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有鄰


有鄰の由来・論語里仁篇の中の「徳不孤、必有隣」から。 旧字体「鄰」は正字、村里の意。 題字は武者小路実篤。

平成13年5月10日  第402号  P1

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 海軍の町 横須賀 (1) (2) (3)
P4 ○明治天皇の肖像  横田洋一
P5 ○人と作品  佐藤愛子と『血 脈』        藤田昌司

 座談会

海軍の町 横須賀 (1)
明治・大正・昭和

   元横須賀海軍航空隊教官・分隊長   山本 卓夫  
  元横須賀海軍工廠造船部職手組長   猪狩 泰明  
  作家・同常務理事   三木  卓  
  防衛大学校教授   田中 宏巳  
    有隣堂会長     篠崎 孝子  
              

はじめに

篠崎
平坂通りを馬に乗る軍人たち(震災前)
平坂通りを馬に乗る軍人たち(震災前)
横須賀市・久保木実氏蔵
ペリーの来航によって、黒船の威力を目の当たりにした江戸幕府は、二百年余り続いた大船建造禁止令を解除し、軍艦の建造を 奨励することになりました。幕府の勘定奉行小栗忠順(おぐりただまさ)は、元治元年(一八六四)に洋式製鉄所の建設を計画し、その事業をフランス に委託したことから、横須賀は日本の近代史に異彩を放つことになります。

翌慶応元年(一八六五)に来日したフランス人技師ヴェルニーによって着手された横須賀製鉄所は明治四年に第一船渠(ドック)が 竣工しました。この製鉄所は、間もなく横須賀造船所と改称され、明治五年には海軍省の所管となりました。これ以降、横須賀は海軍 との結び付きを強くして発展していきます。本日は、戦前のご体験などをお聞かせいただきながら、横須賀について話を進めていきた いと思います。

ご出席いただきました山本卓夫様は大正六年(一九一七)のお生まれで、江田島の海軍兵学校をご卒業後、巡洋艦などに乗船、太平洋 戦争開戦前後の約三年間、横須賀海軍航空隊に所属されました。

猪狩泰明様は大正八年(一九一九)のお生まれで、昭和九年に横須賀海軍工廠見習職工教習所(のちに工員養成所と改称)に入所され、 終戦まで工廠造船部に勤められました。工廠OBで組織する横廠見友会会長もお務めになりました。

田中宏巳様は防衛大学校教授で、近代日本・東アジアの軍事史をご専攻です。特に旧陸海軍の戦史編さんの経緯と問題点などを研究テーマ にしておられます。


幕末の製鉄所を軸に発展してきた町

篠崎 横須賀が海軍と結び付きを持つようになったのはなぜですか。

田中
座談会出席者
左から田中宏巳氏、山本卓夫氏、
猪狩泰明氏と篠崎孝子
横須賀、呉、佐世保、舞鶴、青森県の大湊が戦前の日本海軍の代表的な基地ですが、この中で横須賀が一番変わって います。どこが変わっているかというと、ほかの所は鎮守府、あるいは大湊には要港部という地方の海軍行政の最高機関が つくられて、そのもとで町づくりや港づくりをやっていた。

ところが横須賀は、明治四年に、横須賀製鉄所が改称して造船所ができ、造船所が水道や道路をつくったりトンネルを掘るなどして 横須賀の町を開拓した。そして、明治十年に横須賀近海が 海軍港に定められる。

鎮守府が横須賀にできたのはずっと後で、明治十七年です。明治九年に横浜に設置された東海鎮守府が横須賀に移ってきて横須賀 鎮守府と改称されたんです。東海鎮守府は桜木町駅から弁天橋を渡った海側の所にありました。今でも昔の石垣が残っています。

なぜ横浜から横須賀に移って来たのかはよくわからないんです。当時、横須賀造船所の製鋼部の長い建物が十六号線沿いにあり、 その一番東の二階に鎮守府が置かれた。その後、明治二十三年に稲岡の丘陵に鎮守府が建てられます。現在、米軍基地の中の米海軍司令部が ある場所で、鎮守府の建物がそのまま残っています。

