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有鄰


有鄰の由来・論語里仁篇の中の「徳不孤、必有隣」から。 旧字体「鄰」は正字、村里の意。 題字は武者小路実篤。

平成14年5月10日  第414号  P1

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 横浜港大さん橋 (1) (2) (3)
P4 ○横浜・野毛−大道芸人がやって来る街  森直実
P5 ○人と作品  阿川佐和子と『いい歳 旅立ち』        金田浩一呂

 座談会

横浜港大さん橋 (1)
−国際客船ターミナルの完成−

   前横浜市港湾局長(現企画局長)   金田 孝之  
  文化庁主任文化財調査官   堀   勇良  
  クルーズアドバイザー   上田 寿美子  
              

はじめに

編集部
完成間近の大さん橋国際客船ターミナルと「クリスタルハーモニー」
完成間近の大さん橋国際客船ターミナルと
「クリスタルハーモニー」
(手前が象の鼻)
横浜港は安政六年(一八五九)の開港以来、日本の海外への窓口として発展してきました。港にはその用途によってさまざまな施設が設けられています が、大さん橋は横浜港の最も重要な「海の玄関」として、たびたび改修と整備が行なわれてきました。

この五月三十一日に、横浜港の大さん橋はほぼ十五年に及ぶ整備事業により、日本を代表する客船ターミナルとして新しく生まれ変わることになりました。

本日は大さん橋の歴史や、新しい客船ターミナルをめぐって、お話しいただきたいと思います。

ご出席いただきました金田孝之様は、横浜市港湾局長でいらっしゃいます。横浜港は横浜市が管理しており、客船ターミナルの再整備事業なども港湾局によって推進されております。

堀勇良様は、文化庁主任文化財調査官でいらっしゃいます。以前、横浜開港資料館にお勤めで、明治の中ごろに横浜港の改良計画を立案したヘンリー・パーマーの研究者で もいらっしゃいます。

上田寿美子様は、日本で数少ないクルーズアドバイザーとしてご活躍で、世界各地の港を訪れ、船旅の楽しさなどについて、レクチャーをしていらっしゃいます。


ペリーが上陸したのは大さん橋のごく近く

篠崎  まず横浜に最初に港がつくられたのは、現在の大さん橋の辺りですか。

堀 
座談会出席者
左から上田寿美子さん、金田孝之氏、
堀勇良氏
確かに横浜の大さん橋の位置は、基本的には変わっていません。

横浜開港のきっかけは、安政元年(一八五四)にペリーが横浜に上陸し、日米和親条約を調印したことから始まります。ペリーが上陸した地点は、正確には わかっていませんが、調べたところ、ほぼ日本大通りの突き当たり辺りであろうと思われる。大さん橋がつくられた地点そのものではないけれども、ごく近い所であろうと。そういうことを考えると、ペリーのほうも日本のほうも、横浜の港として、アクセスするのに一番いい場所は 最初からわかっていたんじゃないかという気がします。横浜の港はそこを中心として発展してきたし、その象徴として大さん橋があると言えるんじゃないか。

港の要件を考えるときに、一つは、大きな船の停泊地として、それなりの広さがあるかということ。もう一つは、大きな船が泊まれるだけの水深が確保されているかということ。それから、船が泊まれる場所が容易につくれるかということ。そして、陸地のほうも港町として発展するだけの平坦地があるかということになると思うんです。

これらは結構矛盾した条件でして、後背地が広いと、海は遠浅で水深がない。逆に水深があると、急に山から海になる所で後背地がないということになる。けれども、横浜は大きな川もないし、すぐ土砂で埋まることもない。ですから、横浜は地形的に非常に恵まれている所に、うまい施設がつくられてきていると思います。

 

  最初の本格的な港湾施設が大さん橋

堀 
開港当時の波止場
開港当時の波止場
(五雲亭貞秀「再改横浜風景」部分)
神奈川県立歴史博物館蔵
安政六年に横浜が開港したときは大さん橋の根元に二つの小さな突堤があっただけです。そこから片方の突堤に大さん橋をつくっていく工事が、明治二十二年に始まったパーマーによる築港計画です。第一期目の工事ですね。

そのときは、先ほど言った港の条件から言うと、まず一つは安定した港、船が停泊できる場所を確保するということで防波堤をつくる。現在の内防波堤です。

それから、大きな船が停泊できる場所ということで大さん橋がつくられ、もう一つは囲われた港湾域に土砂がたまらないように、帷子川の出口の所に馴導堤と呼ばれた堤防がつくられた。

ただ、桟橋だけでは、荷さばきが十分にできないので、荷さばきを中心とした港の施設として、大さん橋の西側に新港ふ頭がつくられる。岸壁に直接船が接岸して荷物の積みおろしができ、かつ、そこまで鉄道を引き込んで物資を速やかに運び出す。

新港ふ頭が、桟橋ではないタイプの港の施設として、日本では初めて横浜でできた。以後、山下ふ頭も、本牧ふ頭も、同じようなタイプでつくられていく。戦後のコンテナヤードができるまでは、こういうタイプのものができていった。

港の原型をたどっていきますと、本格的な港湾施設の最初のものとして大さん橋があり、第二期工事は明治三十二年に始まり、日露戦争で一時中断しますが、新港ふ頭が竣工する大正六年までです。

 

  桟橋形式ではなくなった現在の大さん橋

堀  大さん橋の供用開始は明治二十八年四月ですが、最初は旅客上屋はありませんでした。大さん橋に旅客上屋ができるのは第二期築港工事の最後、大さん橋の拡張工事の際で、大正六年十二月です。 この最初の旅客ターミナルは木造二階建の二棟で、関東大震災の後は鉄筋コンクリートでつくられる。さらに東京オリンピックのときには建てかえられ、そして現在進行中のターミナルになっていく。

そういう流れのなかで、今回大きく変わった点は、かつては大さん橋という桟橋形式の、下は海水が流れるタイプでしたが、現在は埋め立てられているんですね。



金田  真ん中の部分の約五十メートルですね。

堀  構造的な意味で言うと桟橋形式ではなくなったところが大きな違いだと思う。それからもう一つ、昔は海から大さん橋にアクセスするときには、正面奥に富士山が見え、近づくとキング(神奈川県庁)、 クィーン(横浜税関)、ジャック(横浜市開港記念会館)の塔が見えてくる。富士山は自然地形ですが、町のつくり方は、大さん橋に入ってくるアプローチを意識したつくりがなされているのが、他では体験できない港なのかなと思いますね。

 

  慶応の大火後に延長されてできた「象の鼻」

編集部 どんどん新しく変わる反面、象の鼻のような古い遺構も残っていますね。

堀  開港時の二本の突堤が慶応の大火後の都市改良計画にそって延長されたのが象の鼻です。沖合に船が泊まり、はしけで荷物の積みおろしをするためのはしけだまりの空間みたいなものが、象の鼻とその向かいにある。要するにその小さな水面が、国際港・横浜の最初の施設だった。そこを原点として大さん橋ができ、新港ふ頭ができた。

ベイブリッジの下に赤灯台(横浜外防波堤北灯台)と白灯台(同南灯台)がありますが、そこが横浜港の工事から言うと大正から昭和期にかけての三期目です。ですから横浜港は、象の鼻、内防波堤、外防波堤と、港の発展を示す施設がよく残っています。



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