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有鄰


平成13年2月10日  第399号  P2

 目次
P1 ○戦後横浜 華やかな闇  山崎洋子
P2 P3 P4 ○座談会 仏像修理 (1) (2) (3)
P5 ○人と作品  もりたなるおと『昭和維新 小説五・一五事件』        藤田昌司

 座談会

仏像修理 (1)
明珍家三代のあゆみ

   仏像修理師   明珍 昭二  
  神奈川県立金沢文庫副文庫長   高橋 秀栄  
  鎌倉国宝館副館長   岩橋 春樹  
              

はじめに

編集部 わが国には、古くからすぐれた文化財が伝えられています。しかし、木や紙でつくられた文化財は長い時間がたつに したがい、当初の状態から変化して、次第に傷みが激しくなり、やがて修理・保存という問題が浮上してきます。

一方、こうした文化財の修理・保存という作業を契機にさまざまな新しい発見があり歴史や美術史の研究に新たな進展が もたらされました。

本日は、神奈川県内の仏像を例に、修復作業の実際と、それに伴う研究の成果について、お聞かせいただきたいと 存じます。

座談会出席者
左から岩橋春樹氏・明珍昭二氏・
高橋秀栄氏
ご出席いただきました明珍(みょうちん)昭二先生は、現在、東京都世田谷区に工房「明古(めいこ)堂」を構えて、お父さまの代から 受け継がれた技術をもとに、ご子息とともに、仏像の修復に当たっていらっしゃいます。明珍家の歴史やご先代の お仕事もあわせてご紹介いただければと思います。

高橋秀栄先生は、神奈川県立金沢文庫副文庫長でいらっしゃいます。中世仏教史、特に、仏教の典籍等に詳しくて いらっしゃいます。

岩橋春樹先生は鎌倉国宝館副館長で、美学美術史をご専攻でいらっしゃいます。

高橋・岩橋両先生ともに文化財の保存という行政のお立場からもご意見をいただきたいと思います。


明珍姓の甲冑師が室町後期から活躍

編集部 明珍という名字は大変珍しいのではないかと思いますが。

明珍 東京には二十数軒ありますから、余り珍しくはないです。

編集部 歴史辞典などを調べますと、明珍という姓は、室町時代の永正年間(一五〇四~一五二一) にさかのぼるそうですね。

明珍 はい。室町後期から戦国時代にかけて活躍した人がいるんですが、『広辞苑』の第二版で「明珍」という項を 引くと、名の由来は、平安末の近衛天皇からもらったと書いてあります。しかし、その後に「ただし、信ずるに 値しない」とある(笑)。これは明らかに伝説ですね。

編集部 甲冑師であったということですね。

明珍
木屎をほどこす明珍昭二氏
辻ノ薬師十二神将像に木屎をほどこす明珍昭二氏(世田谷区の工房で)
そうです。一番最初は京都で馬のくつわをつくっていたくつわ師で、室町時代ぐらいになってから刀の鐔(つば)を つくるようになった。あと甲冑といっても、主に兜の鉢をつくっていたようです。鍛金のほうのメーカーです。

戦国のころから地方に散らばり、小田原で甲冑をつくっている一団もいます。非常に活躍して、江戸時代になって から、江戸・明珍と称するのが江戸に本拠を構えます。

その頃は戦争がなくなっているから、実戦用の武器ではなく、たとえば刀の鐔の凝ったのとか、金銀その他を象眼 したり装飾用のものをつくるんです。それで江戸・明珍の一派をつくり、それがまた全国に散らばり、明珍という名 で世襲制度をつくっている。だから、室町時代の明珍とは違うとも、続いているともいえる。ある意味で、おそば屋 さんの屋号と一緒ですよ。ただ東京には数十軒かたまって明珍のお墓があることはあるんです。

編集部 兜や工芸品は、どこかに残っているんですか。

明珍 明珍の銘の入っている兜や鉢は各地の博物館、外国にも結構あります。一番最初は、当然、銘はつけなかったんで しょうけど。

 

  明治の廃刀令の後は 装飾用の細工物などをつくる

編集部 お父様の明珍恒男さんは明治十五年のお生まれですね。

明珍 明治になって廃刀令がでて、父の頃は本業では食べていけない。だから、一部火ばしだとか、装飾用の細工物を つくっていました。

岩橋 金工ですか。

明珍 鍛金です。鍛金は鍛えるんですね。刀とかはたたく。結局、相手の刀も鍛えているから、それに負けちゃまずいから、 兜の鉢はかなりしっかりしたものをつくらないと、ということです。

父は、小諸の出身です。若い頃、困って東京に出て、下町で焼鳥屋をやったこともあったと聞いた記憶はありますが、 若い頃の父のことは僕もよくわからない。僕が十二歳のときに死んでいますから。


岡倉天心が父・恒男に「奈良に行け」と

明珍
明珍恒男氏と東寺食堂十一面観音像
明珍恒男氏と製作した東寺食堂十一面観音像(昭和9年)
東京国立博物館提供
父は美術学校(東京芸術大学の前身)に入って、高村光雲の教えを受け明治三十六年に卒業しています。そこで 岡倉天心に会い、天心に「おまえは奈良に行け」と言われたそうです。

天心は明治三十一年に美術学校の校長とけんかをして美術学校を辞職し、当時の下谷区谷中で日本美術院をつくる。 その後、明治三十九年八月に日本美術院は規約を改正して一部と二部に分けて、二部は仏像などの国宝修理を専門にして、 奈良東大寺の勧学院に本拠を構えるんです。天心にそう言われたのはその頃のことで、それを奈良美術院と称しています。 父は奈良で美術院の連中、二、三十人を率いてやっていました。

