Web版 有鄰

516平成23年9月10日発行

恐ろしさと美しさ ― 吉村昭『三陸海岸大津波』 – 1面

高山文彦

果てしなく反復される天災の襲来を予見し、警告

吉村 昭氏

吉村 昭氏

吉村昭氏の『三陸海岸大津波』が文春文庫から出たのは、2004年のことである。その折、私は編集部から解説を依頼され、はじめて同書をゲラで読むことになった。

初版は中公新書で1970年。中公文庫になったのが1984年。それから20年を経てこうしてまた日の目を見るのか、と私は少し驚きを懐きながらゲラのはいった宅配便の袋をうけとった。

ついでに言えば、ながいあいだ忘れられていた一地方の地名を冠したそんなに厚くないこの作品を、吉村氏の文名にあやかって出してみようということかと、出版社の意図を勘繰ってみもした。もうひとつ言えば、編集者の話では、明治、昭和の大津波とチリ地震津波の状況について吉村氏はお書きになっているらしい。いまの時代にそんなむかしの話を出して、人に読まれるのだろうかと、余計な心配もした。

読みだして、私は自分の不明を恥じた。私は頭からまっさかさまに、大津波の巨大な渦のなかに巻き込まれていった。

これはきっと吉村氏のほうから「出してもらえないか」と、もちかけたのではないか?

なぜなら、作品がまったく古びて見えないからである。むしろ未曾有の天災襲来を予見し、警告して、いまこそ読まれるべき一書ではないかと思えたからである。

恐怖というものに、古いも新しいもない。30年から50年後に襲ってくるという大津波のことを考えると、もう来てもいい時期なのだった。

吉村氏は書いている。

〈津波は、自然現象である。ということは、今後も果てしなく反復されることを意味している。海底地震の頻発する場所を沖にひかえ、しかも南米大陸の地震津波の余波を受ける位置にある三陸沿岸は、リアス式海岸という津波を受けるのに最も適した地形をしていて、本質的に津波の最大災害地としての条件を十分すぎるほど備えているといっていい。津波は、今後も三陸沿岸を襲い、その都度災害をあたえるにちがいない〉

吉村氏にしては珍しく何カ所も強調の表現をつかっているところに、必死の警鐘を聞く思いがする。

確認をとったわけではないが、この一書を吉村氏は、日本人への遺言として残そうとしたのではないか。文春文庫の出版から2年後、吉村氏がこの世を去ったとき、あらためて私はその印象をつよくした。

巨大で、理不尽で獰猛だった東北の「ヨダ」

2011年3月11日、私は吉村氏との縁も深い長崎にいた。浦上キリシタンの末裔のみなさんから被爆体験を聞いて歩いているとき、東北地方で大きな地震がおこったと聞いた。

カーラジオのニュースから、いままさに大津波が東北の太平洋岸に襲いかかっているとの実況を聞きながら、地獄の釜の蓋をあけられたみたいに『三陸海岸大津波』を思い出したのだ。

ほぼ正確に本の内容をおぼえていたのは、自分としてはかなり珍しい。そのとき不思議なことに、明治、昭和の大津波のもようが映像となって目のまえにあらわれ、「のっこ、のっことやって来た」というチリ地震津波の映像まで見えたような気がした。

当然、実写映像なんて見ているはずもない。こうした錯覚をおこさせてしまうのは、吉村氏の記録を読んでいたとき、何度もくり返し津波の映像を思い浮かべたからだ。よい文章は、映像を喚起させる。

人は津波から逃げられているか。あの無気味な前兆を見ているか。こんどこそ人は迷信になど惑わされずに、一家ばらばら「てんでんこ」になって逃げきれているか――と、私はそのように思った。

むかし三陸の人たちは、津波を「ヨダ」と呼んでいたらしい。私が生まれ育った山里には「デイダラボッチ」という途方もなく大きな森の主が棲んでいた。デイダラボッチは山に豊かな実りをもたらすいっぽう、何十年かに1度荒れ狂い、山津波をおこし、ふもとの村を一網打尽にする。「ヨダ」とは、それに似た海の主のことではないかと想像していたが、いまや東北に襲いかかる「ヨダ」は、それとはくらべものにならないくらい巨大で、理不尽で、獰猛だった。

