Web版 有鄰

527平成25年7月3日発行

横浜の花火師 平山甚太 – 1面

櫻井 孝

横浜港の花火大会のルーツを生んだ花火師

横浜の夏の風物詩は何かと問われれば、花火を挙げる人は多いであろう。『横濱沿革誌』(明治25年刊) や『横濱市史稿風俗編』(昭和7年刊) 等によれば、横浜での花火大会の嚆矢となったのは、明治10年(1877)11月3日に横浜公園で行われた大花火大会だそうである。そのときは技巧を凝らした大小三百発が打ち上げられたと伝えられているが、これを催したのは、明治期に横浜で活躍した花火師・平山甚太であった。


平山甚太(筆者推定)/神奈川近代文学館蔵

彼はその後、明治13年から毎年7月4日の米国独立記念日に当時のグランドホテル前の海上で花火を打ち上げ、これが横浜の名物の1つに数えられることになる。横浜港での夏の花火大会のルーツは、ここに生まれた。

平山は、天保11年(1840)に現在の愛知県豊橋市で生を享けたが、若くして横浜に出て商才を発揮し、中でも花火の製造輸出と旅館の経営で成功を納めたそうである。旅館は「いとう屋」といい、関内の太田町5丁目にあった。福沢諭吉やその門下生が定宿にした関係から、福沢も「平山煙火」を大いに後押ししたと言われている。

これらの成功を背景に、明治15年の横浜商法学校(現在の横浜市立横浜商業高校) 設立に際しては、発起人28人の中に名を連ねるなど、平山は明治期の横浜の名士の1人であった。

花火で日本人の米国特許取得第1号に

さて、わが国で特許制度が導入されたのは明治18年である。当時農商務省に勤務していた高橋是清が、外国の制度に倣ってわが国での特許制度の創設に尽力した結果、同年4月に専売特許条例が布告され、7月から施行された。これがわが国での特許制度のスタートとされている。

特許制度の具体的な効果は、ニセモノを駆逐することにより、安心して世の中に新しい技術情報を披露し、円滑な商取引を行えるようにすることにある。

平山は花火の輸出でニセモノの出現に苦労したらしい。明治10年に神奈川県令(現在の知事)に手紙を送り、「英国人からの注文に応じて見本を渡したら、その後ニセモノが作られてしまい、商売にならない。なんとか英国で花火の特許を取れないだろうか」と相談している。県令はこの手紙を外務卿(現在の外務大臣)に転送して対応を依頼したため、その手紙の実物が外務省外交史料館に残されている。

外務省では外国人法律家に調べさせたが、その結果、英国では花火の特許は取れないと回答している。現在の知識で当時の英国特許法を読めば、特許を取れる可能性は充分あったのだが、そこは解釈に誤りがあったようだ。これを受けて平山は英国での特許取得を諦めている。

その後、彼はターゲットを米国に移す。米国で特許を取って、米国向けの商売を軌道に乗せようと考えたのだ。その結果、明治15年に特許出願の手続を開始し、翌年に花火の特許を取得したのである。これは日本人の米国特許取得第1号という快挙であった。

特許の番号は第282891号。明治16年8月7日に登録されており、わが国での特許制度の創設より2年近くも前のことであった。

その特許の対象は、昼に打ち上げる花火であり、その特徴を簡単に言えば、和紙で作った袋状の人形を花火玉の中に仕込んでおき、空中でその人形が飛び出してふわふわと風に舞うというものである。これはその後、花火業界で「袋もの」と呼ばれた。残念ながら、現在わが国では打ち上げが禁止されており、目にすることはできないが、花火玉の直径は15センチほどであるものの、その袋は開くと大人がすっぽり入るほどの巨大なものであった。


「平山煙火」輸出用カタログの表紙/横浜市中央図書館蔵

「平山煙火」の輸出用カタログが数点、横浜市中央図書館に収蔵されている。「袋もの」の特徴を一番よくとらえたカタログの表紙を、ここに紹介する。空に漂っている人形が花火玉から飛び出した「袋」である。

米国で積極的な事業を展開

ところで、米国国立公文書館には、平山の特許出願に関係する書類一式が保管されている。直筆の署名がついた出願書類や、米国特許庁の審査官が作成した諸通知などが全て残されている。これらを見ていくと面白い分析ができるのだが、中のひとつを紹介する。

