Web版 有鄰

542平成28年1月1日発行

大阪のヒーロー真田幸村 – 1面

木下昌輝

少年時代憧れた真田幸村

真田幸村との出会いは、小学校の図書室の漫画『日本の歴史』だ。屈強の三河武士を十文字の槍でなぎ払い、家康に迫る真紅の武者。まるで三国志の張飛や関羽のような規格外の豪傑ぶりにしびれた。

チャンバラ好きだった私は、武器は刀派で槍のような長いものは卑怯だと思っていたが、この日を境に変わった。近所を歩き回り、槍にふさわしい長い棒を探したのだ。最適の素材はすぐ近くにあった。家の物干し竿である。トンカチで竿の先端を叩き平べったくして、ヤスリで削って鋭利な武器へと変えて、おかんからこっぴどく叱られた。

真田幸村肖像画
真田幸村肖像画
上田市立博物館蔵

ただ、成長するに従って、幸村ら歴史の英雄に失望することもあった。容姿端麗だと思っていた幸村が、実は小兵で老人のように歯の抜けた風貌をしていたこと。さらに、幸村という名前も創作だと知った。本名は、真田左衛門尉信繁という。地味だ……。

徐々に、真田幸村に対する熱は冷めていき、やがて忘れてしまった。

そうこうしているうちに、戦国武将ブームや歴女ブームがやってくる。戦国武将をイケメンに擬人化(?)し、中でも真田幸村が一番人気らしい。私がそんな真田幸村に最初に接したのは、ライターの仕事をしていた頃だ。女性誌のモノクロページで、戦国武将を紹介する企画があった。担当したのは私の後輩のライターだったが、上がってきた原稿を見て、文章が固いなと思った。豊臣秀吉のことを刀狩りや太閤検地を通して説明していて、教科書的だったのだ。対照的に、添えられたイラストはジャニーズ風のイケメン武将である。

「戦国武将が自分の彼氏だと思って、それを友達に紹介する感じで書いてみたら」

私は、そうアドバイスした。当然のごとく、後輩ライターは目が点になったので、私がほとんどを代筆することになった。実をいうと、少し嬉しかった。物干し竿を槍に変えた頃を思い出しつつ、書いた。

庶民も参加可能な大茶会などを何度も開いた豊臣秀吉は、イベント好きの幹事男風に、若い頃に女踊りを披露した織田信長は、ビジュアル系ロックバンドのボーカル風に、何度も裏切りを重ねた松永久秀は、チョイワルならぬメチャワル親父に。

そんな私の手が、真田幸村で止まった。美少年の幸村は、私の持つイメージとは真逆だ。結局、幸村の原稿だけは後輩ライターの文章をそのまま使った。そして、ふと考えたのだ。真田幸村こと、真田左衛門尉信繁とは、どんな人物なのだろうと。小兵で醜男以外に、どんな特徴があり、どんな人生を送っていたのか。調べてみると、英雄とは真逆の人生をたどっていた。関ヶ原で負けて、九度山で蟄居し、酒浸りの生活を送り、家康について大名として生き残った兄に金を無心する。

不思議なことに、このみじめな真田左衛門尉信繁に、私は激しく感情移入した。武士社会の底辺でくすぶる男と、ライターとして仕事が減っていた境遇が重なったのかもしれない。さらに調べてみると、『南紀徳川史』という歴史書に、「真田左衛門尉が神祖(家康)を狙撃した銃」という記載が出てくる。

歯を食いしばり、家康が目の前に現れるまで待ち続ける男の姿が浮かんだ。『南紀徳川史』記載の真田左衛門尉信繁の火縄銃は、短筒といって拳銃のようなものである。威力も命中精度も悪い。その武器を手に家康狙撃に賭ける姿は、表面上の美しさとは無縁だが、覚悟を決めた男の執念を感じた。

私はその後、小説の短編賞をとり、小説家として生計をたてることに賭けた。命中精度の悪い短筒で、家康の首を狙うかのような蛮行である。

最初の単行本を出すのに2年もかかったが、その間の気持ちは、九度山に幽閉された真田左衛門尉信繁の心情と似ていたかもしれない。

デビュー作の『宇喜多の捨て嫁』を出した直後に、最初に声をかけてくれたのは講談社だった。編集者は『決戦!関ヶ原』というアンソロジー本を手に、「今度、『決戦!大坂城』を出す予定だが、真田幸村を書かないか」と言ってくれた。出版不況で、他社オファーがあるかどうか不安だった私にとっては、豊臣秀頼に声をかけてもらった真田左衛門尉信繁のような心地だ。

英雄としての真田幸村ではなく、火縄銃を手に家康の首を狙う刺客として書こうと思った。物干し竿を槍に変えていた少年木下昌輝が読めば、泣き出してしまうようなダークヒーローが誕生した。無論、満足している。

