Web版 有鄰

410平成14年1月1日発行

[インタビュー]城山三郎と戦争文学

作家/城山三郎
文芸評論家・本紙編集委員/藤田昌司

城山三郎氏

城山三郎氏

はじめに

藤田城山三郎さんは昭和32年に『輸出』で文學界新人賞を受賞され、文壇に登場されました。愛知学芸大学(現愛知教育大学)で教鞭をとられながら作家活動を始められ、昭和33年には『総会屋錦城』で直木賞を受賞され、『小説日本銀行』『毎日が日曜日』などの経済小説、『勇気堂々』『落日燃ゆ』などの政財界人の伝記小説を数多く発表されております。

しかし、もともと軍国少年だった世代に属する城山さんの原点は戦争文学で、その周辺の作品がたくさんあり、昨年出された『指揮官たちの特攻』も大変な反響を呼んでおります。そこで本日は「城山三郎と戦争文学」というテーマで城山三郎さんに、お話を伺いたいと思います。

戦争体験から起こった大義への不信

藤田『指揮官たちの特攻』を読ませていただいて、久しぶりに感動を深くしたんですが、ただ、本の帯を見て非常にショックを受けたのは、「これが私の最後の作品となっても悔いはない」と書いていらっしゃる。

城山新潮社の『波』のインタビューの中で話しているところを抜き出したんですね。

藤田そのお気持ちは……。

城山戦後、生き残って思ったのは、とにかくむちゃくちゃな戦争下の強いられた生き方と生活だけは書き残しておかなくてはいけないと。そのために生き残ったんだから、戦争ではこういうことが起きたということだけをきちっと書けば、どうせあのとき死のうと思っていたんだから、もう自分の人生は終わっていいと。そういう意味なんです。

組織の論理と人間の幸福がテーマ

藤田城山さんは昭和20年3月に名古屋の生家を空襲で焼かれ、4月に愛知県立工専に入学して徴兵猶予となったのを返上して、5月に海軍特別幹部練習生に志願入隊されたんですね。まず『大義の末』が、城山さんの原点を示す作品だと思うんです。杉本五郎中佐が書いた『大義』に感動して予科練(飛行予科練習生)に入隊した少年兵が、敗戦、戦後民主主義という価値観が激変する社会でどう生きたかを描いた作品ですが、主人公は城山さんの分身と見てよさそうですね。

城山今、大義というのは死語ですものね。『大義の末』を書いて、まず一段済んだわけですが、いろいろ書いて大義はなくなったと思っていたら、例えば商社の社員の場合は、輸出立国という大義のために単身で外国に出され、大変な苦労をしてやっと帰れると思ったら、ドルがもったいないから、「おまえはアメリカにいるけれど、今度はブラジルに行け」と。家族の顔もまた見られないということで発狂する人もいる。大義というのはいろんな時代にある。

変わってはいけないから大義なのに、大義はいかに変わりやすいものなのか。そのときは絶対変えられないと思っていたのに、民主主義の大義に変わっていく。だから、そういう怖さと、その中に生きる人間の葛藤は書いておきたいので、それが経済小説と言われるものになったり、政治家にかかわる小説になったりしたわけです。

ですから、原点はすべて戦争体験から起こった大義への不信ですが、そこから、組織の中で人間が生きること、特に組織の論理と、人間の幸福とはどうなるのかということをテーマにして書いてきた。それが大体一段落して、書くべきことは書いたので、悔いはないということです。

戦争文学を書ける作家が少なくなった

藤田今、こういう戦争文学を書ける作家が少なくなりましたね。戦争体験を持っている作家は、城山さんと同世代ぐらいでしょう。吉村昭さんが、最近『東京の戦争』を書かれたけれども、あの方は体が弱かったので、あくまでも東京での被災体験ですね。古山高麗雄さんも、『反時代的、反教養的、反叙情的』を書かれていますが、これは兵隊の劣等生体験。それからやや普通の兵隊を書いているのは、伊藤桂一さんですね。

城山桂一さんはこのごろ書かれませんね。

藤田昔、水上勉さんは輜重(しちょう)兵でしたから、その体験なども書いていましたが、最近はもう書いておられない。

戦後50数年たったとはいうものの、戦争で厳しい体験をされた方がいる。もう一方では、バブルがはじけ、自分たちが信じていたものがいつ足元から底割れするかわからないという不安感、不信感があって、そういうものに対して生きる男の美学というか、卑怯な生き方はしたくない。それには男はどうすればいいかというとき、戦争文学から学ぶしかないと思うんです。ただ、戦争で非情な振る舞いをしたということだけでは余り、文学のテーマにはならないですね。

