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有鄰


平成13年2月10日  第399号  P3

 目次
P1 ○戦後横浜 華やかな闇  山崎洋子
P2 P3 P4 ○座談会 仏像修理 (1) (2) (3)
P5 ○人と作品  もりたなるおと『昭和維新 小説五・一五事件』        藤田昌司

 座談会

仏像修理 (2)


高橋 解体すると、お像の中に物が入っていたり、あるいは筆文字で記録が書かれていたりします。その当時は、 その都度どうされていたんですか。写真を撮られて。

明珍 もちろん写真と同時に籠字(かごじ)をとる。文字を薄い紙になぞって写す。それは今、僕らは始終やっています。紙は昔と 少し違い、今は透明度があって、伸縮のいい紙を使うんです。昔は薄様(うすよう)みたいなのを使ったんでしょうね。

岩橋 霧を噴いて乗せればぴたっとつきますからね。

明珍 水張りというか。今はクレラップを張って、それで書いていけばいいんです。

編集部 覚園寺からも銘文がでてきたそうですね。

明珍 はい。三尊の脇侍の日光菩薩から「法眼朝祐(ちょうゆう)」という仏師の名前と「応永廿九年」という銘文が出てくる。 銘文が出てくるのは古い彫刻では少ないですね。 

高橋 銘文が出ると、その都度、報告なさるんでしょ。

明珍 ええ。銘文は証拠ですからね。基準作になるし。

岩橋 朝祐は同じ堂内の十二神将像にも銘文があって、室町時代に覚園寺が再興したときに活躍しています。


宝樹院阿弥陀三尊像──面部が割れて大量の願文が出現

編集部 仏像修理をされていて、ご体験の中で記憶に残るものといえば、どのようなものがありますか。

明珍
阿弥陀三尊像
阿弥陀三尊像
(修理後) 金沢区・宝樹院
最近では、金沢区にある宝樹院でしょうね。不思議な像でね。修理はその都度全部違い、同じ修理というのはない。 宝樹院の阿弥陀三尊像は、像自体が一木だから大体納入物が入らない構造なんです。これは古い平安時代の像で、 中はがらんどうではなく、無垢なんです。無垢だから、物を入れる余地がない。

高橋 修理をされたのは平成三年でしたね。

明珍 そうです。これは本来ならば見つからなかったと思う。無垢で、入っているはずがないんです。修理している途中に、 まず玉眼ですが、この像が玉眼であるはずがないんです。玉眼は鎌倉時代になってからのもので、それより前の像ですからね。

それが一つと、あと、頬のあたりをさわると、ちょっと違和感があった。それで中に何か入っているんじゃないかと いうことになって、お顔の部分を割った。

高橋 ちょうど耳の前のところから、お面が二つに割れるような感じがするということだったんですね。

明珍 はい。それを割って中をくり抜いて目を入れて、白い紙がぎりぎりいっぱいに入っていた。中にもう一度 戻そうと思ったら、戻らないぐらいの入り方でした。この像がつくられたのは平安時代末期の久安三年(一一四七)です。

高橋 これを割ったのは鎌倉時代の弘安五年(一二八二)です。

明珍 そのときに、髪の毛の生え際などは鎌倉風のM字型に削り直している。それから目も中からくり抜いて、玉眼を 嵌め込むなど、手を加えている。だから、最初はこの像は鎌倉時代のものじゃないかと言う人もいました。

 

  一木づくりと考え納入品のことは誰も知らなかった

編集部 お顔に入っていた文書が、明珍先生によって取り出されたわけですが、その文書からどういうことがわかってきたんでしょうか。

高橋
脇侍観音像
脇侍観音像
(願文納入および玉眼嵌入状況)
金沢区・宝樹院
阿弥陀の三尊像を最初に注目したのは、金沢文庫にいた前田元重さんです。それが昭和四十八年です。

その後、何か古い仏様だという情報を聞きつけて、彫刻の研究者がそれぞれお寺に出向いて行った。みんな斜めに がたぴしになっていたり、台座も壊れていたという状態で十分な調査ができない。一木づくりだから、どこにも銘文 はないだろうし、ましてや、顔の中に納め物が入っているなどとは誰も知らない状態だった。