平山が米国特許庁に提出した書類の中に「宣誓書」がある。これは、自身が真正の発明者であるということを宣誓した書類であるが、残念ながら彼自身の署名が欠落していた。これでは宣誓にならないため、米国の審査官は再度署名入りの宣誓書を提出し直すように指令を出す。この指令書の日付は1883年(明治16)4月27日。指令を受けて彼は、横浜で新しい宣誓書を用意し、5月4日に関内の米国総領事館を再訪して、総領事代行の前で署名をしているのである。この間、わずか1週間である。どうして彼は、そんな短期間で米国ワシントンでの指令の内容を知り、次の行動に移すことができたのか。

答えは電報しかありえない。その経路はヨーロッパ経由だった。横浜での外国電報の取り扱いは明治6年にスタートしたが、太平洋横断海底ケーブルが敷設されるのは明治39年のことであり、それまではヨーロッパ経由で米国とつながっていた。平山もこの文明の利器を使っていたことは間違いない。

さて、彼の米国特許のことを紹介した当時の新聞に、明治16年7月2日付けの『時事新報』がある。『時事新報』は福沢諭吉がその前年に創刊した新聞であり、この記事は福沢との関係の深さを推察させる資料でもある。

平山がもうすぐ米国で特許が取れそうだということを紹介しているが、8月7日に特許登録されたので、まことにタイムリーな記事である。

この記事には彼の事業戦略に関係する次のような話も紹介されている。

〈平山は、明治14年に自身の工場から職工5人を米国に派遣し、ニューヨーク等の大都市で自社の花火を打ち上げさせ、米国人の喝采を浴びた。職工たちは1年ほど滞在し、その間に米国の技術も習得。翌年に帰国して後は、その技術も織り交ぜてさらに改良を進め、比類なき製品を世に送り出した。〉

明治14年に渡米を目的としてわが国政府からパスポートを発給された日本人は、外交史料館で調べた結果、56人しかいなかった。

この時代に、技術系社員を5人も渡米させ、自社製品のデモンストレーションに努めるとともに、技術研修も行わせ、帰国した後には、次の製品開発に活かしたのである。しかも、まだわが国に特許制度がないという状況下で、米国の特許を取得し、製品の販売を裏から支えている。現代でも充分通用する対米事業戦略を、彼は明治10年代に行っていたのである。

平山甚太は獅子文六の祖父

平山について書かれたものは多いのだが、彼の写真はこれまで全く見当たらなかった。『横濱成功名譽鑑』(明治43年刊) を見ても、写真は載っていない。筆者も諦めかけていたのだが、三河地方の研究者から、神奈川近代文学館所蔵の獅子文六文庫を探れば写真が出るのではないかとの示唆をいただいた。

平山は獅子文六の母方の祖父にあたる。獅子文六文庫の目録から、明治30年代の写真アルバムがあることが判明し、その内容を精査したところ、ここに紹介する写真が見つかった。

台紙の裏面には、彼が晩年を過ごした豊橋在の写真館主の住所氏名が印刷されており、また彼の葬儀(明治33年)に際して撮られたとされる親類一同の写真にも照らして、これが平山であると推定した。なかなか頑固そうなしぶい顔つきであるが、「酒好き、女が好きの道楽者だったのに」、「祖母はもとより、数多い娘たちが、ひどく、祖父を敬慕していた」と、獅子文六がその著『父の乳』の中で述べている。

平成22年11月、横浜にて日米首脳会談が行われた際、オバマ米大統領は平山の特許公報を額装して菅首相(当時)に手渡され、日本人の米国特許第1号として彼の偉業を讃えられたことは記憶に新しい。

平成24年3月には、ワシントンにてわが国からの桜寄贈100周年のお祝いが行われた際、復元された平山の「袋もの」昼花火が米国の空に打ち上げられ、粋な日本文化の紹介に一役を買った。

日本の産業再活性化が叫ばれる中、明治期の横浜に生きた偉大な先人の海外事業戦略に思いを馳せ、もう一度その精神を学んでみることも悪くはないものと思う。

櫻井さん・写真
櫻井 孝 (さくらい たかし)

1956年長野県生まれ。前特許庁特許技監。
著書『明治の特許維新』 発明協会1,800円+税ほか。

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