城山僕としては、書きたいテーマは書いた。特に大義の問題については、書くべきことは書き尽くした。だからジョン・スチュアート・ミルの言葉じゃないけれど、「マイ・ワーク・イズ・ダン」ということです。

『指揮官たちの特攻』-対照的な2人の大尉の生きざまを描く

『指揮官たちの特攻』・表紙

『指揮官たちの特攻』
新潮社

藤田城山さんの作品を読んでいつも感じるんですが、取材は半端じゃないですね。

城山僕は現場をただこつこつ歩いて回るんです。

藤田とにかく歩かれていますね。書斎で資料を見て書くのとは違う。そういう意味でも、『指揮官たちの特攻』のトップシーンには感銘しましたね。ハワイのオアフ島の最北端に行かれて取材されたんですね。昭和16年12月に日本がパール・ハーバーを攻撃した時、住民たちはベランダや屋上に出て日本の攻撃を見ていたという箇所。僕はみんな怖がって地下に潜っていたのかと思った。

城山それほど日本の攻撃は正確だったんですね。自分たちには関係ないと、みんな出てきて見ていた。しかも無差別攻撃ではなく、軍事拠点だけを攻撃したわけです。

それでタクシーの運転手が言うには、「それでは戦意高揚にならないから、米軍機か米海軍が漁船を沈めて死者を出したり、あるいはハイウェイを走っている車をわざと撃って、日本機が襲ったというようなでっち上げをしたと言う人もいた」と。

そのくらい日本の攻撃は軍事目標に限って正確に行われたんです。

現場に行ったか行かなかったかは活字に出る

藤田真珠湾攻撃について昨年、ルーズベルト大統領は日本の奇襲を知っていたという『真珠湾の真実』が出版されましたね。これは、アメリカの退役軍人が資料を調べたり、側近にインタビューしたりして、ルーズベルトは全部知っていたということを書いていますが、それでも今のような生きた話は出てこない。

城山資料だけで書くとそうなりますよね。

藤田ですから、作家の目は普通の歴史家の目とは違うんでしょうね。日本人に対する敵がい心をかき立てるために、漁船を沈没させて、日本人がやったことにしているというような話が出てくる。うわさ話でも、火のない所に煙は立たないですから、こういう話が出てくるのは作家の力だと思いますね。

城山作家は行ける所には行くべきですね。ノンフィクション賞の選考をしているときに、面白いなと思った作品でも一番肝心な場面が弱い。わかるんですよね。後でその作者に聞くと、行ってない。やっぱり行くと違うんです。活字に出てくる。行ったか行かないかというのはわかりますよ。

藤田そうです。新聞記者も現場に行けと言うし、刑事も現場百回と言うし、作家もそうですね。やっぱり現場を踏まないと本当の臨場感のある情報は……。

城山何にもなくても、そこへ行って空の雲を見たっていいんです。それが違うんですよね。

藤田取材で、戦争体験を語る人が非常に少なくなってきた、ということはありませんか。

城山ええ。でも、今ならまだ書けますけどね。でも周辺の事情や歴史の動きなどを調べるのに、今からは、パソコンやインターネットを自由に使えないとだめですね。

最初と最後の特攻隊員となった2人が主人公

藤田『指揮官たちの特攻』の主人公の2人の大尉、中津留達雄と関行男は海軍兵学校の昭和16年の同期生です。一方は最初の神風特攻隊員になり、一方は天皇の終戦の玉音放送があったあとに宇垣纏長官を乗せて沖縄に飛び立った、つまり日本最後の特攻隊員だった。実に対照的な指揮官を書かれたわけです。

2人は、特攻隊としての散り方も対照的ですが、生き方も人生そのものも非常に違った性格ですね。

城山そうですね。

藤田片や非常に優しくて愛妻家で、片や家庭的にはやや複雑であるということで、これは、ほとんど虚構なしにお書きになられたのですか。

城山はい。人名を書くときは事実で、調べて書いています。2人の性格が対照的だということを予想していたわけではないんですが、調べていくと、そういう性格に育った理由がわかってきます。片方は非常に温和な性格で、片方は非常に激しい性格。