ところが、明珍先生の所で解体修理されたら、お顔の面部が二つに割れることがわかって、納入品が見つかった。

それで、武蔵野美術大学の田辺三郎助先生が最初、納入品を全部調査され、報告書に発表されるご予定でしたが、 修理願文があってその中に称名寺のご開山の審海の名前があるというので、高橋にということで、私が論文に書くことに なりました。

納入品は一時期、町田市の国際版画美術館の収蔵庫に保管されていたので、私もそこへ行って、見せていただきました。

 

  審海自筆の願文や舎利など、十五、六点を発見

高橋
審海修理願文
審海修理願文
(弘安5年) 金沢区・宝樹院
びっくりしました。私はずっと審海のことを勉強していましたから、拝見したら、すぐ審海の自筆だとわかった。 そのほかに審海と一緒に称名寺で修行していたお坊さんたちが書いたものや印刷されたお経、梵字だけの刷り物など、 十五、六点がありました。

小さな舎利もありました。その舎利については審海が書いています。修行仲間だった了禅というお坊さんの極楽往生を 願って、舎利二粒を仏の頭部の中に安置したと。切れ端のような紙の中に舎利が包まれていたんです。その舎利は、お寿司屋さんで ご飯のことをシャリといいますが、そのシャリと同じような、米粒大の乳白色の色合いの石でした。中世の舎利は、お米一粒の 場合もあるし、宝石の場合もあります。そのほかいろいろ代用品が使われた。

明珍 石が多いですね。


北条実時の一周忌のため称名寺に移す

岩橋 特に仏教史的な意味から、どういう考えでそれらが納入されたんでしょうか。

高橋 審海は筆まめで記録を丹念に書く人です。願文の中にも書いていますが北条実時に自分が迎え入れられて、 もてなされ、称名寺のご開山になったんですが、間もなく実時が亡くなると、一周忌の法要を盛大にするために どうしたらいいかを考えた。

そのときに阿弥陀三尊像をまつっている常福寺という古いお寺を解体し、その中の仏様も称名寺へ移し、実時が 最晩年に造立を発願していた弥勒菩薩像と一緒に合わせて、新たに一つのお堂をつくり、その中に弥勒像と阿弥陀三尊像を安置 した。

そのときに、実時だけ一人の供養じゃなくて、実時の両親、それから審海自身の両親、修行仲間の友だち、それから 審海には養い親もいましてその両親。それから自分を育ててくれた師匠である下野の薬師寺の慈猛。さらには修行仲間の了禅。

それからさかのぼって久安三年に常福寺をつくった本願の内蔵武直(くらのたけなお)、その人の妻も含めた。さらに弘安五年に 仏像を修理するときの審海の勧進にこたえて、資金を提供してくれた多くの女性たち、その女性たちの両親、仏像を 修理するときに携わった仏師、金箔を張りつけた人、山伏を含むもろもろの人々が皆、極楽往生を遂げますようにという願いを込めたのです。 ですから、審海はすごい人だと思います。

 

  平安末期の六浦に仏教文化が栄えていたことを証明

高橋 久安年間の仏様は一木づくりだから、入れようがないけれど、審海は面部を耳の所から二つに割り、そこに願文などを 納めようとした。また両脇侍の観音像、勢至像にもそれぞれ入れた。それが明珍先生の所で解体修理されることに なって見つかった。これは本当に有意義な発見でしたね。

それから奇遇なことは、お父さんが昭和十年に、称名寺のご本尊の弥勒菩薩像を修理された。次いで、息子の昭二先生が 称名寺開山の審海が深くかかわった仏像の納入品を発見された。親子二代でいかに称名寺をめぐる仏像に寄与されたか、 この功績は大きいです。

それから、鎌倉は頼朝が幕府を開いたことによってその時代の文化を花咲かせていくわけですが、それよりも古い平安末期の 六浦という土地にこれだけのすばらしい仏像をはぐくむ土壌があった、少なくとも仏教文化が栄えていたことを証明する一つの有力な 証拠になっているということです。

明珍 今まで開けたことがないから、大変保存がよかった。納入品はたいてい読めなかったり、虫が食っていたりするものですけどね。

 

  面部を割ったのは実時らの極楽往生を願うため

高橋
審海坐像
審海坐像
称名寺・神奈川県立金沢文庫保管
ここで、審海が偉いのは、願文に出てきますが、そうやって自分はお金を集めて修理をしたけれど、仏像の 体に積もったちりをはらったり洗ったり、顔に新たな彫り刻みを入れたり、漆を塗ったり、金箔を張りつけたりと、 仏様に対してたいへん無礼なことをいたして申し訳ありませんと書いている。それは多くの罪を犯すことになるのだけれども、 これは実時以下いろんな人々の極楽往生を願うためなので許してくださいということを書いている。

