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有鄰


平成13年6月10日  第403号  P2

 目次
P1 ○嫌われては迷惑なダニもいる  青木淳一
P2 P3 P4 ○座談会 横浜真葛焼−幻の名窯 (1) (2) (3)
P5 ○人と作品  亀田紀子と『明るい未来は自分で創ろう』        藤田昌司

 座談会

横浜真葛焼−幻の名窯 (1)

   陶芸家   井高 歸山  
  真葛香山研究会事務局長   田邊 哲人  
  横浜美術館学芸課長   二階堂 充  
    有隣堂会長     篠崎 孝子  
              

はじめに

篠崎
「浮彫蓮子白鷺翡翠図花瓶」
「浮彫蓮子白鷺翡翠図
花瓶」

田邊哲人氏蔵
昭和二十年五月二十九日、横浜を襲った六百余機の米軍機は、市街地の大半を焼き尽くし、多くの市民の生命が失われました。またこれと同時に、横浜が開港以来培ってきた伝統や文化も失われていきました。

その一つ、真葛(まくず)焼は明治初年に宮川香山(こうざん)が現在の横浜市南区に窯場を開きました。ところが三代目の孫の葛之輔(かつのすけ)が空襲で焼死し、戦後、弟の智之助が四代を名乗りましたが、再興はかないませんでした。 本日は、海外の博覧会などで「マクズ・ウエア」と呼ばれて名声を博しながらも、戦災によって滅びた幻の名窯・真葛焼についてお話を伺いたいと存じます。

座談会出席者
右から二階堂充氏・井高歸山氏・
田邊哲人氏と篠崎孝子
ご出席いただきました井高歸山(きざん)様は陶芸家です。お父様の初代歸山様は、初代香山の指導を受けた後に軽井沢で三笠焼を創始されました。平成十一年には目黒区美術館で、初代とその奥様、さらにご長男の二代歸山様など二世代五人の作品を集めた「歸山窯の一○○年」展が開催されました。

田邊哲人様は、真葛焼を中心に明治初期の横浜に誕生して海外に輸出された工芸品などを研究しておられます。近く、『帝室技藝員真葛香山』を出版のご予定です。また、国際スポーツチャンバラ協会会長でもいらっしゃいます。

二階堂充様は横浜美術館学芸課長でいらっしゃいます。このたび横浜美術館叢書『宮川香山と横浜真葛焼』を当社から出版させていただくことになりました。


初代香山が横浜に輸出用陶磁器の窯を開く

篠崎 初代香山が横浜に関わりをもつようになるのは、いつからですか。

二階堂
初代宮川香山
初代宮川香山
宮川香山は四代まで続きましたが、初代香山は京都生まれです。京都の京焼は、野々村仁清、尾形乾山以来、日本独自の陶芸文化として大変評価の高いものでしたが、その後に青木木米(もくべい)という人が出てくる。

幾人かの名人が幕末の京焼をにぎわしましたが、初代香山もその一人で、真葛長造の長男として天保十三年(一八四二)に生まれます。ですから、京焼の伝統を一身に負って出生したという前史があります。

幕末の頃、欧米では日本の薩摩焼が大変高い評価と人気がありました。明治になって、これを輸出品としていきたいと薩摩藩の人たちは考え、白羽の矢を立てられたのが宮川香山だった。

宮川香山は明治三年、二十九歳で横浜に来て、翌四年に真葛焼の窯を開きます。ここがスタートになる。真葛焼という名前は、京都の東山に真葛ケ原という場所があり、その地名に由来しています。

 

  明治維新の京都でうっ屈状態の中、横浜へ

二階堂 香山は青年窯業家として新しい時代に即応する焼きものを、と意気込んで新天地に来たと思います。

幕末というのは、京都も江戸も世情騒然として、大名や旗本が没落する大きな時代の変わり目です。例えば茶道も一時不振に陥る。そうすると茶道具が売れなくなる。

京都の焼きもの界にとっても明治維新は大変困難な時期です。宮川香山のお父さんも万延元年(一八六○)に亡くなり、お兄さんも相次いで亡くなる。京都時代の香山は一種のうっ屈した状態というか自分の将来が見えない。大変技量のある、頭の切れる人だったようですが、自分の使い所が見出せない、そういう焦燥感があった。