藤田しかし、2人とも23歳で、妻をめとってまだ間もない。だから、あわれというも愚かなりで、本当にかわいそうな人生ですね。

城山かわいそうですね。僕らは結婚していなかったから観念的でしたが、家庭生活とか、結婚生活を知った人にとっては辛かっただろうと思いますね。

米軍キャンプを避けて岩に突っ込んだ中津留大尉

藤田最初の特攻隊になった関さんのほうは、戦果は確認されているわけですね。

城山関大尉の指揮する5機はレイテ沖で航空母艦1隻を撃沈し、もう1隻を炎上撃破、巡洋艦1隻轟沈という華華しい戦果をあげたことになっています。ただ、米軍側の記録とは少し違っているんですが。

藤田中津留さんのほうは沖縄の敵艦隊を攻撃するということで、出撃する。

城山8月15日の夕方、急降下爆撃機の彗星に乗り込んで沖縄の伊平屋島に行き、軍事拠点を避けて、岩にぶつかったり、田んぼに突っ込んだんです。

藤田戦果をあげる目的があったんですか。

城山戦果をあげないようにしたんです。終戦ということが途中でわかってきた。だからもし軍事拠点に突っ込んでいたら、また戦争になる。とにかく突っ込んではいかんということで避けるんです。

藤田終戦になってからの突入とは悲壮ですね。

城山悲壮です。長官が乗っているわけだし。ただ、幸か不幸か、長官が大きな爆弾を積めと言ったから大きな爆弾を積んでいる。そのため燃料を減らしているわけです。だから、爆弾を持っている間はどの島にもつけない。それで爆弾を海に落としているわけです。だけど、飛行機がぶつかれば、今度のニューヨークの事件と同じで飛行機自体が爆弾になるから、それをやってもいかんと思って、「突っ込め」という長官の命令を聞いたふりをして突っ込んでいって、パッと左に避けて岩にぶつかって死ぬわけです。

途中に敵の戦闘機も敵艦もいないし、米軍キャンプでは煌々と明かりをつけ、勝利を祝うビア・パーティが行われている。命令にうなずいたふりをして左に避ける。そうすると、2番機とは連絡はとれないけれど、1番機の動きに従えというものすごい訓練をそれまでに随分している。

1番機の動きを絶えず見ているわけですから、急に左に逃げたということは、ここを避けるんだなということを2番機の機長は読み取った。けれども、自分はもう避けられない。それで上げ舵は簡単ですから、上げ舵を引いて、米軍キャンプを越えて向こうの田んぼに落ちてしまったということだと思います。

当時の部下たちが言うのには、爆撃機を使っての編隊飛行は、戦闘機ならともかく信じられないぐらい非常に危険なんだそうです。ともかく敵の戦闘機を切り抜けるためには、戦闘機同様に戦わなければいけないということで、ものすごく激しい訓練をやっていた。ですから、海軍にいた人たちも飛行隊の人も「その推理は正しいでしょう」とみんな言っていました。

一番ジレンマを感じた指揮官

城山三郎氏(右)と藤田昌司氏

城山三郎氏(右)と藤田昌司氏
(ホテル・ニューグランド「マッカーサー・ルーム」で)

藤田2人の指揮官を主人公にされた意図は、どういうところにあったんですか。

城山僕たちは年齢的に兵士たちに近いのですが、兵士たちは言われた通りに動くよりしようがないわけです。自分の判断の入る余地はないし、また、若いといろんなことを考えないで済むところがありますね、家庭がなければ。

ところが、指揮官ぐらいの年齢になると家庭があるし、自分で判断ができる。この命令はおかしいと思っても、中間管理職はそれに従っていかなくてはいけない。あるいは逆らう場合もあり、そういう意味で、中間管理職である指揮官は一番ジレンマを感じたと思いますね。

藤田しかも、海軍兵学校出身で、海軍では一番中核になっているリーダーですね。

城山そういう誇りみたいなのもあるでしょうね。

藤田予備学生だったら、こういう小説にはならなかったでしょうね。

城山予備学生でも随分突っ込んだし、立派な遺書を残している人もいますが、海兵の出身者には予備学生にない使命感があったでしょうね。

藤田組織そのものに対する使命感でしょうね。

城山そうですね。それから自分の今までの生涯の締めくくりとして、こういう死に方がいいかどうかということを、予備学生の人は考えなくても済むんじゃないか。

藤田中津留大尉がそういう突っ込み方をしたのは、組織に対するだけではなく、自分の人生に対する責任を取ったという感じがしますね。

城山彼は司令官の命令に従うべきなんですが、それに盲従しないで大局を見る力があったんでしょうね。ここへ突っ込んだら日本は大変なことになる。国家に対する忠誠心ですね。だけど、参謀クラスはそういうものが結構欠けていて、自分たちは危ない所には行かない。ほとんど参謀は逃げている感じです。