吉村氏の足跡をたどるような、被災地をめぐる旅

『三陸海岸大津波』・表紙

『三陸海岸大津波』
文春文庫

それから私は『三陸海岸大津波』をリュックに突っ込んで、三陸沿岸の被災地をめぐり歩くようになった。空からも飛行機でつぶさに見てまわった。

吉村氏が訪れた岩手県北部の普代、田野畑、宮古、田老、大船渡、宮城県の気仙沼、石巻、女川と、気がついてみれば吉村氏の足跡をたどるような旅となった。

このたびの震災は、『三陸海岸大津波』で描かれた明治、昭和の大津波の規模をはるかにこえて、北海道南岸から関東沿岸にいたる広い範囲に大規模な災害をもたらし、加えて福島の原発事故という、大きな災禍をもたらした。解説で私は津波のことを「ゴジラ」に見立てて書いているが、核の象徴として描かれたゴジラがついに暴れだしたのかと、自分の皮肉を呪った。

吉村氏が毎年のように親しくかよっていた岩手県下閉伊郡田野畑村の図書館には、聞いていたように同氏の全著作がならび、隣りのひと棹には妻の津村節子氏の全著作もならんでいた。

「寄贈いただいたのは自作だけではありません。奥のほうにたくさん本があります」と、職員のひとりが教えてくれた。

田野畑村の海辺には、太宰治賞を受賞して文壇に出て行くきっかけとなった『星への旅』の舞台、鵜ノ巣断崖がある。その近くの島ノ越という集落の浜辺の番屋に、吉村氏は泊めてもらっている。当時、村は観光客が訪れるようなところではなく、旅館なんて一軒もなかったのだ。この番屋群は3月11日まであったが、すべて流されてしまっていた。吉村氏を案内し、こんにちまで親交のあったかつての村長早野仙平氏は、津波から逃れて無事だった。

それにしても、虚無の凶暴な舌でなぶり尽されたような壊滅の光景は、明治、昭和の津波ではありえない瓦礫の山をおびただしく積みあげていた。あのころは木造建築がほとんどだったから、いまのようなコンクリートや鉄骨など不燃性の大きな建材はありえなかった。

近代をつくりあげてきたそうしたゴツゴツとした物たちが砕け、谷を駆けあがり、家々を破壊していた。

三陸の美しい海で〈津波と戦いながら生きてきた〉人々を見る

宮古市の田老という町の城塞を思わせる巨大防潮堤は、Xのかたちに東西南北にひろがっていたが、東側の防潮堤がものの見事に破壊されていた。津波防災の「模範的例」として吉村氏はこの田老の防潮堤や避難路の整備をあげたうえで、つぎのようにしるしている。

〈津波が押し寄せれば、海水は高さ10メートルほどの防潮堤を越すことはまちがいない。しかし、その場合でも、頑丈な防潮堤は津波の力を損耗させることはたしかだ。それだけでも、被害はかなり軽減されるにちがいない。〉

死者ひとりひとりの尊厳をあえて無視して言うならば、吉村氏の言うとおり、明治、昭和の大津波で最大の被害を出した田老は、こんどの大津波では死者行方不明者を200名ほどに抑えた。防潮堤に守られていた内側の町並みは壊滅してしまったが、確実に防潮堤の存在は、人びとに避難の時間をあたえたのだ。

この防潮堤の上に立って田老湾を見ると、おだやかで、波ひとつ立っていない。沖から海が山脈のように立ちあがり、町に襲いかかる姿を想像して私は恐ろしくなったが、そういえば吉村氏は被災直後の惨状を見ることもなしにあの本を書いているのだな、と気づいて、驚嘆を禁じ得なかった。いまはYOUTUBEなどでふんだんに映像を見られるが、それを見ても、吉村氏の記録は正確だったのだな、と思う。

〈屹立した断崖、連なる岩、点在する人家の集落、それらは、度重なる津波の激浪に堪えて毅然とした姿で海と対している。そしてさらに、私はその海岸で津波と戦いながら生きてきた人々を見るのだ〉

とは、この本の最後にしるされた言葉だが、ここに吉村氏の人間にたいする姿勢があらわれている。

記録に徹した筆致の向こうから立ちのぼってくるのは、津波で死んだ人たちの声や、生き残ったとしてもなにも語らぬままこの世を去った人たちの声だ。彼らは津波の恐ろしさを後世に伝えたいと願い、三陸の海の豊かさ、美しさを語り、そこに生きる歓びも語っているように思う。

未来に伝えられるべき、貴重な記録である。そして、いままた新しい『三陸海岸大津波』が書かれるときが来たのかもしれない。

高山文彦氏
高山文彦 (たかやま ふみひこ)

1958年宮崎生れ。作家。著書『火花』角川文庫(品切)、『「少年A」14歳の肖像』新潮文庫 430円+税、『エレクトラ』文春文庫 781円+税、ほか多数。

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