篠崎 きっと新天地を求めたんでしょうね。

二階堂 ええ。そのために鹿児島に来ないかとか、あるいは岡山の近くに虫明(むしあげ)という所があり、岡山藩の首席家老の伊木忠澄という人が、自分の領地に経営していた虫明焼の指導に行ったりしている。 その後、明治三年に京都に戻り、同じ年に横浜へ移ってくる。「私なりの道を」ということだったんですね。

 

  庚台に窯を開き関東一円を歩いて陶土を探す

篠崎 輸出用の陶磁器をつくるために、横浜に移り住んだわけですね。

二階堂 明治政府は、日本の産業では陶磁器が生糸や茶に次ぐ有力な輸出品になりうると考えていました。ヨーロッパでは、十九世紀の半ば以降、ジャポニスムが流行していましたから、江戸時代の慶応二年(一八六六)のパリ万国博覧会でも日本の陶磁器がかなり注目を浴びていたんです。

篠崎 横浜には文化的伝統もないし、土もないですよね。

二階堂
「陶器製作所 真葛香山」
「陶器製作所 真葛香山」
(横浜緒会社諸商店之図から)
神奈川県立歴史博物館蔵
関東地方にはそれほど有名な陶器の産地は、当時はなかった。例えば益子、笠間とか、その地域によって地元で使われるものを焼く小さな窯はありましたが、京都とか瀬戸、有田、あるいは多治見のような大きな流通圏を持つ焼きものはなかった。土がないということです。それから釉(うわぐすり)の材料も最初はもちろんない。

ですから、予想以上に窯を開くことは大変だったようです。香山の晩年の聞き書きの記事などを読むと、香山を横浜に誘ったのは、薩摩藩の御用達であった梅田半之助、あるいは横浜に住んでいた実業家の鈴木保兵衛でした。 彼らは「壁土でも焼けば焼きものになると思っていた」と香山は言っています。

土は、さまざまに合わせたり、釉との兼ね合いとか、大変に難しい。関東一円を歩いて土を探し、伊豆の白い土と南太田の赤土をまぜて、やっと焼きものをつくる土を調合することができた。それから釉の材料になる木灰も、あちこちの木を切ってきては焼いた。灰を得ても窯がないので近所の鍛冶屋のふいごの中で焼いて試したという話があります。

篠崎 なぜ南区の庚(かのえ)台に窯場をつくったんですか。

二階堂 これという証拠はなかなかないんですが……。

田邊 そうですね。鈴木保兵衛の千坪ぐらいある所有地で、ということだと聞いたことがありますが。

二階堂 庚台は山の上だから、煙の出る窯をたいても支障はない。そして赤土が南太田でとれること、保兵衛の所有地でもあり、適地だったんじゃないでしょうか。

 

  南区別所の粘土を使った初期の作品も

二階堂 赤土といっても一色ではなく、さまざまあるんでしょうね。

井高 そうですね。赤土は有機物が入っていても、ほかの木節(きぶし)土などの精製された土を混ぜて使っています。だから、ずっと後の明治三十年頃の香山の書類を見ると、尾州石とか多治見方面の長石を取り寄せています。 赤土単独ではだめなんです。南区の別所(べっしょ)に粘土が出るという地主さんがいて、香山が使ってくれたと言っています。

二階堂 焼きものをやる人は自分の住んでいる所の裏山とか、近くに土があるかないかは熟知しているんです。自分で探しに行ったりします。それで、京都の人たちは、京都の東山辺りにはどういう層があって、どういうものに向く土があるとか、丹念に調べているんです。ですから、関東一円はもちろん、横浜の近辺も香山は土を探して歩いたに違いないですね。

井高 別所の土は真っ白ではなく、ぷつぷつがいっぱいあり、本焼きをやってます。

田邊 そのぷつぷつの土で薩摩風のものを焼き、ぷつぷつが、そのまま出ているんです。でこぼこしている。最初の時期のものです。

 

  スタート時点の真葛焼は十人ぐらいで

井高 初めは、そんなにたくさんつくらなかったんでしょう?

