Web版 有鄰

416平成14年7月10日発行

北原亞以子と『妖恋』 – 人と作品

民話の視点で人間の内奥を透視した現代小説

北原亞以子
北原亞以子

永遠に変わらざる人間の業

『妖恋』(集英社)は時代小説作家として知られる北原亞以子さんの、新境地を示す現代小説だ。しかも多くの日本人になじみの深い民話の視点で人間の内奥を透視しようとしており、そこから見えてくるものは、永遠に変わらざる人間の業だ。作品は2篇、「雪女」と「道成寺」。

「こういう着想は二十数年も前からあって、温めてきたのです。民話には子供の頃から関心があって、講談社の絵本などで親しんでいたんです。それに少女時代、戦争で東京から千葉の田舎に疎開して暮らすようになって、生活の中に民話があるような、民話的な風土の中で暮らしたことも大きいですね。満月が出ればムジナが化けて月になったという話などを聞きながら育ったんですから」

「雪女」は冷たい雪の精といわれる伝説中の妖女に仮託して展開される。主人公は雪深い北陸の山あいの小さな温泉場で喫茶店のアルバイトをして暮らす若者と、レイコという女のコンビ。

若者は日本での生活に絶望して大学を中退、人魚姫に一目会いたくてデンマークを訪ね、そこでレイコと知り合った。レイコは失恋中だった。2人はロスキレという小都市が気に入り、近い将来2人でこの町に住もうと約束する。

そして帰国後、その夢を実現させるため、東京の下町で銀行の現金輸送車を2人で襲い、首尾よく7千4百万円の大金を手にする。そして、そのほとぼりが冷めるまで、北陸の町に身をひそめているのだ。

だが、それから先が計画どおりにはいかなかった。レイコの心が男から離れていくのだ。人魚姫の場合は裏切ったのは王子だが、この場合、裏切ったのは女。しかもかの女は奪ったカネの半分を分け前として要求する。男の内部に次第に殺意が高まってくる……。

〈僕は足許に落ちていた石でレイコの頭を殴り、倒れた彼女の首を手で押えて息をとめた〉。だが男も生き延びることができなかった。雪の中で白い影のような女が近づいてくる。「キスして」。白い影が肩に触れる。熱(あち)――。だがそれはとび上がるほど冷たい感触だった。白い影にくるまれて男は――。

「雪女は男を殺すのです。私はここで女の本性みたいなものを伝えたかったのです」

北原さんはこの作品を書くためにデンマークへ行って人魚姫に会い、ロスキレの町も訪ねたというから、相当な念の入れようだ。

現代の男女の業を仮託して描く「道成寺」

もう1篇、「道成寺」は、安珍・清姫の悲恋物語として知られているが、作者はこの物語に現代の男女の業を仮託して描いている。

歌舞伎や能にも劇化されているこの民話は、美僧安珍に裏切られた清姫がどこまでも後を追い、蛇身と化し、道成寺に逃げ込んで助けを求める安珍が大きな釣り鐘の中にかくまわれれば、蛇身となった清姫がその鐘に巻きつき、ついには炎と化すのだが、現代版道成寺に登場するのは、晶子という結婚に失敗した女と村松真哉という年下の学生。ある機会から、一緒に「道成寺」の能を見たことから親しくなり、真哉は晶子の家に通いつめるようになる。晶子は活花と茶道の師匠をしている一人暮らしだ。

だが、たちまち真哉の熱はさめる。晶子のもとに寄りつかなくなり、携帯電話も通じなくなる。晶子は清姫の心境となって追い廻し、真哉がクルマでキャンパスに来ていることを知って近づいていく。その瞬間、真哉のクルマは急発進し、晶子はハネ飛ばされて重傷を負う。

裕福な真哉の両親からは丁寧な見舞いがあるものの、晶子は真哉を断念しきれず、ますます執着していく。大学も中退し、就職した真哉の先々に現れて、かれの人生を狂わせていくのだ。

「雪女」が幻想的な世界なのに対し、「道成寺」は現実にありそうな、迫力に満ちた作品だ。真哉の人生を狂わすだけでなく、晶子自身の人生も共に狂ってしまう。家も手放し、貯えも払底する。だが、〈後悔はない。未練もない。ただ、一つだけわからないことが、まだ胸の片隅にひっかかっている。なぜ、あなたはそこまで必死に逃げたの?〉

本書のサブタイトルには、「日本民話抄」とある。というからには、2篇だけでは物足りなさを禁じえない。

「実は、シリーズで書いていこうという腹積りはあるんです。単なる時代小説や現代小説では描けない世界が民話を重ねると見えてくるんです」

北原さんの新境地、これからも楽しみだ。

(藤田昌司)

『妖恋』・表紙

妖恋
北原亞以子/集英社/1,600円+税

※「有鄰」416号本紙では5ページに掲載されています。

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