ミッキー吉野は近所に進駐軍の軍属の家が 多くて小さい頃から外国人の友達が多かったし、マモル・マヌーも基地勤めの親戚がいて早くからPXなどに出入りして いたというから、あの時代にしては国際感覚豊かなメンバーであったことは事実だろう。

 戦後まもない頃の横浜にはおびただしい数のハーフが生まれた。彼らは「あいのこ」と呼ばれて差別を受けることも 多かった。それが六〇年代になると「ハーフ」と呼び変えられ、モデルやタレントとして活躍するようになった。

 日本人の欧米崇拝は高まるばかりだったから、彼らの欧米的容姿は憧れの対象になった。音楽的評価はグループ サウンズの中でも断トツと言われた『ゴールデン・カップス』だったが、レコード会社としてはついでにハーフ・ ブームにも乗せちゃえ、というところだったのだろう。

 しかし、こうして社会に受け入れられたハーフはいい。生まれてきたものの、父には認知されず、母も生活力がなく、 孤児院へ入ることを余儀なくされた人達もたくさんいた。それでも無事に育ったならいい。もっと悲惨な例があったことを、 私は取材中に思いがけず知ることになった。

根岸外国人墓地に眠る混血の嬰児たち


 エディ藩さんから作詞を依頼されたのは、『ゴールデン・カップス』の取材を始めて三か月たった頃だった。 「赤ちゃんがねえ、埋まってるらしいんですよ。そこに慰霊碑を建てるから歌がいるんですよね」

 というわけのわからないものだったが、あとから山手ライオンズクラブの人が現れて説明を聞くに至り、 ようやく内容がわかった。

慰霊碑
根岸外国人墓地に建立された慰霊碑
(横浜市中区)
 根岸線山手駅の近くに根岸外国人墓地がある。山手の外国人墓地と違い、横浜の人にさえあまり知られていない。 関東大震災の被害にあった外国人などが埋葬されているが、戦後はほとんど放置されたままで、一時はボランティア まかせになっていたことさえあるようだ。そこにじつは、戦後の混乱期に生まれ、死体で遺棄された混血の嬰児が 八百体から九百体も、非公式に埋まっているというのである。「山手外国人墓地に夜毎、遺棄されてたのを、当時の 墓守りさんがこっちへ持ってきて埋めてあげたらしいんです。ほとんどが進駐軍兵士と、当時、パンパンと呼ばれた 日本人娼婦との間にできた子供だったようですね」

 という話に、私は衝撃を受けた。私の世代は日本の高度経済成長と共に大人になり、昔、憧れたアメリカ人の生活 さながら、ステーキも食べるし、海外旅行へも行けるようになった。が、同じ頃、日本に生まれながら、生きること ができなかった子、生きることを許されなかった子が、こんな形で身近な横浜に埋められ、その事実がほとんど闇に 葬られていたとは……!

 墓地に慰霊碑を建立することで彼らの霊を慰めたい、またこのことを戦争にまつわる歴史のひとつとしてより多く の人に知ってもらいたい、という山手ライオンズクラブの意を受けて、私が作詞、エディ藩さんが作曲と歌を受け持ち、 その年の秋には「丘の上のエンジェル」というチャリティCDが出来上がった。地元のマスコミにも取り上げていただいた。 ところが墓地を管理している市の衛生局がこれに怒り、山手ライオンズクラブに慰霊碑建立無期延期という通達をしてきたのである。

 嬰児が埋まっているというのは噂に過ぎない、そんなことが広まると横浜のイメージが悪くなる、というのが衛生局の 言い分だった。あの墓地に関する資料をみせてくださいと私はお願いしたが、そんなものはないと一蹴された。 では私は無責任なチャリティーに加担してしまったのだろうか—。それならいさぎよく訂正せねばと、できる限りの 取材をしてまわった。幾つもの謎にぶつかり、たいへんスリリングだったが、枚数がないのでここではそれを詳しく 書けない。興味を持たれた方はぜひ、拙著『天使はブルースを歌う』をご一読いただきたい。ひとつだけ確信を持って 言えるのは、取材の結果、嬰児大量埋葬の話に充分な信憑性があるということである。

 慰霊碑は翌年の五月、嬰児達のことを碑文に入れないという条件で建った。それから一年ほど後、墓地へ行ってみると、 嬰児が埋まっているとされるあたりがきれいに整備され、柵までできていた。なぜここには柵があるのかと管理人に 尋ねてみると、「この下には八百体以上もの嬰児が埋まっている。その上を踏んで歩くのは不遜だから」という返事が 戻ってきた。そんなものはないと衛生局の人が言ってましたよ、と何もしらないふりをして言ってみたら、「なに言ってるんだ、 ちゃんと名簿まであるんだから確かだ。嘘だと思うなら衛生局へ行きなさい!」

 と叱られてしまった。その名簿を作ったのは、ここに小さな十字架がびっしりと立っていた頃の管理人さんである。 彼からその話を聞き、名簿を見せてもらおうと衛生局にかけあったが、そんなものはない、と言下に否定されている。 箝口令は現場の管理人まで行き渡ってないようだ。

 私の取材は『ゴールデン・カップス』から根岸外国人墓地へと広がっていったが、それはむしろ、自分が生まれて 生きてきた五十年を考えるにおいて、ありがたい広がりだった。世紀は新しくなったが、過去に起きたことを忘れて しまうわけにはいかない。「イメージ」などという簡単な言葉で葬り去ることはできない。むしろ掘り起こして礎に することこそ大切なのではないだろうか。




   

やまざき ようこ
一九四七年京都府生れ。
著書『花園の迷宮』講談社文庫650円(5%税込)、『天使はブルースを歌う』毎日新聞社1,785円(5%税込)、ほか多数。






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