つまり、横須賀の基礎は、鎮守府ではなく、それ以前に造船所がつくられたことが最大の特徴です。ですから佐世保や呉と比較して、 多少とも道路のつけ具合が悪いとか、グローバル的な市街地の開発がおくれたのは、そういう点があるからです。

 

  鎮守府の設置で造船所以外の機能が拡大

篠崎 鎮守府というのはどういうものですか。

田中 海軍の根拠地として艦隊の後方を統括する機関です。日本は当初、東西南北に鎮守府をつくる予定だった。 東海が先ほどの横浜、西海が佐世保、南海が呉です。北海は室蘭の予定だったのが、だめになり、大湊に要港部がつくられた。

ところが、日本は横須賀製鉄所もそうですが、フランスの影響が強く、フランスには鎮守府が五つあるというので後に、 舞鶴が加わった。

日本沿岸を五海軍区にわけて鎮守府と軍港が設置され、横須賀はその一つになるわけです。それに伴って横須賀の機能、 佐世保の機能、舞鶴の機能というように機能の分散化がだんだん進んでいく。

横須賀は相対的に造船所の規模が小さくなり、そのかわり、艦隊の受け入れがふえるとか、機関学校が置かれるとか、 あるいは技術者の養成所や教育機関がつくられるなど別の面がふえてくる。

 

  全国から人が集まり造船所が町を引っ張る

田中
横須賀造船所(明治7年頃)
横須賀造船所(明治7年頃)
横須賀市・久保木実氏蔵
横須賀の場合は造船所、明治三十六年からは海軍工廠になりますが、それが町をぐいぐい引っ張ってきた。造船所は 最初から三、四千人を抱える大工場で、全国から人もお金も集まってくるということで、市街地もできていくことになる。

明治期の日本は、まだ民間では工業化が十分ではなかったので、鎮守府の下に軍艦や兵器をつくる工場、つまり工廠を運営し、 それを統括していく必要があったわけです。

呉や佐世保の造船所も、横須賀と同じように明治三十六年に工廠になりますが、最初は規模が非常に小さい。呉は明治三十七年の 日露戦争で大きくなっていきますが、それまでは横須賀が中心ですから横須賀に海軍の技術者が集まり、若手も養成され、海軍の 軍人もここで育っていく。

 

  軍艦も飛行機も横須賀で生まれて全国へ伝える

田中 明治時代は造船所を中心として発展してきましたが、大正期になると、新しい兵器の飛行機が出てくる。大正五年に追浜に横須賀海軍 航空隊がつくられる。それから昭和七年に海軍航空廠(のちに海軍航空技術廠)ができると、飛行機の開発も最初は横須賀が中心で、 海軍航空廠の工場が追浜から金沢文庫までずっとありました。非常に大きな設備で、ここで海軍の飛行機関係のノウハウが確立され、 それが全国に伝えられて呉でも佐世保でもつくる。

軍艦にしても飛行機にしても、横須賀でまず産声を上げて大きくなる。大きくなる過程でのいろいろなノウハウが蓄積され、全国的な基盤 をつくる。そういう役割を一貫して持っていた。そういう意味では横須賀は海軍のいろいろな面での発祥地で、そして発展させていく原動力 を果たしてきたと思います。

篠崎 海軍は横須賀がリードしたということなんでしょうか。

田中 そうです。横須賀で実験をして、こうすればうまくいくというデータをとり、それを全国の部隊へ流すという実験部隊なんです。

山本 横須賀海軍航空隊を我々は横空と言っていました。横須賀航空隊は飛行機の改良、戦術、それについての技術、すべて空技廠 (航空技術廠)とタイアップしてやっていた。それが日本の海軍の技術から戦術まで、全部のトップだったんです。



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