そういう気持ちを込めて修理願文を書いているお坊さんは、全国各地の仏像の中から発見される納入品がいろいろ 多い中でも、類例がない。そういう意味で、審海の見識は実にすばらしい。北条実時が「この人を」と、極楽寺の忍性から 推薦を受けて称名寺の開山に迎えたのもよくわかりますね。

 

  ほかに例のない内容の立派さと保存の良さ

明珍 納入品や墨書銘はいくつも見ましたが、宝樹院のようなのは初めてです。これは普通じゃ見つからないでしょうね。

頬の感じはやっぱり木でしょう。材の隙間は、木屎(こくそ)といって木屑と小麦粉などを漆に混ぜたもので埋めたりするから、 長い間に多少の収縮の違いとかがあって、頬に何か違和感があった。

岩橋 目で見るより、触った方がわかりますね。

明珍 目に玉眼を入れるために面部を割ってくり抜くのはよくあります。しかし、こういう入れ方で、しかも、これでもか これでもかというほどがっしり入っている。内容も立派ですし、保存もいい。やはり大変なものじゃないですか。

高橋 でも、先生の所で修理される以前のお姿は醜かったらしいですね。

明珍 そうそう。江戸時代に修理しているんです。古いのはみんな堅地(かたじ)で、漆で塗るんだけれど、新しくなると泥を使う。 堅地だと、後で磨かなきゃいけない。泥地は楽なんです。

編集部 常福寺から称名寺に移されたものがどうして宝樹院に移ったんですか。

高橋 元弘三年(一三三三)に北条氏が滅んだあと、またもとの六浦本郷の常福寺に移されます。その後、江戸期に六浦三艘にあった 今の宝樹院が常福寺の建っていた山の上に移ってきて、それで山の下に古い昔の建物があるというので、そこのお像を山の上に 上げて管理をしていたらしいんです。

ですから、この像は室町から江戸時代にかけて、いろいろ場所を移しながらも、維持されていたことになります。


辻ノ薬師十二神将像──太ももに修理銘

岩橋
十二神将のうち丑神将像
十二神将のうち丑神将像
(解体状況) 鎌倉市・辻ノ薬師
鎌倉のもので、明珍先生に継続的に修理していただいているのは辻ノ薬師十二神将像です。

本尊は平安仏ですし、十二神将像は鎌倉時代ですが、何体か室町時代の後補の像がまじっている。この像は、 本来は東光寺にあったと記した江戸時代の銘札が入っている。

東光寺は大塔宮の所にあった寺で、二階堂の永福寺伽藍の関連として鎌倉時代にはすでにあったようです。 南北朝時代に、足利直義(ただよし)が護良(もりよし)親王を幽閉して殺した場所で、東光寺が廃寺になった後、明治になってその場所に大塔宮が 建てられました。

十二神将像は本来はこの東光寺にあって、それから名越の長善寺に移って、さらに大町の辻ノ薬師堂へ移ったということらしい。 それを現在修理中ということなんです。薬師三尊像と十二神将像は三体目で、修理を終えた像は、国宝館で展示をしております。

 

  鎌倉でもっとも古い十二神将像

明珍 修理銘は一部出ていますね。応永年間でしたか。それは像にじかに書いたものでした。

岩橋
丑神将像修理銘
丑神将像修理銘
(応永16年)鎌倉市・辻ノ薬師
太もものところですね。応永十六年(一四〇九)。辻ノ薬師の像は、鎌倉で一番古い十二神将像だろうと思います。

問題は、ちょうどその頃に覚園寺の十二神将像を室町時代の代表的な仏師である朝祐が新造していることです。 本来覚園寺には創建当初のものがあったはずだけど、それがみんななくなってしまって、戌神将像だけが当初のものと 考えられている。

辻ノ薬師の十二神将像を考えると、当然、覚園寺より古いから、これをお手本にして朝祐が覚園寺の像を新しく つくったんだろう。同じポーズをとっているので、それは間違いない。併せて、朝祐が辻ノ薬師像の修理もやったので はないか。とすると、後補の像は朝祐の新造かなという気がしますね。



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