アメリカでは参謀という佐官クラス、中佐とか大佐とかでも、慣熟訓練と言って操縦に絶えず慣れるように時々みんな飛んでいます。いつでも第一線に出られるように。ところが日本は、参謀クラス、佐官になると、もう飛ばないんです。地上にしかいない。それと、頭だけで「やれ」とかいうだけで、佐官はほとんど死んでないし、参謀クラスはみんな行かない。

藤田読者の反響はいろいろありましたか。

城山たくさんありましたね。

藤田一般に、男の読者は手紙は書かない。しかも、この本の読者は恐らく、自分の読後感なんか照れくさくて書かない世代だと思うんです。

城山数えてませんが何百通でした。女性の方も2、3割はありました。若い人のもありますが、大体が戦争体験のある年配の人で丁寧な詳しい手紙をくださっている。本当は返事を書かなくてはいけないのに、ちょっと勘弁してもらっているところです。

読者の皆さんは普通に生活をし、普通に会社勤めを終えて、悠々と暮らしているみたいだけど、皆さんが戦争を考えて生きておられるということがしみじみわかりました。

僕らに訴えてきた杉本五郎の『大義』

藤田城山さんが戦争文学にこだわられるのは、ご自身が昭和20年5月から8月まで、海軍特別幹部練習生として軍籍を持たれた。つまり、少年兵として訓練を受けた体験が根底におありだからだと思うんですが、もともとは予科連志望だったんですね。

城山いや、最初は陸軍の予科士官学校を受けたんです。学科に通った人を埼玉県の朝霞にあった本校に呼んで、身体精密検査と面接があった。

藤田学科に受かったわけですか。

城山ええ。朝霞へ行って2泊か3泊しましたかね。そして一つは体重不足。中学生時代からミイラというあだ名があったんです。英語でミラーと呼ぶところをミイラと呼んだから付けられたんだけれど、実際、それぐらいやせていたし、心臓に何か異常があるということで帰された。

藤田特別幹部練習生のほうは通ったわけですか。

城山そっちはね。でも、そっちは人数さえ集めればいいということだったんでしょうね。ともかく特攻要員だから、そんな長生きするわけじゃない。片一方は士官としてずうっと長く軍隊に勤務するわけですから、やはりちゃんと採らなくてはいけない。特攻で一番使いやすいのは結婚前の、少年よりは青年と言いますか……。

藤田一言で言えば、特攻要員の養成ですか。

城山だって1万人とか採ったわけでしょう。当時、軍艦なんか1隻も動かない状態です。そんなときに中堅幹部の大量募集をやったって意味がないんだから。

藤田七つボタンですか。

城山七つボタンで、桜に錨。襟章が予科連は翼なんです。僕らの場合は桜になっている。それだけの違いで、服装は予科連と全部同じです。

『大義』の純粋さに打たれた若者たち

藤田士官学校や海軍特別幹部練習生を志願されたときの思想的な背景は『大義』という杉本五郎の本だと書かれておりますが、当時『大義』は中学生の間ではベストセラーだったわけですか。

城山と思いますね。相当読んでいましたよ。

藤田要するに忠君愛国を説いている。

城山そうそう。息子に対する遺書の形で書いている。「汝、我を見んと欲せば尊皇に生きよ。尊皇のあるところ必ず我あり」といった格調の高い文章でした。だけど、その本の中には伏せ字が何か所かありました。忠君愛国の書なのに何で伏せ字があったのかが疑問だったんです。

戦後、奥野健男さんなんかも疑問を持って調べたら、その伏せ字の箇所は、大陸に行っている皇軍は暴行略奪をほしいままにしている。あれは皇軍ではない。そういったことが書いてあったらしいんです。

杉本五郎はそういう正義感の人で、純粋に思い詰めて書いたから、僕らに訴えてくるわけです。だから、軍は困った。読ませたいけど、そこを読まれたら困る。それで伏せ字で出したんです。軍は杉本五郎は要注意人物だ、忠君愛国を鼓吹するけれど、今の日本がやっていることは悪いと書いている。というので、最激戦地に飛ばされ、戦死するわけです。まあ死刑ですね。若者はその純粋なものに打たれて、次から次へとみんな愛読していった。本当に魅力的な本だったんですよ。

