【Book】4/10発売 喜多嶋隆『F しおさい楽器店ストーリー』に寄せて

「ただいま、が似合う小説」
喜多嶋隆『F しおさい楽器店ストーリー』に寄せて
潮風の作家、喜多嶋隆は葉山の真名瀬漁港を見下ろす部屋で作品を生み出してきた。
この“しおさい楽器店ストーリー”シリーズもまさに舞台は真名瀬。
漁港の近く、すぐ目の前が砂浜の小さな楽器店とそこで暮らす人々が主役だ。
訪れたことがある人ならわかると思うが、葉山というとリゾートな観光地のイメージもあるかもしれない。
けれども真名瀬のあたりはいわゆる漁港のある小さな集落、といった感じで派手さはない。
東伊豆の出身の自分からすると、ふるさとに帰ってきたような雰囲気だ。
目の前の太平洋(相模湾)から吹く潮風とふりそそぐ太陽。きらきらと輝く水面。
潮で洗われたようなちょっと錆びれた海辺の町の風景。
この小説にもそうした生活感のある風景がとても自然に描かれていて、読み始めると思わず「ただいま」と言いたくなる。
フィクションの作品を読んでいてそう思うことはあまりない。
シリーズも6本目。ストーリーも佳境に差し掛かる頃だろう。
けれども、ドラマティックな結末とか、どんでんがえしのようなある種の小説的奇抜さはこの先もないような気がする。
“しおさい楽器店ストーリー”は音楽や人生にまっすぐ向き合う人たちの物語だ。
本文中にも「音楽にかかわるって事は、人生にかかわるという事だからな」というセリフもある。
音楽に限らず、この小説で楽器店に集まる人たちは、つつましく等身大の人生を送っている。
本当の幸せというのは、たとえば葉山沖でカワハギが釣れたから今夜は美味しい鍋にしよう、とか、アルバイトで家計を助ける母子家庭の少年が楽器屋であこがれのギターを弾かせてもらう、とか、家族から置いてけぼりにされた少女の透明な歌声がもしかしたらたくさんの人々の心を震わせるかもしれない、とかそういう小さいけれど確かな奇跡のような事だろうとこの小説は言っているような気がする。
現実は小説よりも奇なり、とは言うけれど、人生は映画のような派手なアクシデントやミラクルばかり起こるわけじゃない。
うっかり見逃してしまいそうな偶然の積み重ねで人生のストーリーは止まることなく進んでいくんじゃないだろうか。
シリーズ3作目の『C』のレビューにも書いたけれど、今作でもTHE BEATLESのThe Long and Winding Roadがサラリと流れる場面がある。
歌詞では、「かつて訪れたことのある道、置き去りにされた場所、僕を待たせないで君の扉へ導いておくれ」となっている。
人生は前に進むばかりじゃない。ときに立ち止まったり、来た道を戻ったり、だれかが歩んだ道を辿っていくこともあるだろう。
でも、きっと誰もが分かっている。進むべき場所、帰るべき場所を。そんな事を感じたと書いた。
このシリーズのテーマ曲があるとしたら、この曲なのかもしれない。
この小説を読んで、多くの人がある種の懐かしさを覚えるとしたら、
その“長く曲がりくねった道”の先にあるのは、誰もが持っている心の中のふるさとなのかもしれない。
ただいま。
おかえり。
STORY STORY YOKOHAMA
名智理
『F しおさい楽器店ストーリー』
2025/4/10(木)発売
特典付きサイン本予約
https://story-yokohama.com/items/67ca771c720e985637022956
シリーズのレビューなど
「C しおさい楽器店ストーリー」喜多嶋隆/光文社文庫 Yomeba!より
https://yomeba-web.jp/special/bflat/
2023年4月「Dm しおさい楽器店ストーリー」喜多嶋隆/光文社
https://www.kanaloco.jp/news/culture/bunka/article-1003476.html
2024年5月「E7 しおさい楽器店ストーリー」喜多嶋隆/光文社
https://www.kanaloco.jp/news/culture/bunka/article-1075108.html