二階堂 と思いますね。ですから、明治四年に窯を開いたということですが、これも田邊さんと時々お話しするんですが、スタート時点の真葛焼は、本人や京都からの職人を入れても大体十人ぐらいじゃないか。

明治十年の内国勧業博覧会では、出品目録の中に十七、八名が出てきます。絵付をする人、ろくろをひく人、初代の香山、息子の半之助も含めてです。もちろんそのほかに下働きをする人もいたでしょうから、明治十年ぐらいには二十名を超えるくらいが真葛焼の製造所の陣立てだったと思います。

ですから、最初の明治四年で、膨大な量の土をストックして焼きもののために確保するというほどの必要性はまだまだなかったのかなという気はしますね。

よく勘違いされますが、明治十、十一年、横浜には絵付工場がたくさんありました。絵付というのはでき上がったもの、素焼きのものに絵付をして、釉をかけて焼いて外へ出す。香山は絵付だけしていたわけじゃないんです。 ご参考までに、横浜の絵付業について申し上げますと、最も早いのが明治八年頃に陶磁器店を開いた松石屋井村彦次郎で相生町などにあった工場では二百余名の職工が働いていたといいます。


彫刻的な装飾を施した作品で世界に雄飛

篠崎 最初から輸出用陶磁器として海外に出荷されたわけですが、真葛焼という名前をつけて売り込んでいく上では、どういうふうに特徴づけて売り出したんですか。

田邊 僕が一番研究していたところがそこなんです。青磁、仁清意とか香山の少し時代の下ったものはたくさんあります。ところが、明治三、四年から明治十四、五年 までの資料というか研究材料がなかった。作品がない空白の時代だったんです。

文献を見ていて、「けだしみるもの値を問わず購入せしめんとする」という記事に出会った。我々がこれまでたくさん見ている作品が、世界を席巻したと思えないので、この記事に非常に疑問を持った。それで本格的に研究してみようと思ったんです。

今までの展覧会の図録には香山の青磁や染付が掲載されている。それらは日本の発明ではなく、中国の技法ですから、これで世界を席巻するようになったとは誰が考えてもおかしいと気がつく。 でも、相も変わらずその辺を根底にして香山の展覧会をやっていました。

 

  七、八歳のとき底に見事な竜の浮彫のある筆洗をつくる

田邊
「盛絵金彩花枝ニ鳩高浮彫花瓶」
「盛絵金彩花枝ニ鳩高浮彫
花瓶」

田邊哲人氏蔵
幸いなことに、みんなの目が青磁などに向いているとき、空白だった時代の品物が手に入ったんです。かなりデコラティブなものです。中には論評で、奇をてらうとか、いろんなことを言われていますけど、当時の作家は、江戸文化の延長ですからね。江戸文化は蒔絵一つ見ても、あるいは刀の小柄(こづか)、笄(こうがい)を見てもわかるとおり、みんな盛り上がっていて自分を主張するようなものです。 平坦なものは余りない。

真葛香山は、七、八歳のときに、池大雅を継いだ大雅堂義亮の所に絵の勉強に行ったんですが、そこで義亮に「虎(香山の幼名)、わしに筆洗を一つつくってもらえないか」と戯れに言われた。 ただの筆洗なら筆を洗うだけでいいんですが、底に竜の浮彫をつくった。それをつくり上げて乾かして、どこで焼いたかというと、父親の長造の炭置場で焼くつもりで火をつけた。そこに長造が帰ってきて「おまえ、何やっているんだ」と急いでその火を消して中を見たら、筆洗に見事な竜が出てきた。長造は、十歳にも満たない子供が「何だろう、これは」とびっくりし、白い釉をかけて焼き上げてやった。それで大雅堂に「よくできたな」とほめられたというエピソードがあるんです。

これは、高浮彫とか盛り上げとか、いろいろ言われていますけど、彫刻じゃないかなと思うんです。箱を見ると、時々、彫刻と彼の字で書いてある。初期のものは非常に共箱が少ないから、これはどうしても集めなきゃならないなということで、黙々と研究していたのです。

ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館の「鷹高浮彫花瓶」と、東京国立博物館の「色絵蟹高浮彫水鉢」は世に知られています。けれども、その前後のものが全然ないんです。空白なんです。



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