藤田私は『大義』は読んでないんです。田舎にいたのと、3年の年齢の差があったからかもしれない。

城山よかったじゃないですか。読んでいたらきっと志願していた。大変訴えかける本だから。

反対する父親が応召中に、母親が海軍へ行く判を押す

城山じつは、僕の母方の祖父が尾張藩だけに出入りしていた畳職の棟梁で、一種の御用商人なんです。お城の近いところに住んで、その斜め向かいに竹中工務店の先祖にあたる大工の棟梁がいて、親しくしていたようです。公の仕事しかしないから、母親にも、何となく公の観念があって、多少僕に対して理解があったと思う。

母には三兄弟がいまして、長男は東京の駒場で書店をやったり、戯曲集の出版などをやっていましたが、三度召集され、結局、志を遂げずに亡くなる。次男は満州へ行かされて白衣の勇士となって帰ってくる。三男は幹部候補生かなんかで行って胸部貫通銃創で、ようやく命を永らえて帰ってきた。母の育った家庭はそういう空気だったから、息子が行きたいといえば、行かせるべきだと。

藤田お父様は反対されたそうですね。

城山大反対で理科系に行けと。ところが応召で父親がいないときに、母が海軍に行くことの判を押すわけです。

昇進のスピードが速いため訓練も制裁も激しい

藤田訓練は激しかったんですか。

城山僕らがいじめられたのは、後から聞くといろいろ理由があってね。予科練は入ってある程度期間を置いて、水兵長、下士官になっていくわけです。僕らの場合は入ると同時に水兵長で、1年たつと二等下士官、二等兵曹、成績のいい者は一等兵曹ということがあり、予科連に比べて昇進のスピードが少し速い。だから、そういう人たちの憎しみを買って、制裁も余計激しかったんじゃないか。

それに戦争末期だったからみんな荒れていたんですね。戦地から帰ってきた下士官なんかは非常に荒れていた。目の前に軍艦が植木をいっぱい生やして泊まっているんですからね。何で植木かというと、飛行機から見えないように。といって、船をどこかに持っていく燃料もない。だから、呉から瀬戸内海にそういう船がずっとある。最初何だと思いましたね。

樫のこん棒で練習生を撲る上官

藤田幹部練習生の場所はどこにあったんですか。

城山各鎮守府です。僕は広島県の大竹。名古屋は呉鎮守府だから大竹なんです。それから結城昌治さんは東京だから横須賀。結城さんは志願して入ったんだけど、入って1週間で身体検査で除隊になった。僕は本人から聞いたんですが、「あそこは本当に地獄だった。除隊になってよかった」と言っていました。

藤田上官の制裁は手ではやらないんですね。

城山手でやると向こうも痛いから「軍人精神注入棒」と呼ぶ、樫のこん棒でバーンとやるんです。手でやるときは向かい合ってお互いを撲らせる。撲り方の弱いやつは今度こん棒でまた撲るんです。

藤田終戦になったときには、どんな気持ちでしたか。

城山とにかくピンとこないわけです。下士官たちが狂ったみたいに騒ぎ出して、アメリカが要求しているから、僕らをサイパンに送るとか言い出したり、僕らを精神的にいじめたり、それから犬を探してきて殺したり、自分たちが週末に行くクラブがあるんですが、そこへ基地の倉庫から米とかを夜に全部運び出して、私物にする。だから、最後の最後まで日本海軍もおかしかった。

特攻を志願するか否か-『一歩の距離』

『一歩の距離』・表紙

『一歩の距離』
角川文庫

藤田そういう体験を踏まえて、最初にお書きになられたのが『大義の末』で、その後に、『一歩の距離』を書かれております。これには「小説予科練」というサブタイトルがついています。

『一歩の距離』というのは、簡単に解説しますと、「全員眼を閉じよ。よく考えた上で、志願する者は一歩前へ出るように」と司令が言う。そうすると、自分の前後左右から、一歩前に出る足音が聞こえる。ところが、主人公はついに一歩前に出ることができなかった。その思いが心の重荷になり、その重荷を抱えたまま、日常生活を過ごしていくということが書かれているわけですが、あのころは全くそうでしたでしょうね。

城山ただ、『群像』の編集長をしていた大久保房男さんの本には、予備学生の分隊に人間魚雷「回天」搭乗の募集をするといったら、ほとんどが応募しなかったと書いてある。そういうところもあったんだね。びっくりした。予備学生でかたまっていたからよかったんだろうね。そんな魚雷に乗るものかということで、むしろ志願した人が少なかったと。いろいろ理屈をつけたんだろうけれど。

