Web版 有鄰

549平成29年3月10日発行

外燃機関から内燃機関への転換に遅れた日本 – 2面

田中宏巳

社会インフラを置き去りにした近代化

有隣堂出版部から『横須賀鎮守府』を執筆してほしいという話があったとき、なぜか中学の修学旅行を思い出した。昭和32年5月、東京見物をしたのち鎌倉長谷で1泊、つぎの日、バスで三浦半島を1周した。私のいた3組は先頭から3台目のバス、エアコンなどない時代、窓を開け放しての乗車だから、国鉄横須賀駅で降りた時には全員埃で顔が真っ黒、ホームの水道に長い行列をつくって顔を洗ったことが、修学旅行の一番の思い出になった。横須賀海軍のお膝元である三浦半島といえども、舗装道路がほとんどなかったのである。水道を待つ行列と湾内に居並ぶアメリカの軍艦を眺めながら、シンガポール上陸作戦の一番乗りが自慢だった担任の先生が「これではアメリカに勝てん」と口にした言葉が、あまりにひどい道路事情を指摘されたのか、湾内に軍艦がところ狭しと並ぶアメリカ海軍の偉容を見て言われたのかわからなかったが、なぜか担任の言葉が脳裏に深く焼き付いて残った。

日本の道路が近代化されなかったのは、自動車がまったく普及せず、昭和になっても道路を使う主な交通手段が馬車や大八車であったからだ。昭和10年頃でも、各県の自動車台数は平均して3000台程度、道路の舗装率は1パーセントにも満たなかった。自動車が普及しないのは、欧米の自動車保有者であった都市中間層が日本では台頭しない社会構造に主な原因があったが、そのため自動車技術、わけても自動車を動かす内燃機関の技術がまったく進歩しなかった。欧米では内燃機関の発達につれ、産業構造が大きく変わりながら交通手段が外燃機関の鉄道から自動車へと交代し、それとともに道路の近代化も進み、新しい流通体制が生まれようとしていた。

徳川幕府、明治新政府が非常な努力を傾けた横須賀造船所は、日本を農本社会から一気に近代工業社会へと引き上げる象徴となり、軍事面だけに限らず、国内産業の近代化にも大きく貢献した。短期間に造船に特化した先進技術を修得し、日露戦争後には大型軍艦を国産化できるまでになり、ほどなく艦体の大きさ、主砲や高角砲の射程、速力や航続距離といったハード面では、世界一流に垂んとする水準に達した。自他共に認める軍事大国となったことと相俟って、太平洋戦争がはじまるまで、日本が技術面で大きく遅れをとっているなどと誰も想像しなかった。

海軍航空廠庁舎 横須賀市蔵

海軍航空廠庁舎 横須賀市蔵

太平洋戦争の主役になったのは戦艦でなく、航空機であった。航空機の性能を左右するエンジンは、自動車エンジンから進化した内燃機関の頂点に立つもので、自動車エンジンと航空機エンジンは同じ工作機械工業に支えられて発展してきた。航空機の軍事的能力に気付いた日本の陸海軍も、工作機械工業が未発達であったにもかかわらず、人・資金・資源を集中投入して航空機の開発に邁進し、自動車を造れなくても航空機は生産できる奇異な国家になった。横須賀にも、新型機の試験飛行をする横須賀航空隊、航空機の強度や搭載する各種機器の設計や実験をする海軍航空廠が置かれ、航空機開発で重要な役割を担ったが、機械工業の立ち遅れを残したたまま航空機を生産する無理が開戦後に現われ、やがて航空戦での劣勢が日本の命取りになった。

20年過ぎた日独航空資料の点検

平成2年にワシントンの議会図書館でWDC(Washingt-on Document Center)の接収資料を整理していた折、同館科学部から見て欲しいと頼まれたのが、340本のマイクロフィルム“German-Japa-nese Air Technical Docume-nt”(独日航空技術資料)だった。ほとんどがドイツ関係資料で、日本関係がないと諦めた頃、ポツポツと現われ、最終的に35本になった。その時、大急ぎで書き留めたリストのコピーを国会図書館が入手し、2冊に製本されて憲政資料室の書架に閲覧用として並べられている。