高橋 今は奈良美術院はないんですね。

明珍 はい。大正二年に天心が亡くなった後は新納(にいろ)忠之介さんが中心になって美術院として経営し、新納さんの後に 父が主事になっています。

高橋 厳しい方だったんですか。お仕事熱心で。

明珍 両面あってね。やっぱり怖かったですね。

昔の修理は一か所にじっとしていませんから。たとえば鎌倉で修理といったら、鎌倉に行ったまま修理する。今の ように道路もよくないし、トラックも立派なものがないから、現地へ行って賄いのおばさんを頼んで仕事をする。 僕も最初、昭和二十六年に鎌倉の覚園寺で修理をしたときは賄いのおばさんを頼んだ。出張仏所みたいなものです。

編集部 中世の渡り職人のような感じですが、仏像の修理をやり始めたのはお父様の時代からですか。

明珍 そうですね。仏像の修理を本格的にするのは天心に会ってからで、天心が監督になって、そのころばらばら だった職人を集めた。

おやじは、天心が相当怖かったらしいです。お酒を飲みながら、天心の話をよくしていました。すごい人だった みたいです。英語はペラペラだし、一種の外交官でしょう。アメリカからお客さんが来たときに、隅田川に船を 浮かべ酒樽を上流から流して接待したという話があります。ちょっとスケールの違う人です。

ともかく美術院という所は大変な所だったらしいです。

 

  関東大震災をきっかけに鎌倉の仏像を修理

編集部 お父様が鎌倉や関東に関係を持ち始めるのは、いつごろからですか。

明珍 一つのきっかけは大正十二年の関東大震災だと思います。鎌倉の文化財は壊滅状態になり、円応寺を始め、 近辺の仏像の修理は全部やっています。その頃、鎌倉彫・博古堂の先代の後藤運久さんらと知り合ったようです。

高橋 金沢文庫でこの前まで展示していた弥勒菩薩像を明珍恒男さんが修理をされたのが昭和十年のようです。

 昭和三年に鎌倉国宝館が新たにでき、金沢文庫は昭和五年開館ですから、震災後まもなく、鎌倉の仏像修理、補修の ためにお仕事をなさったんでしょう。

岩橋 称名寺の弥勒菩薩は鎌倉国宝館で展示しているんですよ。

高橋 じゃ、その修理した場所は称名寺じゃなくて、鎌倉だったわけですね。

岩橋
鎌倉国宝修理工場
鎌倉国宝修理工場
(昭和3年頃・宝戒寺境内)
東京国立博物館提供
ええ。国宝館は昭和三年四月三日開館で、設立の趣旨は、お寺の宝物を守ること、そして震災で壊れた宝物を修理 するのが大きな事業でした。すでにその前から修理はおこなわれていたようですが、当時の館の日誌を読むと近くの 宝戒寺の中に仏所があって、宝戒寺の修理工場という言い方をしています。

私どもの館ができてからは小さな修理は、彫刻も国宝館でやる。修理作業室を一棟設け、そこで彫刻だけでなく、 工芸品や掛け軸の修理も継続的にやっています。

高橋 昭和三年に鎌倉の仏像を直しているのは、奈良美術院の明珍先生という肩書になっていますね。だから、鎌倉の 要請を受けて、奈良から派遣されていらっしゃった。

明珍 はい。そのときはたしか主任で来てます。修理工場は宝戒寺に仮設したんですね、きっと。

岩橋 ですから、中世以来の仏所はこういうものだろうと思いますよ。お寺の中に作業場を設けている。

明珍 宝戒寺にはお地蔵さんや歓喜天があり、全部やっています。

 

  仏像修理のほかに古美術の論文を書き、仏像の制作も

高橋 宝戒寺をスタートにほかのお寺からも次々と。

明珍 ええ、運び込んできて修理したんでしょう。その頃の写真は全部、東京国立博物館に保管されており、同館が 発行した「明珍恒男撮影写真資料の美術史的研究」にまとめられています。

岩橋 宝戒寺の修理工場は震災で壊れた鎌倉のものを中心にしていたんですが、だんだん関東の一種の修理場みたいになる。 青梅金剛寺の如意輪観音は昭和五年に修理をしていますし、京都からも修理品が来ています。

編集部 修理のお仕事のほかに古美術の論文や『仏像彫刻』の著書もございますね。

明珍 父は、京都の東寺食堂(じきどう)の十一面観音像や大阪の四天王寺五重塔の扉彫刻などの制作もやっています。


昭和26年、鎌倉・覚園寺で仏像修理を始める

編集部 先生はいつからこのお仕事に。

明珍 私は昭和二十年少し前に満州に行き、満鉄(南満州鉄道)で働き、帰ってきたのは昭和二十一年。翌年に美術学校に 入り、当時、平櫛田中(ひらぐしでんちゅう)さんが木彫科の教授でした。作家を育てる意味の彫刻科です。今は木彫科はない。

父の仕事を継ぐようになったのは、文部省主任調査官だった丸尾彰三郎さんにやらないかと言われて。最初は アルバイトのつもりで始めたんです。鎌倉の覚園寺で住み込みでやったのが大きなものでは初めてです。一番大がかりな 解体修理をやりました。覚園寺には薬師三尊像と十二神将像ほか何体かありますがメインは薬師三尊像です。これらの像は 震災で壊れましたが、宝戒寺工房で施工した黒地蔵を除いて修理をやっておらず、瓦礫のような状態が戦後まで続いていました。

編集部 どんな修理をなさったんですか。

明珍 あれだけ大きなものになると、みんな木を寄せてつくっています。接着剤がばかになるのと釘が錆びたり。 それが全部ばらばらになってしまうんです。それをいったん解体して、狂いを直したりする。修理の中では一番大がかりです。



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