藤田『一歩の距離』は予備学生も入っていますが、大体は予科練出身ですね。

城山知らないで、純粋な気持ちだけだからね。

藤田そうですね。若いし世間のずるさを身につけていないしね。

城山舞台となった滋賀県の地元の人たちが、祈念の碑をつくって下さって、琵琶湖畔の浮御堂のすぐ近くに文学の散歩道みたいのがつくられて、その中の、恐れ多くも芭蕉の句碑の近くにある。見に行ってこようと思ってるんです。

ゲタばきの水上飛行機を特攻に使う

藤田滋賀と大津の航空隊ですが、この頃の特攻志願をする若者の気持ちは非常に潔いです。それに対して飛行機も船もない、武器はほとんどないのに、どうして特攻になるんでしょうね。水上飛行機はゲタばきで、よたよたしてすぐ撃ち落とされますよ。

城山戦争中、日本は島国だから水上飛行機を世界で一番持っていたから、みんな残っている。それを特攻に使うことになる。水上飛行機と赤トンボね、練習機です。

藤田それで特攻精神でもって突っ込めと。あれは鍛えるということじゃなく、ただ上官のサディズムですね。

城山そうですね。あるいは千機行って一機当たればいいとかいうことでしょうね。

藤田一人、バッターで撲られて精神がおかしくなって死ぬ兵士がいますね。

城山首つり自殺もいました。

藤田正確には予科連を出てあそこに配属になった少年兵が書かれていますが、城山さんの大竹時代の体験ではなくて取材をして書かれたわけですね。

城山はい。事実ですね。

藤田それでいよいよ特攻の出発の期日が迫ってきたら終戦ということになる。

水上特攻艇「震洋」の若い隊員を描いた『マンゴーの林の中で』

藤田特攻機もそういう状態ですが、『マンゴーの林の中で』は水上特攻艇「震洋(しんよう)」ですね。笹の葉っぱみたいなボートにエンジンをつけ、敵艦に突入するわけですね。島尾敏雄さんが震洋隊だったんですね。島尾さんは出撃する予定だったけど、出撃前に終戦になった。

城山○四(まるよん)艇といって、板張りのモーターボートみたいなものに230キロの爆装をしてぶつかっていく。

藤田一人で乗ったんですか。

城山一人か二人ぐらいだったと思うね。それが各地にたくさん配置されたんです。沖縄、南九州、あるいは太平洋側に。

藤田この小説でも、出発はついに訪れず、ゴーサインが出る前に終戦になる。

城山一部出撃したのはありますが、ほとんど出撃していないですね。

藤田少しは戦果は上げたんでしょうかね。

城山詳しくは知りませんが、そういう船だから訓練中に爆発したり、類焼というか穴ぐらに入っているときに燃えたり、いろんなことが起きていますね。

藤田しかし、指揮官としてはジレンマを感じる立場ですね。アメリカの巡洋艦や戦艦、航空母艦を沈めることができるのか。しかも、それを自分は指揮していかなきゃならないという立場。

城山島尾さんは指揮官として大変だったでしょうね。そういう経験があったから作家になったんじゃないでしょうか。

五輪で優勝したバロン・西を描く『硫黄島に死す』

『硫黄島に死す』

『硫黄島に死す』
新潮文庫

藤田もう一つ、城山さんの戦争小説で、非常に好きなのは『硫黄島に死す』です。

昭和7年のロサンゼルス・オリンピックで馬術で優勝した西竹一、通称バロン・西が主人公です。バロンですから男爵ですが、この人は本当にダンディで、もともとは騎馬隊なんですね。

城山そうです。騎兵隊が戦車隊に変わっていくわけです。

藤田しかも、アメリカびいきで、アメリカにもファンがいる。それなのに硫黄島に行って、全く勝ち目のない洞窟戦争で貫通銃創を受け、最後は拳銃で自決する。

城山オリンピックで優勝して国民的英雄になって、横浜に帰ってきたときは提灯行列で迎えられたのに、12年経った昭和19年7月には、北満から硫黄島に転戦するため、変わり果てた姿で横浜港から船に乗込んだんですね。洞窟から「出てこい」と言われても出ていかなかった。