マイクロフィルムの元になった紙資料は、米陸軍航空隊の技術情報部隊がドイツと日本から接収し、将来の航空機開発に利用できる先進的情報を得るため、オハイオ州デイトンに近いライトフィールドにあった米陸軍実験航空隊に持ち込んだ。3、4年かけて精査され、終了後にマイクロフィルム化され、紙資料の方は返還されたというが、その形跡はない。数千本のマイクロフィルムを作ったあと、残すべき価値があると判断されたものだけを切りとり、それらをつなぎ合わせる編修作業が数年かけて行われ、その結晶がこの340本になったというわけである。

フィルムが編修されてから半世紀を過ぎているため、フィルムとフィルムを繋いでいるテープが劣化し、マイクロリーダーにかけると、プツプツと音を立てて切れる。

それでも数が少ない日本資料はどうにか見終わったが、ドイツ関係資料は見始めてから20年以上過ぎているが、未だに終わっていない。1本のフィルムで2、30箇所も切れることがあり、湾曲した10センチ、15センチの小片になったフィルムの巻き取りに難渋し、誰かを恨む気持ちに何度陥ったことか。

航空機開発を制する工作機械工業

日独資料を比較してみると、日本の航空機開発がいかに立ち遅れていたか、その実態がわかるにつれ情けなくなり、気持ちが滅入った。戦争末期、日本の飛行機開発の目標はB29の捕捉に置かれたが、そんな航空機など、B29を飛ばしたアメリカにすればまったく興味が湧かなかったであろう。これに反してドイツ資料には、5年後、10年後を見据えたジェットエンジン装備の先進的な戦闘機や爆撃機、長距離ロケットなどの研究が目白押しで、米ソはこうした研究成果を欲しがり、実際に戦後の米ソの航空機やロケット開発に大きな影響を与えている。戦後6000人を超すと云われるドイツ人科学技術者がアメリカに渡ったが、その内、1000人弱が航空機関係者であったと推定されている。日本の研究で、米ソに影響を与える航空機技術がなかっただけでなく、アメリカに連れて行かれた航空分野の科学技術者がいたという話もない。

ドイツ資料に、新しい航空機部品を製造した精密工作機械と、この部品の精度を測定する精密測定器の解説まであり、分野の違う機械工学の資料が紛れ込んだのだろうと思っていた。おおらかなアメリカ人の作業にはこうしたミスがよくあるからだ。ところがメッサーシュミットやハインケルの組み立て工場と傘下の部品工場との距離、所要時間、部品の種別等をまとめた数種の一覧表を見たことから理由がわかった。

ドイツ資料から教えられたのは、部品の納入工場の多さ、部品の種類の多さであり、航空機生産とはこうして調達した部品によるライン上での組立てという事実である。航空機の性能向上は、部品の精度を上げ、部品数が増えても機体の容積が変わらないことによって実現する。そのためには精度を上げた精密工作機械と精密測定器がどうしても必要であり、これなくして性能向上はありえず、資料に取り上げられた所以である。また航空機の大量生産には、多種多様かつ大量の部位・部品が調達されるが、そのためには舗装された道路とトラック輸送による流通網がなくてはならなかった。

こうした条件が揃って、はじめて内燃機関の性能向上、大量生産が可能になるわけで、一箇所の工場で大部分の部位・部品を造ってしまう造船所の生産形態と大きく違っていた。内燃機関製作の条件をすべて欠いていた日本が、多くの航空機を戦場に送り込んだのは奇跡というほかはない。トラック輸送の流通網など夢のまた夢、道路整備や自動車普及ができなくても航空機は作れるというのが日本人の論理かもしれないが、中学の担任の一言はこれを全面的に否定し、社会インフラや国民の生活を犠牲にした軍事力の強化など幻想に過ぎないことを指摘されたのだと思うようになった。

田中宏巳  (たなか ひろみ)

1943年長野県生まれ。防衛大学校名誉教授。
著書『山本五十六』吉川弘文館 2,100円+税、『マッカーサーと戦った日本軍』ゆまに書房 3,800円+税ほか。

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