Web版 有鄰

503平成21年10月10日発行

有鄰らいぶらりい

誘惑』 北原亞以子:著/新潮社:刊/1,900円+税

井原西鶴が『好色五人女』で描き、近松門左衛門が『大経師昔暦』などに脚色した「おさん茂兵衛」の物語。

「序幕、中幕、終幕」と芝居仕立てにしているが、その序幕の冒頭、のち江戸文学界の巨匠となる、西鶴と近松の二人が京都の藤棚で顔を合わせ、終幕で再登場する。

話の中心は、当時、磔という極刑が待っていた、奉公人・茂兵衛とその主人の妻・おさんとの激しい恋である。これに茂兵衛が以前つとめていた商家の一人娘、おたまの横恋慕、かなえられぬ恋への復讐譚がからむ。さらに、仕官の道を探している浪人の夫の宿望をかなえるため、幕府に伝手のある人形商人の妾になるあやめの話も並行して進む。恋に命を懸ける女たちに対し、仕事や仕官に懸命で体面を重んじる男たちの対比があざやか。

おさんの夫は、暦を刷って出版する権利を持つ大経師であり、改暦の動きを探るのに懸命で、おさんと奉公人の不倫の恋にも気づかない。8年前の寛文12年(1672年)中国渡来の宣明歴に記された月食が起こらず、当時の天文暦学者、保井(のち渋川)春海が改暦を上表していた。

貞享2年(1685年)初めて日本で作られた貞享歴に至る経過や、京と江戸気質の違いなども、しっかり書かれており恋の物語に興趣を添えている。

七十五度目の長崎行き』 吉村 昭:著/河出書房新社:刊/1,600円+税

9784309019277

七十五度目の長崎行き
河出書房新社:刊

表題作は昭和61年に発表された文章。出世作となった『戦艦武蔵』の取材に始まる長崎への旅は、亡くなるまでに107回にも及んでいる。

生地の東京・日暮里から谷中墓地を通って上野、地下鉄に乗って中学生時代よく通った浅草へという「ふる里への旅」に始まる紀行文集。

浅草は恐ろしいと、尻込みしていた夫人(津村節子)を、大晦日の夜、浅草演芸場へ連れていったら、それを境に浅草ファンになったという。

家を訪ねてきたロシアのノンフィクション作家から「あなたはなぜ虚構をいれず、事実だけを書いているのか」と聞かれ、「事実がドラマだからだ」と答えた著者である。取材の旅は長崎だけではない。

平成2年に発表した『真夏の旅』によると、この時点で長崎へは81回、「札幌へもほぼ同数、愛媛県宇和島市にも20回余」は行っている。日本のチベットといわれる辺地、岩手県の田野畑村へは、「30回以上は」行っており、名誉村民になっていた。

「講演旅行」は母校、学習院大学の同窓会組織に招かれたとき、自分が「中退」ではなく「除籍」であることに気づく話。これまで「中退」と書いていたのは、学歴詐称になると、学費滞納額プラス寄付金を払って「中退」となる。五木寛之氏にも同じような話があったがいかにも著者らしい律儀さと情感に溢れた文集である。

かえらざるもの』 大河内昭爾:著/三月書房:刊/2,200円+税

「掌に乗る愛蔵本」としてこれまで志賀直哉、佐多稲子、大岡昇平など、多くのエッセイ集を出し、読書人に親しまれているシリーズの最近刊。

著者は文芸評論家で元・武蔵野女子大学(現武蔵野大学)学長。表題作は、東京・三鷹に住む著者宅裏に生い茂っていた、大小10数本の欅が、一夜にして姿を消した驚きと嘆きから同じ運命の多摩地区(武蔵野)の様相を語る。

その理由は地主の税金対策だが、「100年以上にわたって市民の眼中に存在しつづけた樹木はすでに所有者だけのものではない」と「江戸以来の欅の大木すら無残に伐採」する政府の無策を弾劾する。

かつて『食食食』という味覚雑誌を編集していた、自称「食いしん坊」の著者だけに食べ物の話もおもしろい。

しかし本筋はやはり、長年の文壇生活から生まれた文士たち、丹羽文雄、井伏鱒二、水上勉などとの追憶の数々。中でも親交のあった吉村昭については4章を割き、対談も収録。子供の頃から作文が嫌いで、「小説家になろうなんて気は全然なかった」といった話を引き出している。

昨今の小説にあきたらず、日本文学の復権を志して自ら文芸誌『季刊文科』を創刊した著者だけに、ただのゴシップにない深みのあるエッセイ集である。

差別と日本人
野中広務・辛 淑玉:著/角川書店:刊/724円+税

一方は被差別部落出身、片や在日朝鮮人。ともに差別される深い苦しみの中に生きてきた2人の対談集である。

有名になるほどマスコミを通じて出自が明かされ、次第に家族が周囲から冷たい目で見られるようになった野中氏は、一人娘の婿に「おまえの姓を名乗れ。そうでないとおまえが積み上げてきたことがゼロになるぞ」と言ったという。

辛氏は20歳になったとき子供のときからのイジメと闘おうと、敢えて朝鮮人を名乗った。しかし、メディアに出るようになると嫌がらせが殺到、おびえる親たちと別れて暮すようになる。姉から「あんたが自分の正義感を貫こうとするために、家族がどんな思いをして生きているか分かっているのか」と言われた。

町会議員から自民党の幹事長など保守政界の大立者になった野中氏は「部落から出た僕が部落の悪さを是正していかなければ差別は依然つづいていく。だから差別を売り物にするな。自分たちの利権の手段に使うな」と身内の解放同盟や共産党とも闘った。

人材育成コンサルタント会社、香料舎を設立、多くのメディアで活躍している辛氏は「人は自己の劣等意識を払拭するために、より差別を受けやすい人々を差別することで心のバランスをとろうとする」「自分は他者より優位という差別感は『享楽』」と、心のメカニズムに迫る。

(K・K)

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