藤田これも当時、『文藝春秋』の読者賞を受賞し、反響を呼んだ作品でしたね。バロン・西は、城山さんが非常にほれ込んで書いているなという気持ちが伝わってきますが、どうですか。

城山うらやましいというか、こういうふうに生きたかったなと。硫黄島で死ぬことは大変だけれど、それにしても男として生きがいがあるでしょうね。さっそうとして。

藤田男の美学を持っていますね。陸軍将校でありながら、最後まで髪を七三に分けていたといいますから。あの当時みんな坊主頭でしょう。

城山中津留大尉もそうです。頭を保護するという理由でね。それなら兵隊だって伸ばしていいんだよね。

藤田バロン・西は幾つで亡くなられたんですか。

城山硫黄島に向かったときが43歳で、翌20年3月に死んでいます。

15歳で死んだ少年兵たち『軍艦旗はためく丘に』

『忘れ得ぬ翼』・表紙

『忘れ得ぬ翼』
角川文庫

藤田それから、同じ本の中に入っている『軍艦旗はためく丘に』。

城山15歳ぐらいで死んだ少年兵です。かわいそうですね。15歳、15歳って墓がずうっと並んで……。

藤田『指揮官たちの特攻』のように華々しい死に方ではなくて。

城山昭和20年8月、宝塚航空隊が淡路島の南端につくった基地に、少年兵が焼玉エンジンの住吉丸に乗って移動途中に、グラマンに襲われた。特攻要員ではあるけれど、まだ年齢が15歳、村の人はみんな泣きながら葬ったというんですよ。

藤田それから8編の短編をまとめた『忘れ得ぬ翼』がありますね。短編それぞれに九七式戦闘機とか航空機の名前が付いている。

城山戦後25年経った時期に書いたもので、角川文庫に入っています。

輸出立国の「大義」に生きる人間を描く経済小説

藤田冒頭にもお話しいただきましたが、城山さんの文学は戦争文学と経済小説というものが表裏一体になっている。城山さんがデビューされた『輸出』は、文字どおり企業戦士を主人公にされた作品ですが、企業戦士と特攻隊の生き方と何かつながってくるものがある。城山さんの内部ではどうでしょう。

城山内部では同じです。さきほど言いましたように忠君愛国の大義が輸出立国の大義に変わった。組織の末端にいる人たちの人間性がどこかに吹っ飛んでいる。組織と人間というテーマだと思う。

藤田『輸出』が文字どおり最初の小説ですか。

城山その前の『生命の歌』というのは、海軍時代を日記風に書いたものです。これは記録に近いわけですが、小説として『輸出』を初めて書いて、投稿するよりしようがないので、『文學界』が募集していたので応募したんです。その年の3月に、たまたま城山に引っ越し、これから少し本腰を入れて小説を書こうと城山三郎というペンネームをつけたんです。

最初に投稿したのが文學界新人賞に入って、電報配達が届けにきた。「ここに城山三郎という人がいるはずだ」と。僕は風呂に入っていて、家内が「いないよね」と言うから「いや、俺だ、俺だ」と(笑)。家内は戦争のことを書いているのは知っていたかもしれないけれど、小説家になろうなんてことは知らなかった。

藤田その前は詩をお書きになっていましたね。

城山はい。『輸出』は次点の人と1票差だった。発表のときも次点の人と両方出ている。だけど、それを候補にしてくれたときの編集長は上林吾郎さんなんです。彼は、激戦地のフィリピンから命からがら帰ってきた人だから、兵士の苦労がよくわかる。だから、僕の書いている奥に、そういうものが見えてきたんじゃないですか。

経済雑誌ならともかく、純文学の雑誌で『輸出』という題だと、普通だったら予備選のところで落とされると思うんです。それが編集部の選考で残ったのは、編集長がいいと言えば、通ってしまうからね。僕はそのことについて、上林さんに、ついに聞くことはなかったけれど。

鋭意努力した企業戦士の虚しさ『毎日が日曜日』

藤田『輸出』は昭和32年ですが、20年近く経って『毎日が日曜日』を書かれた。『輸出』はアメリカ駐在の商社マンが、終戦直後にミシンを売って歩く。本当に法の網をくぐってというか、すれすれのところで売って歩いて苦労している第一線の企業戦士のことを書いている。日本はあの当時、輸出立国と言っていましたものね。日本はそのためにだんだん経済大国になり、それで『輸出』の登場人物、主人公たちも出世をして、あちこちへ転勤したりしてビジネスマンとして栄達を遂げていくわけです。