幸村こと真田左衛門尉信繁のその後

とはいえ、全て表現しきったわけではない。短編では書けなかったことを、ひとつ紹介したい。真田幸村こと、真田左衛門尉信繁は大坂の陣の後に、どうなったかということだ。

大蘇芳年「一魁随筆真田左エ門尉幸村」
大蘇芳年「一魁随筆真田左エ門尉幸村」
太田記念美術館蔵

史実では、徳川方の鉄砲組の頭・西尾宗次に首をとられたことになっている。だが、真田幸村が豊臣秀頼を伴って、大坂を脱出したという伝説もある。

真田左衛門尉信繁は、生きているのか、死んでいるのか。

私は、かなりの確率で真田左衛門尉信繁は生き残ったと思っている。

まず、討ち取られた真田左衛門尉信繁の首であるが、実はひとつではなく、いくつも出てきた。その中で、なぜ西尾宗次の首が本物と認められたか。それは、西尾の持つ首には鹿角の兜があったからだ。真田家伝来のものなので、左衛門尉信繁に違いないとなった。

そして、鹿角兜が手掛かりとなる伏線が、大坂冬の陣と夏の陣の間に起こっている。大坂方と徳川方は休戦していたが、いずれまた戦いになることは見えていた。真田左衛門尉信繁に徳川方の友人が尋ねに来る。原貞胤という、元武田家の武将である。真田左衛門尉信繁も武田家に仕えていたので、ふたりは親交があったのだ。とはいえ、いずれ敵味方に分かれるとわかったうえでの交流である。自然と、会話は戦場であい見えればいかに戦うか、という話になる。

この時、真田左衛門尉信繁は原貞胤の前で先祖伝来の鹿角兜をかぶり、馬にまで乗り、「この馬と鹿角兜を戦場で見たら、それは私だと思ってください」と、高らかに宣言した。

こういう勇ましい話は、すぐに口から口へと伝わる。写真などない時代だ。真田左衛門尉信繁=鹿角兜の武者と、関東の武者たちは認識したはずだ。だからこそ、西尾宗次の首が認められたのだ。

面白いのは鹿角兜=真田左衛門尉信繁という噂を流した原貞胤と、打ち取った西尾宗次が、同じ松平忠直の配下だということだ。鉄砲頭の西尾宗次と、火縄銃に対して造詣が深かった真田左衛門尉信繁の共通点は、偶然にしては出来すぎている。

実際に西尾宗次が打ち取った鹿角兜の首を、徳川方にいた真田左衛門尉信繁の伯父が本物かどうかを確かめたが、「本物とも偽物とも、何ともいえない」と、微妙な答えを返している。伯父は冬の陣と夏の陣の合間に、左衛門尉信繁に面会している。真贋の区別がつかないはずがない。にも関わらず、言葉を濁した。つまり、偽物ということだ。

考えられるのは、真田左衛門尉信繁が旧知の原貞胤、そして原の同僚の西尾宗次と共謀し、首をでっちあげたということである。それが、己が生き残り秀頼を逃すための策なのか、家康を討つための策なのかはわからない。

大阪人のオンリーワンなヒーローへ

大坂の陣の後、講談などの創作の世界で真田左衛門尉信繁は真田幸村となり、英雄となり、現代に至る。

特に大阪人にとって、幸村は特別である。ある意味、阪神タイガースのようなものだ。事実、なぜか幸村ファンは、タイガースファンが多い。私が『決戦!大坂城』で真田左衛門尉信繁を書いた時も、「俺の許可なく幸村を書いてええんは、池波正太郎だけちゃうかったん」と、散々に文句を言われた。阪神が連敗中の時は、なぜか特にきつく言われた。

大阪や関西は、勝敗を重視しない文化がある。大阪のある作家さんが「男の価値は、負けてから、どうやって立ち上がるかや」とおっしゃっていた。東京の常勝巨人軍と、ダメ虎タイガースを愛し続ける関西人の違いかもしれない。吉本新喜劇も勝利でのし上がる活劇ではなく、大衆食堂のドラ息子が借金とともに帰ってきて、それをドタバタ劇の末チャラにするという、負けからゼロに戻る内容がほとんどだ。決して勝利はしない。悲しいかな、関西人には敗者の遺伝子があり、その悲しさを肯定し飲み込むことができる強さがある。

負け戦という最大の苦境でも、最高のパフォーマンスを見せた真田幸村は、だからこそ大阪人にとってのオンリーワンなヒーローなのだ。これは幸村こと真田左衛門尉信繁が、イケメンであろうが、歯の抜けた小兵であろうが変わらない。

木下昌輝さん
木下昌輝 (きのした まさき)

1974年奈良県生まれ。著書『宇喜多の捨て嫁』文藝春秋 1,700円+税、『人魚ノ肉』文藝春秋 1,550円+税。共著『決戦!大坂城』講談社 1,600円+税。

写真提供 文藝春秋

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