城山十数年たって、最後は京都支店長になる。

藤田それで毎日が日曜日のような勤務をさせられるということで、鋭意努力した企業戦士の虚しさ。さきほどから城山さんがおっしゃっているように、組織と人間を縦軸にお書きになって、その場面が戦争であったり、経済戦争であったりする。そういう関わりのなかに生きざるを得ない男の悔しさや虚しさ、しかし、それを投げやりにはできない。あえて言うと、男の美学じゃないでしょうか。

城山そうでしょうね。

トップリーダーのあり方を問う伝記小説

『落日燃ゆ』

『落日燃ゆ』
新潮文庫

藤田『落日燃ゆ』で広田弘毅を書かれていますが、軍部とたたかって戦争を回避しようと努力した元首相の広田が、第二次大戦後の東京裁判でA級戦犯として処刑されていく。広田は一切弁解しないですね。

城山そうそう。その後裁判記録が公開になり、熱心な研究者がいて、アメリカに行って調べた。そしたら広田は検事団に対しては非常によくしゃべっているんです。つまり、検事は、悪人に仕立てようと思って来ているわけでしょう。それに対して、「あれは私がやりました。あれは私が言いました。そこには私がいました」と。つまり、自分を罪人にするためにものすごくよくしゃべっている。

日本人はもともと無口だと聞いていたが、やっぱり被告たちはみんな無口だ。何かしゃべれば裏をひっくり返せるわけだから、しゃべらせようと検事団は非常に苦労した。

その中で2人だけ雄弁にしゃべったのがいる。1人が広田で、これは天皇を救うためですね。もう1人は木戸幸一です。木戸は「私はそれはしていません。そのときはいません」と否定形。自分は内大臣で天皇の片腕だから、自分が有罪になったら天皇に罪がいく。だから自分は無罪にならなくてはいかん、ということだったわけです。

天皇をかばって、無罪になりたい人と、有罪になりたい人。前者も天皇をかばうんだけど、かばうことによって自分も救われる人と自分は殺される人になっていくことは、検事調書を調べてみてよくわかったということを、研究者が書いてくれてリポートも送ってくれた。

『落日燃ゆ』は書下ろしで、編集者が企画を出版部長に出したら「広田なんて誰も今は知らない。こんなもの出せるか」と。でも編集者が「自分が頼んだから、どうしても」といって出した。いい編集者がいるといいね。つい最近その話を聞いたんです。

トップ・リーダーがよければ中間管理職は安泰

藤田それと、『粗にして野だが卑ではない』とか『雄気堂々』など、石田禮助や渋沢栄一ら財界の人物を取り上げた作品がありますね。

城山そういう組織のリーダーの、極めて人間的魅力のある人はぜひ書きたい。部下としては安心してついていける。だから、さっき言われたバロン・西だって、卑しくないし、人間的魅力があるでしょう。そういう人が上官だったら、死んでもいいという気になれる。石田総裁についた人も幸せだったと思うね。

藤田中間管理職じゃなくトップリーダーですね。

城山そう、トップリーダーがしっかりしていれば、全部いいわけだからね。中間管理職がよくても、トップリーダーが悪いと、中間管理職が苦しむ。指揮官クラスが苦しむんだけど、リーダーさえよければ安泰ですよ。リーダーが悪かったら全部だめですね。だから、リーダーの責任が重いから、リーダーたちの生き方やありようというものを機会があれば問い続ける。それが政財界人のことを調べたり、会ったりすることになっていったんです。

だから偉い人の伝記を書くということじゃないんです。組織にとってリーダーが大事だから、どういうふうにリーダーに振る舞ってほしいか、むしろ注文をつけるような形で書いているんです。

伝記を書いていると、「伝記屋さん」と言われるんだってね。僕は知らなくてね。そしたら東大の左翼系の有名な学者が1冊の本を出した。その中に城山さんの伝記のことを書いてありますよと言われた。見せてもらったら、弟子たちから、イギリスは伝記文学が発達しているのに日本にはありませんねと言われ、その先生が「いや、城山三郎がいる」と1行だけど書いてあった。

そうか、こういう全然畑違いの人にちゃんと理解してもらえるのかと思って、それはうれしかった。

そういう意味では、作家は幸せだね。誰かが見ていてくれますからね。

編集部今日は、どうもありがとうございました。

城山三郎(しろやま さぶろう)

1927年名古屋生れ。

※「有鄰」410号本紙では1~3ページに掲載されています。

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